子守唄①
「ピクニックに行こう」
とある秋晴れの昼下がり。昼営業最後の客を見送り、刺繍入りのハンカチを愛おしそうに握りしめながらレインチェルが口を開いた。あの満月の晩より二週間。相変わらず宿屋としての客入りは殆どないが、料理屋としては、昼と夜の営業時間に常連が入れ替わりで顔を出してくれる程度に昔の活気を少しずつ取り戻しつつある料理屋兼宿屋【止まり木】。事件解決のあの晩のように、全ての常連が一気に来店する状況が続けばもう少しまとまった金が手に入るのだが……とレインチェルは思う時があるが、これから冬を迎えるには十分すぎる程の金が手に入っている現状に対し、これ以上高望みするのはバチが当たるものだ、と自分に言い聞かせる。そもそも、一人で切り盛りするには限界がある。
鼻歌交じりに食器を洗い、すっかり腫れの引いた足で床をトンと叩きながら、「で、どうかな?」と彼女はカウンターに座る二人の少女に呼びかけたのであった。
「あら、ずいぶん唐突なお誘いね」
「お嬢様の財布目当てですか?」
「言い方!」
余りにも辛辣すぎる銀髪の少女、ヌワラエリヤの物言いに対してレインチェルが抗議の声を上げる。その様子を眺めながら、金髪の少女、ローズマリアは黄金の長髪をふわりと揺らすようにしてくつくつと笑った。
見目麗しい金と銀の二人の少女。その正体は人形遣いとその人形。自我を持ち、己の意思で動く【至高の人形/アンティーク】であるヌワラエリヤ。見た目は普通の人間にしか見えないのだが、骨の代わりに鋼を、肉の代わりに針金を、血の代わりに水銀を流す無敵のお人形が彼女の正体なのだ。そして、彼女が最大の敬意を払い、全身全霊を以て守護する主人がローズマリア・ハイネンヴェルゼ。【愛しのご主人様/パドローネ】を名乗り、ヌワラエリヤと共に在る謎多き少女。道を歩けば誰もが振り返る程の非常に整った、天使のような愛らしい容姿と声とは裏腹に、どう見ても子供のそれとは思えない程の優雅な立ち振る舞いや物言い。そして何よりも化物相手に全く臆さない胆力を持った人形遣い。「見た目だけなら最高」とはレインチェルの談である。
宿屋の主人、レインチェルがこの二人を宿泊させるようになってから早二週間の月日が経つが、あの晩以来、少女たちは一日中部屋から出ないこともあれば、突然宿屋を飛び出して、夜にガッカリした表情で帰路につき、翌朝には八つ当たりのように自分をからかってくるなど、客でなければ深く関わりたくないような奇行が目立つ。確かに、怪我をした自分に代わって買い出しや用事を済ませてくれるのは非常にありがたいのだが、バケットを買いに行くだけで二日程行方をくらましたのはさすがにどうかと思う。どこから来たのか、本当に物見遊山だけでこの国を訪れたのか、等々、レインチェルの二人に対する疑問は尽きないが、金払いの非常に良い上客でもある少女たちを無理に詮索することはなく、「ただの変人二人組」として扱っている毎日だ。
仮にも命の恩人である少女たちに散々な評価の下しようであるが、そのようなものお構いなし、といった様子でレインチェルはローズマリアの肩を揺さぶった。
「ほらほら行こうよ気晴らしに。こんなにいい天気なんだから、外に出ないのは損ってっもんだ」
「行かないわ。ご存知かしら、人間は歩くと疲れるのよ?」
「旅人が言う台詞じゃない!」
「あら、面白い記事があるわ。人形師の下に夜な夜な黒づくめの、」
「あーもういいからそういうの!」
体が揺れるせいか声まで小刻みに震わせながらも、ローズマリアは読みかけの新聞紙から目を離さず、のらりくらりと曖昧な返事しか返さない。その態度にレインチェルは眉をハの字に歪めながらヌワラエリヤへと視線を移すものの、「お嬢様が行かないのに私が行くわけないじゃないですか」と、さも当然のように切り捨てられてしまった。
しかし、レインチェルは諦めなかった。棚から取り出したバスケットを取り出し、芝居がかった口調で再度二人を誘う。
