黄金の夜④
「―――あぁ、本当にいい月夜だな、今晩は」
暗闇から届いた声に二人はハッ、と目を向ける。全身ボロボロになったマックスが、片足を引きずりながらも倒壊した木々の中からなんとか這い出してきたのだ。大きく肩で息を吸い、自由の利かなくなった体の節々に舌打ちしながらも、ローズマリアとレインチェルへと少しずつ歩み寄る。
あそこまで痛めつけてよく動けるものだ、とローズマリアはその根性にヒュゥ、と称賛の口笛を吹いた。
「へへ! 女に無理矢理乱暴するからそんな目に合うのさ、ざまあないったら!」
つい先刻の状況から一転して優位に立ったレインチェルが、相変わらず地面に這いつくばりながらも、満身創痍のマックスを囃し立てる。
どす黒い血の混じった唾を吐きながら、マックスは二人を睨み付けた。
―――その様子を、ローズマリアは無言で眺める。
どうかしたのか、とレインチェルが少々不安そうに彼女に声をかけるも返事はなく、ただひたすらに―――満身創痍でありながらも、いまだ爛々と双眸を輝かせるマックスから目を離さない。
その視線の意味を理解したマックスがいやらしく口端を歪ませた。
「あぁ―――本当に、綺麗な月夜だ」
ゆらり、ととても緩慢な仕草で彼は月を見上げたまま、その姿のまま固まる。
―――そして、異変は起きた。
「うっ…! ぐぐぐっっっ!」
マックスが両腕を抱きかかえて苦しそうにうめき声を上げ始める。全身震え出し、地に両膝をつけながら徐々に体を丸めていく。なんだ、発作か、なんなんだ! と突然の事態に混乱したレインチェルが助けを求めるようにローズマリアを見やる。すると彼女はその視線に応えて語り始めた。
「―――【狼男】。狼と人間の合いの子のような化け物/フリークスよ。この西欧の地に多く生息していてね、特段珍しい種族でもないの」
「違うそうじゃない。そこじゃないよ!」
違う違う! 聞きたいのはそこじゃない! とレインチェルが癇癪を起こしたように地面を叩き始めるが、ローズマリアはしっかり聞きなさい、と一喝する。
「その狼男という種族の特徴なのだけれど、人の皮を着るという習性があるの。あの人間の外見はね、その『他人から奪った皮』で偽装しているの。人間社会に溶け込んで静かに生きていくため、もしくは……」
「……あ、アタシみたいなのを食べるため?」
「ご明察。油断させるために最適かつ、消えても別段と不思議がられない人間の皮を殺して奪うの。おそらく、かつてはどこかに本物のマックスがいたはずよ」
「……そんな、そんなことって」
「残念ながら……じ、事実だよ」
二人の会話に弱々しいマックスの……否、偽物のマックスの、狼男の声が割り込んできた。顔面蒼白で、口からは涎を溢れさせている。ヒッ、と思わず声を上げるレインチェルを庇うようにしてローズマリアは半歩その場から動いた。
「でもまあいい……ちょうど脱ごうと思っていたんだからねこの皮は。本当はレインチェル、すぐに君の皮を奪うつもりだったが……駄目だ。もういらないよ。君たちは僕のプライドを傷つけた」
「あら……野良犬にもプライドがあったのね」
「また……言ったな。僕を、馬鹿にしたなぁ……っ!」
先程から何度も何度もローズマリアに小馬鹿にされ続けた狼男の怒りがついに頂点に達した後、う! と一際大きく叫ぶと、そのままぐったりと倒れ込んで動かなくなってしまった。
本当に何なのだ? といい加減嫌気が差してきたレインチェルであったが、
―――ぶちり。
身の毛もよだつような光景に絶句する。
ぶちり。ぶちり。皮が裂けていく音だ。目の前の獣が、己の全てを曝け出し始めたのだ。
肌が、肉が、骨が。説明するのも難しい音を立てて変形していく。
途中、その光景に耐えられなくなったレインチェルが嘔吐した。
その姿を尻目に、目の前の狼男が人型の器を徐々に捨て去っていく。
服を、皮膚を裂き、人間のものとは比べ物にならない獣の体毛が、腕や足だけでなく、体全体を覆う。
肥大化した全身を覆うその灰色の体毛が、夜風になびいて月光に映える。
人間という器の原型を留めていた頃の、何と矮小なことか。
もはや数倍にも膨れ上がった躯体。その姿、まさに化け物。
―――狼男。
まるで御伽噺の絵本から飛び出してきたかのような目の前に現れたソレは、まさにメルヒェンに生きる狼男の姿そのものであった。
「ぅ……あう、ぁ……」
レインチェルに脳髄へと直接氷水をかけられたかのような異常なまでの寒気が襲い掛かる。けたたましく歯を打ち鳴らし、地震でも起きたかのように全身が震え出す。息がつまり、満足に呼吸ができない。苦しさから、思わず心臓を押さえつける。
―――化け物だ! 化け物だ! 化け物だ!
