二十一歳④
「……もっと力を込めても大丈夫ですよ」
フラムアークの腰に手を回しながら遠回しにそれを伝えると、苦笑混じりに諭された。
「血が荒ぶっているって言ったでしょ? そういう状態の男にそんなこと、軽はずみに言っちゃダメだよ」
「みだりに言っているわけじゃありません。相手がフラムアーク様だから言っているんです」
「オレだって、男だよ」
「……。知っています」
「……表面的な意味じゃなくて」
「……。分かっています」
「……。それ、本当に意味が分かって言ってるの?」
「…………。はい」
消え入りそうな声を返した私は、そこはかとなく漂い始めた濃密な空気を振り払うように顔を上げて、口早にまくし立てた。
「あの、妙なことをさせようとしているわけではなくて、ただもっと、ざっくばらんに思うところをぶつけてほしいというか、必要以上に気を遣わずに接してほしいというか……! もうちょっと遠慮せずに来てもらいたいというか、不安定な時はもっと甘えて頼ってもらっていいんですよと、そういうことが言いたいんです!!」
目をまん丸にしてそれを聞いていたフラムアークは、私の剣幕に堪えきれなくなった様子で吹き出した。
「ぶっ……ちょ、ユーファ、顔が必死過ぎ……」
も……もぉ~~~!! こっちは大真面目で言ってるのに!
私は顔を真っ赤にしながら、小さく肩を震わせている彼に半分やけになってしがみついた。
「分かったらもう、遠慮せずに来て下さい! ちょっとやそっとじゃ壊れませんから!」
均整の取れた身体が、微かに強張った気がした。そう感じたのは一瞬で、次の瞬間には私は彼にきつく抱きしめ返されていた。
息が苦しくなるくらいの抱擁。こんなにきつくフラムアークに抱きしめられたのは、再度彼の宮廷薬師になることを任命されたあの時以来だ。
密着した身体から衣服を隔てて伝わる互いの質感。体温が交わり、鼓動の響きまでが感じ取れて、包み込まれる彼の香りに否応なくあの夜の記憶が思い起こされた。
―――あ……。
表情を繕うことは出来ても心拍数をごまかすことは出来なくて、忙しない心音がフラムアークに気付かれないか不安になりながら、でもそれ以上に彼が歩み寄ってくれたことが嬉しくて、そのことに満ち足りた気持ちを覚える。
「絶対に、無事で帰ってくる……こうしてまた、君をこの腕に抱きたいから」
耳元で紡がれる、少しかすれた低い声。フラムアークの胸に頬を押し付けているから彼の表情は見えなかったけど、声の響きからあの夜と同じ顔をしていることが想像出来て、その瞬間、胸の奥底に押し込めていた何かが一斉に溢れ出てきた。
「ユーファ」
いつもより低いフラムアークの声の響きに、ぞくぞくと兎耳の柔毛が逆立つ。フラムアークは私の側頭部に頬を押し付けるようにして私の長い耳に唇を寄せ、声量を抑えた苦しげな声音で何度も何度も私の名前を呼んだ。
「ユーファ―――ユーファ……!」
その声に、感情が深く揺さぶられる。ぎゅっと目をつぶり、彼を抱きしめ返す腕に力を込めることでそれに応えていた私は、耳に彼の唇が触れた感触にビクッと腰を跳ね上げた。
あ……っ……。
見上げた先に橙味を帯びたインペリアルトパーズの光が降ってきて、狂おしさを内包したその輝きに胸を射抜かれる。
「―――好きだよ、ユーファ」
耳に残る感触が熱い。注がれる眼差しが、じりじりと胸を焦がす。
もう今までと同じ気持ちで聞けないその言葉に私は胸を震わせながら、条件反射的に今までと同じ言葉を繰り出そうとして―――それがひどく難しいものであることを悟った。
だって、私の意識も今までとは違うから。
返す言葉の意味も、根本的な部分がこれまでとは異なってしまうから。
そんな瞳で見つめられたら、そんな声で囁かれたら、平静を装って返すのは、もう、至難の業だ―――……。
「私も……貴方のことが、好き、です……フラムアーク様」
たどたどしく答えながら、どうしようもなく自分の頬が朱に染まっていくのが分かった。
ダメ、もう表情を繕いきれない。誤魔化しきれない。どうか、気付かないで―――。
祈りにも似た私の思いは、届かなかった。
目の前のフラムアークの表情がゆっくりと驚きに彩られ、彼が小さく息を飲む気配を感じた瞬間、それが叶わなかったことを悟った私は、慌てて顔を伏せた。
「あ―――で、では、私はこれで―――遅い時間に申し訳ありませんでした、おやすみなさいませ―――」
慌ただしく口上を述べ、彼の胸を両手で押すようにして離れようとした私の腕をフラムアークが掴んだ。
「待って、ユーファ―――顔を見せて」
「そんな、改めて見せるようなものでは」
私はどうにかこの場を逃げ切ろうとしたけれど、フラムアークはそれを許してくれなかった。巧みに頬を捕われて顔を上向かされてしまい、全てを見透かそうとするような橙黄玉の双眸の前に晒される。それを直視出来なくて、私は精一杯顔を背けながら彼に訴えた。
「っ、気にしないで下さい。私も貴方と同じで少し気持ちが昂っているんです、それが変に出てしまって」
「……。それは、こういう夜だから?」
「そうです。私はその、こういう決戦前夜のような雰囲気は初めてなので……」
「……。君のこんな顔は、初めて見た」
―――現実では。
唇だけを動かして刻まれた、空気に溶け消えるような、人間の聴覚であれば届かなかったであろうフラムアークの独白を、私の兎耳は拾ってしまった。
―――フラムアークは、覚えている? あの夜の出来事を―――夢として?