「いいじゃないか! 青空の下、貴族の真似事なんかしちゃってピクニック! バスケットにはハイネンヴェルゼさんの好きなサンドだって詰め込んであげる! よし、最高だ。行こう!」
―――あまりにも、あまりにも不自然な宿屋の主の態度に、ローズマリアは表情こそ変えないものの、少しばかり冷ややかな視線を向けずにはいられなかった。
正直な話を言えば、ピクニックに行くこと自体はやぶさかではないローズマリア。ただ、レインチェルの態度が気に食わない。その一点で、頑なに彼女は首を縦に振らなかった。
何かを隠している。有り体に言えば、非常にそわそわしている。普段はつけないような香水をつけ、身なりだっていつもより整えている方だ。怪しい。自分たちが何かのダシに使われようとしている。
そんなレインチェルの下手くそな芝居に嫌気が差したローズマリアが苦言を呈そうとしたその時であった。
「―――ああ、わかりました。あのハンカチの君にもう一度会いに行きたいのですね」
「うっく!」
胸を刃物でえぐられたかのように図星を突かれたレインチェルは、空のバスケットを高々と放り投げながら床に倒れ込んだ。
「ヌワラエリヤ。説明してちょうだい」
「はぁ、あれは先日レインチェルと買い出しに赴いた時のこと…」
先程まで陽気な店主だったものを視界の下の方に収めながら、ヌワラエリヤは淡々とした口調で以前起きた出来事を語り始めた。
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「ヌワラエリヤさん、これでもアタシは客人をもてなす宿屋の主だ。その大事なお客様にこうも甘えてばかりいちゃあ、天国の父さんと母さんに顔向けができないんだけどねェ」
まだ少しばかり腫れの残る足を引きずるようにして歩きながら、レインチェルは前方を歩くヌワラエリヤの背中に向け、強がりのような、申し訳なさそうな声をかけた。
彼女があの晩に痛めた右足首は、町医者の言葉を信じるなら骨にまで異常はないとのことだった。確かに酷い捻挫ではあるが、腫れに効く薬を塗っていれば十日もあれば治ると町医者は言う。しかし、良薬庶民の財布に苦し。包帯さえ貰えれば後は唾でもつけておく、と強がるレインチェルだったが、「これで足りるかしら」という涼しい声と共に、町医者の手に破格の硬貨を握らせた声の主のおかげで、彼女は薬を手に入れることができたのであった。
成程これはよく効く薬だ、と、ものの数日で腫れが引き、痛みも収まっていく。その反面、レインチェルの胸中には、出会って間もない、いまだ素性もよくわかっていない人物にここまで世話になってよいものか、という半ば後ろめたい感情が影を射すようにして渦巻いていた。
今日は金物屋へ修理に出していた鍋を受け取る日だった。特別重い荷物を運ぶという訳ではない。ただ、宿屋から目的地までちょうど互いが町の端と端に位置しているため、少々歩く必要があるのだ。普段ならどうということもない距離なのだが、右足を庇いながらの歩行は少しばかり面倒だ。杖を使えば多少楽にはなるが、片手が塞がった状態で果たして鍋をどう持ち帰るか。どうしたものか、まあ何とかなるだろう、とレインチェルが宿から出ようとしたところであった。
「ご準備はできましたか? では参りましょう」
などと、自分が同伴するのはさも当然といった様子で、ヌワラエリヤがお使いについてきてくれることになったのは。その後、時間をかけて無事に鍋を引き取り、レインチェルは杖をつき、ヌワラエリヤは鍋を両手に抱えて二人は帰路につくことになった。
「好意は素直に受け止めるべきかと思います、Ms.レインチェル。それとも貴女は今まで下心のある好意しか受けたことがなかったのでしょうか?」