なんだアレは。なんなのだ! あんな生き物が、この世に存在するのか!? と、彼女は驚愕しながら目の前の化け物にただただ目を見開く。
その視線に気が付いた化け物が、ニコリ、と笑った気がした。
「……ふぅ、しばらくぶりに皮を脱いだ。名残惜しかったが、脱いでみたらそれはそれで案外どうでもよくなるものだな」
「そうね、もう獣臭を誤魔化す香水なんてつける必要なんかないわ」
「ふん、やはり、口ぶりからすると僕が狼男だということを既に君は見抜いていたようだな。いったいいつから?」
「さぁて……どこかしら、ね」
そう言って、ローズマリアはヌワラエリヤに構えさせる。
「無茶だ!」
レインチェルが悲痛な叫び声を上げる。
「見ていただろう、あのおぞましい変身を! あんな化け物に適いっこない!」
いったい人間の皮でどのようにして押さえつけていたのかは知らないが、マックスという人物の外見を思い出せない程に、この化け物の体躯は普通の人間より一回りも二回りも大きいのだ。
見よ、あの大きく尖った鉤爪を。部分的に狼男の本性を現していた頃の倍はある。あんなもので襲い掛かられたら、飴細工の比ではない程に簡単に切り裂かれてしまうであろう。なのに、何故この少女はこんなにも余裕の態度をとったまま逃げようともしないのか。
―――アタシのせいだ。
わかっている。レインチェルはわかっているのだ。ローズマリアという少女が、自分を守るために立ちはだかり、自分を不安にさせないためにその態度を崩さないことを。何故こんな、たった一日泊まって、たった数度会話を重ねただけの自分を命がけで守ろうとするのか。何故なのか! レインチェルは情けなさと申し訳なさでローズマリアを見上げることができない。
そんな彼女の心を見透かしたかのようにローズマリアは口を開いた。
「そんなの、当たり前じゃない」
ふわり、と。黄金の長髪を揺らしながらレインチェルへと向き直る。
「あなた、初めて出会った時に私のこと助けてくれようとしたじゃない。悪い狼が出るかもしれないから危ないからって、すぐに私の手を引いてくれたじゃない」
「―――」
そう言って愛おしそうに右手をさするローズマリアを見上げながら、レインチェルは絶句した。
『……情熱的な歓迎ありがとう』
『おバカ……!』
―――たった、たったあれだけのことで!?
