子守唄④
「―――チェル、レインチェル」
「……んぅ、なに…」
「レインチェル、ご気分はいかがですか?」
「え、はい!?」
霞がかった脳と視界が、霧が晴れる画の如く徐々に正常に戻っていくと、レインチェルは勢いよく上体を起こした。
「いった!」
「失礼」
余りにも勢いが良すぎたせいか、ガツン、とレインチェルの顔色を正面から窺っていたヌワラエリヤの額と正面衝突を起こし、視界に軽く火花を散らした。被害を被った側のヌワラエリヤは特に痛みを訴えることもなく額を押える。
「……あれ、アタシ」
どうやら気絶して公園のベンチに寝かせられていたらしい。いつの間にか道化師の見世物は終わっていたようだ。公園は大道芸が始まる前の静けさを取り戻しており、砂糖菓子を売りに来た屋台も消えている。さわさわ、と気持ちの良い風が公園に吹き、ふぅ、とレインチェルは小さく息を吐きながらポリポリと額を掻くと―――突然大声を上げた。
「あの二人は!?」
レインチェルは鼻息荒く周囲をキョロキョロと見るも、パロとストロの二人がいないことに安堵して大きく息を吐いた。
「あ~、良かった。帰ったのかあいつら。本当に良かった。ヌワラエリヤ、怪我はないかい?」
レインチェルは心底安心したような表情を見せると、ヌワラエリヤの頭を優しく撫でた。怪我をしているのは貴女の方でしょう、と苦言を呈そうとしたヌワラエリヤであったが、その表情が余りにも優しく見えたので、何も言わずただ行為を受け入れた。
ふと、レインチェルがお腹の辺りに何かが乗っていることに気が付く。刺繍入りのハンカチだ。一体誰のものだろうか。濡れているがよく絞られているようで、ほんのりと熱を帯びている。
もしや、とレインチェルは額に指をあてるとやや濡れていることに気が付く。どうやら熱冷ましとしてヌワラエリヤが置いてくれたらしい。ありがとう、と彼女が礼を言うと、ヌワラエリヤは違います、と頭を振った。
「それは私が行ったものではありません。あの道化師です」
「えっ?」
ヌワラエリヤは彼女が気を失った後の顛末を話した。道化師が助けてくれたこと。パロとストロが逃げ出したこと。その後、なんとあの道化師がレインチェルを抱えてベンチへ寝かせ、土埃を払い、どこからか汲んできた水で絞ったハンカチで額の汗を拭ってくれたことを。
そして、名前を聞こうとしたが、「僕はただの道化師です。ですが、またお会いしましょう」とだけヌワラエリヤに告げ、商売道具を抱えながら公園を立ち去ったことを。
「―――惚れた」
「はあ?」
「―――はあ?」
何よその話のオチは、とローズマリアは文句を言いながら、すっかり冷めきった紅茶を胃に流し込んだ。読み終わった新聞紙を綺麗にたたみ、机の端に置く。
「まぁ、だいたい理解したわ。その道化師がハンカチの君とやらというわけね」
「ん~、まあ、アタシが勝手に呼んでるんだけどさ~。名前も名乗らずに去っていくなんて……どう呼べばいいかもわからないし。それでもあの甘い声は確かに覚えてるのさァ…「僕を信じて」って。あれは絶対に顔がいい男の声だね……だからアタシは呼んでるんだ、ハンカチの君と」
言っちゃった言っちゃった、とレインチェルは口元を抑え乙女のように飛び跳ねた。いや、乙女がみな飛び跳ねるとは一概に言えないが、ローズマリアの目には恋に浮かれる乙女のようにしか見えなかった。
その様子に、ローズマリアは、ハァ、と小さく息を吐くと、レインチェルに茶器を片付けるように促しながら、とある一言を付け足した。
「―――ハムサンド」
「え?」
「聞こえなかったのかしら。お肉多めのハムサンドよ。私の好きなサンドを作ってくれるのでしょう?
「え、あの、え?」
「ヌワラエリヤ!」
「はい、お嬢様。一度髪を梳き直した方がよいかと。少し毛先が乱れております」
「あらそう、ならお願いするわ」
「え? え?」
え、え、え、とレインチェルは二人の小気味いいほどテンポのよい会話劇をただただ見届ける。一体全体どんな心境の変化だ、とレインチェルは困惑した様子で二人の顔を交互に見比べた。
その表情がおかしかったのか、ローズマリアはくすりと微笑むと、改めてレインチェルに向き直る。
「いい? Ms.私は希望通り答えたわよ。それで、貴女は何がご所望だったのかしら?」
男を試すような蠱惑的な微笑み。本当に、一体何を考えているのか。レインチェルは胸中に少しばかりもやを抱えながらも、恋い焦がれるハンカチの君のことを思い浮かべ、高らかに声を張り上げた。
「ピクニック!」