相も変わらずいまいち何を考えているのかわからない表情で、ヌワラエリヤ少しばかり毒の入った指摘をレインチェルに投げた。少しむっ、としたレインチェルは、大きなお世話だ、いちいち数えていられるか、と反論しながら、歩くたびにひょこひょこと揺れる彼女の銀色のツインテールを眺める。
―――【至高の人形/アンティーク】
この国を震撼させた狼男という強大な化け物を、より強大な力でねじ伏せた無敵の人形、それが目の前の少女、ヌワラエリヤ。容姿、声、立ち振る舞い、その全てが人間としか思えない程に精巧に作られた人形である彼女だが、その渦中で見せた『ズレ』とも呼ぶべき意識の齟齬。およそ生物の思考というものを理解していない、ともすれば理解しないその自我は明らかに人間のソレとは異なった異質なものであり、彼女が人間ではない存在であることの証拠の一つとなっていた。
あの時も、ヌワラエリヤは切り落とした狼男の腕を放り捨てたことに対し、もう治ることはないのだから捨てたことは正しい、むしろ感謝するべきだ、と答えていた。なるほどその意見は確かに正しく、そして誰からも同意を得られないふざけた意見であった。まるでそれは感情のない人形のようで、レインチェルは少なからずそんな少女に潜在的な恐怖を感じていたのだが……今目の前にいる少女は、口が悪いだけ、自分の感情を表現することがただただ不器用なだけの子どものようにしか思えなかった。
今こうして互いに小言を投げ合っている最中であっても、ヌワラエリヤは決してレインチェルを置いて一人先に行くことはなく、足の悪い彼女のために、時折休憩やペースを落とすなどの気遣いを見せている。口下手なだけで心優しい少女ではないか。
はたしてどちらが本当の彼女なのか。しかし、難しいことは考えたくない、とレインチェルは小さく溜息をつきながら空を仰いだ。
「あー、いい天気だ…」
「…そうですね、青空かと」
「………そうだ、少し寄り道しようか」
「?」
レインチェルの唐突な提案に小首をかしげるヌワラエリヤ。帰りが少し遅くなるかもしれないが、特に断る理由もない、と一人頷くと、踵を返して今度はレインチェルの後を追うようにして歩き出した。
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他愛もない会話を交えながら歩くこと十数分。二人は町はずれにある森に近い広場へと辿り着いた。ベンチが数脚設置してあること以外は森に通じるだけの開けた土地である。首都にあるような、色とりどりの花が咲き乱れ、涼しげな噴水が中心に据えられた、国の税金でしっかりと整備された公園とは比べるまでもない寂しい土地ではあるが、それでも市民にとっては立派な公園であり、天気の良い日には散歩がてらに日向ぼっこに訪れる町民も少なくない憩いの場である。
友人同士で駆け回る子供たちや散歩する老人、草むらに寝転ぶカップルを視界に収めながら、レインチェルはベンチに腰掛ける。
「ふー! 休憩休憩! こんなに天気の良い日なんだ。少しぐらい怠けてもバチは当たらないだろう」
杖をベンチに立てかけ、レインチェルは思いっきり伸びをした。こきこきと体のそこかしこから小気味の良い音が立ち、気持ちよさそうにほぅ、と息を吐く。ヌワラエリヤは鍋を抱えたままその様子を見つめていたが、彼女に招かれるようにして隣に腰かけることになった。
レインチェルの例に倣い、ヌワラエリヤも腕を突き上げて伸びをしたが、特に音は鳴らなかった。
「……」
「…………」
「……あー、こほん。うちの宿の泊り心地はいかがでしょうか、お客様?」
少しばかりの沈黙の後、レインチェルはわざとらしく咳をしながらヌワラエリヤに問いかける。チラリと視線を横にずらすと、「えぇ、お嬢様はとても満足されているようです」と、少女の涼しげな答えが返ってきた。
「……そりゃどうも」