そう、たったそれだけのことで、ローズマリア・ハイネンヴェルゼはいまだこの場に立ち続けるのだ。恩義には、より大きな恩義を持って返す。その彼女の信念に、レインチェルは涙が溢れるのを堪えきれなかった。
「さて、茶番は終わりかな」
そう言って、狼男がその巨体をゆっくりと進ませ始めた。既に傷は癒えている。ゆっくり、ゆっくりと、目の前の矮小な獲物を狩るために、楽しみを一瞬で終わらせないためにゆっくりと地面を揺らしながら歩く。
「お行き! ヌワラエリヤ!」
その進撃を止めるべく、ローズマリアの手によってヌワラエリヤは弾丸のように飛び出す。その勢いを利用した重い蹴りが狼男に炸裂。そのまま、十指で複雑な軌道を描きながら指示を出し、一気に何十もの体術を繰り出していく。
何十発目の直撃であったろうか。防御の構えを取ろうともしない狼男の腹部に、先程のハンマーのような拳がめり込んだが……、
「そんなものか、人形遣い」
まるで効いていない、という様子で、狼男はヌワラエリヤの伸びきった右腕を掴む。ミシミシという音が今にも聞こえてきそうなぐらいの強い力で握り続ける。なんとか振りほどこうとするローズマリアであったが、まったくびくともしなかった。
「ちょっと、あなたが一生稼いでも買えない程に価値があるのよ、その子は。そんなに粗野に握って壊れでもしたらあなたどう責任をとるの? 離しなさいな」
「……あぁ、もちろん離してやるさ」
何故か素直に応じた狼男がその手を離す。離した瞬間に―――、ローズマリアとヌワラエリヤの二人をつなぐ銀糸にその大きな鉤爪を振り下ろす。
―――斬。
十本の銀糸全てが簡単に切り裂かれ、断面部分からハラリハラリ、とゆっくり地に落ちていく。試しにローズマリアは右指を一本動かしたが、ヌワラエリヤはうんともすんとも応じなかった。
「最初からこうすればよかったんだ。いかんせん、人形遣いと殺りあうのは初めてだったものでね、そもそも操り糸を断ち切ってしまえばいいという発想が出てこなかった。しかし、随分あっさりと切れる安い糸じゃあないか。サーカスのマリオネットの方がもっといい糸を使っているんじゃないのか? まぁ、それは別として―――」
動かなくなったヌワラエリヤの脇を通り抜け、狼男がローズマリアへ向けて再び歩み始める。
「―――人形を操っているか弱い人間の方を倒してしまいさえすれば良いとも、ね」
「……そうね、その通りだわ」
口端を大きく吊り上げながら、狼男はローズマリアを見下ろした。
―――馬鹿め! 馬鹿め! 矮小な人間! 小さな女の子! 僕の勝ちだ!
勝利を確信した狼男が、これから先に起こることを想像して涎を垂らし始める。
―――あぁ、とくにこの女。この子供は本当に許しておけない。僕をあんなにも馬鹿にして! 殺してください、と懇願するまで痛めつけてから食ってやる!
血が一点に集中していくのを感じながら、狼男が舌なめずりをする。彼女たちにとってどうしようもなく絶望的なこの状況。目の前の化け物に対抗できる唯一の手段が文字通り断たれたのだ。震え出し、恐怖のあまり泣き出してしまってもおかしくない。
―――だというのに、ローズマリアは表情を崩さない。
ハッタリか、それともプライドか。どちらでも関係ない、と狼男は半ば呆れながら歩き続ける。
「終わったわね……」
「ハイネンヴェルゼさん……いいんだよ、もう」
「そうだ、もう終わりだよ、君たちは。糸が切れた人形を操るというのなら話は別だがね」
狼男が、ついに二人の元へ辿り着く。月光をその背に負いながら、ゆっくりと鉤爪を振りかぶっていく。