思わず動揺してしまいながら、そんな自分を彼が注視している気配を感じて、それをどうにか押し隠さねばと変に気負ってしまい、更に心乱れてしまう。
私は今、あの時と同じ顔をしてしまっているの?
頬に触れる厚みのある大きな手と、注がれる眼差しが熱い。もはや表情を取り繕うことなど不可能で、私は必死に視線を逸らしながら、何とか彼の眼差しから逃れようと身をよじった。その時だった。
あっ―――!
「! ユーファ―――」
足がもつれてバランスを崩してしまい、大きくよろけた私を支えようとしたフラムアーク共々、背後にあった寝台の上に倒れ込んでしまった。
軽い衝撃と共に背に敷布の感触を覚えながら目を開けると、私はフラムアークの影の下にいて、目の前には呼吸を止めてこちらを見下ろす端整な彼の面差しがあった。
まるであの夜の再現のような構図―――大きく違うのは私も彼もお酒の影響を受けておらず、素面だということだ。
私を挟むようにして寝台に両手をついたフラムアークはどこか茫然とした様子で、敷布に髪を散りばめて横たわる私を真上から見下ろしていた。
な、何ていうタイミングで、何ていう体勢―――!
愕然としたまま、為す術のない私はただひたすら息を詰めてフラムアークが自分の上からどいてくれるのを待っていたのだけれど、彫像のように静止してしまった彼は、こちらを凝視したまま動き出す気配を見せない。
もしかしたら、この状況に既視感を覚えているの……?
そんな思いが頭をかすめたけれど、この状態が長引くのは私の心臓的に厳しい。フラムアークが身体をどかしてくれないと起き上がれない私は、なるべく平静な顔と声を装って彼に呼びかけてみた。明らかに頬が上気しているのは、この際仕方がないと割り切って。
「……あの、フラムアーク様。すみませんが、どいていただけますか」
そこで初めてハッと肩を震わせた彼は、次の瞬間みるみる頬を赤らめると、珍しくあからさまに動揺した様子を見せながら、ぎこちなく身体をどかした。
「―――っ、ああ、ごめん……」
伏し目がちに瞳を逸らした彼の頬ばかりか耳までが赤く染まっているのが見えて、私は驚くと同時に胸がきゅうっとするのを覚えた。先程までとのギャップも相まって、その様子をひどく可愛いと感じてしまう。
さっきまであんなに躊躇なく触れていたくせに……こんな反応をするの?
「いえ……すみません、私がよろけてしまったばかりに」
起き上がりながらそう詫びるとフラムアークは首を振り、口元を片手で覆った。
「いや……オレが悪い。ごめん。何ていうか―――その、色々」
ちょっと気まずそうに言葉を濁しながら、彼は悩ましい吐息を漏らした。
「ダメだな、やっぱり―――気が昂っていて、平常時と同じではいられない。でも、オレを思ってくれるユーファの心遣いはスゴく嬉しかったから。ありがとう」
いつもの姿に立ち戻って微笑む彼に、私はまだ先程の余韻に騒ぐ胸を押し隠してかぶりを振った。
「気にしないで下さい。それを承知で願い出たのは、私なんですから」
それを聞いたフラムアークは心からホッとした様子を見せた。
「良かった。怒られちゃうんじゃないかと思ったから」
安堵からこぼれ出た素の笑顔に、また胸がきゅうっと締めつけられる。自分の中に目まぐるしく湧き起こる感情に収拾がつかなくて、私は密かに困ってしまった。
「自分が言い出したことの結果に怒ったりしませんよ」
「じゃあ、もう一回ギュッとしても?」
冗談めかしたその物言いにドキッとしつつも、これが場を和ませる為の心遣いと理解した私は、精一杯すん、とした表情を作った。
「それには教育的指導を発動させていただきます」
「はは、それは残念」
フラムアークは軽く笑ってこの話を終わらせると、私にこんな提案をした。
「ねえユーファ、この件が無事に片付いたら、宮廷に戻る前に君の故郷ガーディアへ立ち寄ってみないか?」
「えっ? ガーディアへ?」
思いも寄らぬ申し出に瞬きをすると、フラムアークは頷いてこう言った。
「うん。ここからそんなに遠くないし、またとない機会だから。せっかく自由の身になれたのに、ユーファはまだ一度も帰郷出来てないでしょ?」
確かに……何だかんだ忙しくて、まとまった休みを取ることが難しい状況が続いていたものね。
「嬉しいですけど……いいんですか?」
「うん。オレもどうせならユーファと一緒に行ってみたいって思っていたし、きっとスレンツェもそうじゃないかな。それに、ここを頑張ったらこういうご褒美が待っていると思えば、より一層頑張れる気がするから」
そういうことなら、私的にもありがたい話だわ。
「分かりました、そういうことでしたら是非。楽しみにしています。その為にも絶対に無事で帰って来て下さいね」
「了解。約束は守るよ。ユーファにそう教えられてきたからね」
フラムアークが差し出した小指に、私はそっと自分の小指を絡めた。そんな私を見つめて、彼は改めて約束の言葉を口にした。
「絶対に無事で帰ってくる。―――好きだよ、ユーファ」
甘やかな眼差しでもう一度、不意打ちのようにそう告げられて、上手く呼吸が出来なくなる。そのタイミングで小指をくんと引っ張られて、軽く前のめりになった私の額に、フラムアークの唇が柔らかく押し当てられた。驚きで二の句が継げずにいる私に、彼はどこか艶を感じさせる悪戯っぽい笑みを向けて囁いた。
「―――おやすみ。また明日」
その後、どうやって彼の部屋から退出したのか、私はよく覚えていない。
気が付けば空になった薬湯の椀を持って、いつの間にか調理場に佇んでいたという、そんな有様だった。