ふぅ、と小さく息を吐きながら、レインチェルは背もたれに体を預けた。そういえば、こうしてまともにヌワラエリヤと二人きりになったのは初めてかもしれない、とレインチェルは思う。ローズマリアとヌワラエリヤはいつも二人一緒にいるか、ローズマリアだけがレインチェルに接触してくる機会は今までにも多々あった。部屋にこもったローズマリアのために、ヌワラエリヤがフロントへ食事を受け取りにきた時に二人きりになったことはあるが、特に親しげに言葉を交わすこともない、所詮はその程度の関係であった。このような至近距離で、二人のんびりと時間を過ごすことは今までになかったかもしれない。
どこに焦点を合わせているのかわからないヌワラエリヤの横顔をレインチェルはじっと見つめる。しかし、見れば見る程……この少女のどこが人形なのだろうか。
さらりと伸びた美しい銀髪。整った眉に長いまつげ。吸い込まれそうな程に怪しく輝く瞳に、愛くるしい小さな唇。ある意味、顔の造形が整い過ぎてそれはそれで人間ではないと言ってしまえるかもしれないが、髪の毛や肌の質感。瞳や唇の湿り気は人間そのものである。
しいて人間との違いを上げるのであれば、恐らく呼吸をしていない点であろうか。肩や腹部を注視しても微動だにしておらず、まばたきの回数も異常に少ない。なるほど、よくよく見れば確かにこの子は人形なのかもしれない、などと一人勝手に納得した。
あぁ、しかし、見れば見る程、この二人はとても対照的で―――。
「……なんでしょうか」
自身を舐めまわすような熱い視線に気が付いたのか、ヌワラエリヤはレインチェルに顔を向けた。
「いや……まぁ、なにということはないんだけどねぇ」
「……そうですか。ずいぶん興味ありげに私の顔を眺めていたようでしたので。何かおかしな表情を私はしていたのでしょうか」
「いやいや本当に、ただあんたの顔を眺めていただけだよ。アタシ、あんたのこと何も知らないなって、思ってさ」
「―――はあ」
きょとん、とした顔つきで、ヌワラエリヤはレインチェルを見つめた。
「―――」
―――珍しいものを見た。
レインチェルの知るヌワラエリヤの表情といえば、無表情か、酷くつまらなそうな顔、何を考えているかわからない涼しげな顔か、ローズマリアにだけ向ける微笑みだけである。それが、こんなにも、いうなればハトが豆鉄砲をくらったような顔をするだなんて、思っても見なかった。普段の表情との落差があんまりにも面白くて、レインチェルは思わずくすくすと笑ってしまった。
「む、なんですかMs.レインチェル。レディーの顔を見て笑うだなんて失礼ではありませんか?」
「ははっ、いやごめん。馬鹿にしてるわけじゃないんだけどね。ふふっ」
「また笑いましたね? 失礼ですね? 失礼だと思いませんか?」
口を尖らせながらヌワラエリヤは抗議の意を示す。すると、彼女は人差し指をピン、と張り、目を細めながら「だいたいあなたはですね」と、くどくどと説教のようなものを呟き始めた。
これもまた珍しい光景である。ヌワラエリヤは普段、小言や若干棘のある物言いこそすれ、長々と嫌味や説教をするタイプではない。そもそも、普段はローズマリアの陰に隠れ、表だって積極的に発言をするタイプでもないのだ。
珍しい。まったく、珍しいものを見た。ヌワラエリヤという人形の少女は、普段はそんな素振りを見せたことがないのに、とレインチェルは少々驚く。
それにしても、レインチェルの知るヌワラエリヤの普段とは。何を以てして「普段」と言えるのであろうか。
―――あぁ、そうか。
「聞いていますか? Ms.レインチェル!」
「―――なんだよ。あんたさ、普通の女の子じゃないか」
「え……?」
驚く、という感情がヌワラエリヤに備わっているのか、レインチェルは勿論わからない。わからない……が、きっと、驚いているのだろう、とレインチェルは微笑みながらヌワラエリヤの頭を撫でた。
撫でられている本人は不満げな表情を前面に押し出しているが、決して手を払うことはしなかった。