「終わった……案外短かったわ」
「いや、僕相手によく持った方だとは思うよ。そこだけは褒めてやろう。では……」
さよならだ、と短く告げた狼男がその手を振り下ろした。
風を引き裂きながら、二人の視界に大きな大きな鉤爪が迫ってくる。レインチェルはグッ、と目を塞ぎ、ローズマリアは静かに目を閉じると……、
「―――調整は終わったわ。気分はいかが? ヌワラエリヤ―――」
『yar.mour padrone!/はい、私の愛しのご主人様』
「なっ!?」
―――ありえない方向から、あり得るはずのない声が届いた。
幻聴か!? と狼男が、レインチェルが、狼狽しながらも同じ方向に目を向ける。そこにいるのは銀髪黒衣のお人形。ローズマリアが操っていたものの、糸が切られたために動けなくなったはずの―――。
「邪魔です。どいてください」
その目で真偽を確認する前に、狼男は突如自ら動き出した人形―――ヌワラエリヤに尻尾を掴まれ、根元からちぎれそうな程の剛力で放り投げられた。咄嗟に狼男は地面に落ちていた糸に手を伸ばすものの、そのようなもので勢いが止まるはずもなく、見事に中を舞った。
「お、お、お、お!?」
事態を全く把握できない狼男が、浮遊感の後に地面に強く打ちつけられる。何だ、何だ、いったい何が起こっている! と、見上げる先にあるものは銀色の双眸。見るもの全てを凍りつかせるような瞳で、『その少女』は狼男を見下ろしていた
―――ゾクリ、と狼男は胃の奥から迫りくる寒気に体を震わせた。
「あら? あららららら」
突如天から降ってきた声にヌワラエリヤは狼男から視線を外す。月を仰ぐような形で首を上げた先にいたもの、それは流れ星よろしく地面に落下せんとするローズマリアの姿であった。
先程狼男が放り投げられんと抵抗した際咄嗟に掴んだ糸。それは、ローズマリアの十指にはめられた指輪から伸びた糸であった。突然の荷重に狼男ごとローズマリアも引っ張られる形で中を舞ってしまったのだが、その軽い体からか、文字通り空を飛んでしまったのだ。負荷の途中で指輪が全てすっぽりと抜け落ちてしまったために、指がちぎれるような大事には至らなかったものの、頭から地面に落下しては指の怪我の比ではない。あらあら、とまるで他人事のように呟きながらもローズマリアは落ちていく。
その彼女を、落下地点にいるヌワラエリヤがしっかりと抱き留めた。
「ナイスキャッチヌワラエリヤ。これはご褒美よ」
ローズマリアが軽口を言いながらヌワラエリヤの頬に口づけをすると、光栄ですお嬢様、と彼女は小さく微笑んだ。
「馬鹿な!?」
その一部始終を眺めていた狼男とレインチェル。共にこの『異様な光景』に絶句していたが、とうとう耐えられなくなった狼男が叫んだ。
「馬鹿な、馬鹿な馬鹿なっ! 糸が切れても自ら動き、あまつさえ喋る人形……だと!? ありえない! そんなものあるはずが、」
「―――【至高の人形/アンティーク】―――
聞いたこと、ないかしら?」
狼男が求める答え。それを、ローズマリアは涼しげな声で返す。
―――アンティーク。
その単語に、狼男は飛び出す程に大きく目を見開かせた。知っている。狼男は、その単語を知っている。知っているが、まさか、そんな、こんな小国にあるはずが……! と、完全に気が動転したのか、自然と足が一歩、二歩、と後退を刻んでいた。
その慌てふためく様にローズマリアは、ニヤリと口の端を小さく吊り上がらせた。
「―――そう。かの大錬金術師、カリオストロが生涯を費やして作り続けた生きた人形。それがアンティーク! 人智を超えた力を発揮する無敵のお人形!
そして、その力は使い手である【愛しのご主人様/パドローネ】がいることで何倍にも跳ね上がる、
―――まさに最強の運命共同体!」
まるで歌い上げるように。ローズマリアの情熱を込めた旋律が夜の闇に響き渡った。
「アンティーク…?」
狼狽する狼男とは違い、一人その場の会話を呑み込めないレインチェルが小首を傾げるが、小さく、あっ、と呟く。
―――いや待てよ、確か一度だけ聞いたことがある。
一晩だけ宿を借りに来た旅の行商なる男が話していたことがあった。見た目はどこからどう見ても人間だが、自分の意思を持ち、自分で動く世にも珍しい人形がどこかにある、という話を。その人形一体だけで都市が数個程買えてしまう程の超高級品であり、富豪や人形愛好家たちが血眼になって探しているが、発見例は極わずかであり、そのほとんどもガセの情報。そのことから、アンティークなどという存在自体がそもそも無いのではないか、眉唾ものの話であった。
子供の頃に人形遊びなどはしたことがあったが、成人した今でも人形に情熱を注ぐことはないレインチェルは最初こそ適当に聞き流していたものの、さすが行商というべきか、いつの間にか話にのめり込んでいったことは覚えている。ついでに現在使っているお茶のセットはその男から後日購入したものであることも。
まさか、それがあの少女であるというのか。そんな馬鹿な、とレインチェルはヌワラエリヤを訝しげに見つめる。二つに結った銀糸の長髪を風になびかせ、闇に溶けこむ黒衣のドレスに身を包んだ可憐な少女。あれのどこが人形なのか。しかし、宿屋で観察した少女は確かに人形であった。ならば、あれは確かに人形で、今ここにいる少女は本物の人間でありあれでもあんな華奢な体で大きな化け物を投げ飛ばせるものかしら、と学のない脳を必死に働かせるレインチェルであったが、最後には「わからん!」と思考を放棄して顔を上げたのであった。
「く―――ふふふ、アンティークか。現物を見たのは初めてだ」
くつくつ、と狼男が愉快そうに笑う様子を、ローズマリアとヌワラエリヤは無表情で見つめる。問題ない、敵ではない、と小さく二、三度呟いた後、二人を自信満々に見下ろしながら話し始めた。
「……そう、なんてことはないんだ。さっきはほんのちょっぴり驚いて不意打ちを受けてしまっただけだ。僕がただの子供と、こんな小さな人形にやられるわけないじゃないか。覚悟しろ人形遣い、お前を殺してその人形はどこかの倒錯した性愛者にでも売り払ってやるさ。見てろ、この鉤爪でズタズタにしてや―――、」
意気揚々と自慢の鉤爪を見せびらかすように右腕を掲げる狼男であったが、何かがおかしいことにフと気が付く。
―――自身の右ひじから先が消失しており、鮮血が噴水のように飛び出していることをやっと理解したところで狼男は悲鳴を上げた。
「……反応速度がコンマ数秒ほど上昇しています。さすがですお嬢様」
そうローズマリアを称賛するヌワラエリヤの手に握られているのは、元はそこで苦痛に顔を歪めている狼男の右腕であった。非常に鋭利な刃物で切断されたとしか思えない程綺麗な断面図からは、血の他に何かきらきらと光る液体が滴っている。「そうね、私天才だから」という謙遜を全くしない主人の素直な言葉を聞き届けた後、ヌワラエリヤはもう用はない、といった様子でソレを暗闇の中に放り投げた。
その瞬間の、彼女の心底冷たい瞳が狼男の逆鱗に触れる。
「ば、ぼ、ぼ、僕の腕が! そんな、何人も殺してきた僕の自慢の鉤爪、が、き、さ…まっ! ぼ、お、うふふ、う、ぬぅぅぐぐぐ、うぁあっ!」
「……何を怒っているのです。あなたが人形か、もしくは魔法使いでもあれば話は別ですが、切られた腕がくっつくわけがないでしょう。だからこそ、不必要なゴミをわざわざ捨ててあげたというのに。むしろ感謝すべきではないでしょうか」
「―――っ!」
その反応に、更に激怒する狼男に対し、ヌワラエリヤは眉を顰めながら首を傾げる。そのやり取りを見ていたローズマリアが堪えきれない、といった様子で大笑いした。
「あっはっはっは! いい、ヌワラエリヤ。人間というものは……まぁ、あの子は狼だけど。とにかく、普通の感性を持つのであれば、自分の体の一部を無造作に捨てられれば怒るものよ。それがご自慢の一品ならなおさら」
「……なるほど、つまり私のしたことはあの狼の神経を逆なでする行為であったと。そして、そのような態度を不用意に他の人々へとってしまえば失態は免れない、と」
「うふふ、そうね、そういうことよ」
「は! 恐れ入ります!」
うやうやしく頭を下げるヌワラエリヤを、ローズマリアはクスクス、と笑いながら眺める。なんともおかしなやり取りだ、とレインチェルは困惑した表情でそれを眺めていた。
「人形ぅぅぅ遣いぃぃぃぃっっっ!!」
とうとう我慢のできなくなった狼男が吠える。
突然現れた少女の妨害で標的を食い損ね、更には終始小馬鹿にされ続け、一度ならず本気を出した二度目もしてやられ、あまつさえ、自身の自己顕示欲の象徴であった鉤爪を腕ごと切断され、無造作に投げ捨てられる。これらを屈辱と言わずして何と呼ぶか。
―――ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなっっっ!
何故だ。何故だ。何故だ。今まで生きてきてこんなに屈辱を受けた日はない、と狼男は腸を煮え繰り返し、怒りで視界がぐにゃり、と歪む。いつのことだったかは覚えていないが、フと人間を食ってみようと思ったその時から、つい先程まですべてが順調にいっていた。人を襲った。簡単に食えた。遊びながら襲った。盛大に楽しめた。ひょんなことから騎士とも戦ったこともあった。余裕で殺すことができた。そう、全ては順調であった。この国に来てからも、馬鹿な女どもを食い始めてからも。証拠をわざと残し人間たちを嘲笑い、正体がバレぬよう身なりには細心の注意を払い続けてやってきた。だというのに! この女のせいで! すべてが狂った! と、地を揺らさんとばかりに地団駄を何度も何度も踏む。
―――そう、そうだ。それにあいつは「調整」と言った。確かに言った。つまりはこのような命のやり取りをする場面で、こいつは僕を殺そうとしていたのではなく、ただひたすらに人形の調整の道具として扱っていただけなのだ。この僕を! この! 僕を!!
完全に気が違えた狼男が、呂律の回らない言葉で二人を攻め立てる。徐々に人語としての体を失っていき、まさに獣の鳴き声と成り果てた理解のできぬソレに二人は首を大きく傾げるが、最後の一言だけはしっかりとわかった。
「キサマらいったい何なんだ! なんで邪魔をするんだ!!」
悲痛な狼男の叫び。それに対しローズマリアは数秒ほど悩むように頭を垂れた後、何かを思いついたのか顔を上げ、告げた。
「月が綺麗だったから」
「殺してやるうううううううううぅぅぅぅ!!!!」
地面が捲り上がるほど強く地を蹴り疾走する狼男。上半身をやや丸め、肩を前方に突き出している。いわゆる体当たりだ。
しかし、ただの体当たりではない。人間より一回りも二回りも巨大な狼男の体躯を全て生かした突撃なのだ。地響きを立て咆哮と共に駆けるその巨体は、まるで壁そのものが人間を押しつぶさんと迫りくるようで。
全身全霊と憎悪を込めた狼男の体当たり。その恐ろしい光景に対し、レインチェルは振動に身を任せて揺られるまま、不思議と恐怖が湧くことはなかった。目の前の黄金と白銀の少女を見上げる。二人もまた、次第に大きくなる狼男の姿を黙って見つめる。
後ほんの少し。もう少しで手が届く、という距離まで縮まったところで、ローズマリアはバサリ、とスカートを翻すと、足首に固定されたナニカを抜き取り、狼男の眉間めがけて構えた。
―――か細い少女の手で持つにはいささか不釣り合いな、美しい銀の装飾が編み込まれた鉄砲を。
「嫁入り前の淑女の肌に触れるのはご法度って言っているでしょ、悪い狼さん」
―――空に煌々と浮かぶ満月へ、乾いた音が吸い込まれていった。