黄金の夜③
月の光に照らされながら、レインチェルは夜道をひた走る。
上着無しで外に出るには少々辛い季節だが、彼女の燃える恋の炎はこれしきの寒さなぞどこ吹く風であり、むしろ一歩一歩を踏み出す度に体温の上昇を感じる程だ。
ひたすら。ただひたすらに、一心不乱にレインチェルは走る。
住宅街を抜けてまたしばらく走った先、もう少しで森に差し掛かるというところで彼女は立ち止まる。
肩を大きく上下させながら額の汗を拭う。少しずつ息を整えながら見上げた先にあるものは、月光に反射して怪しく光る十字架。
―――町外れにある今は使われていない教会……そこに月が昇る頃来てくれないか。
月は完全に昇り切ってしまったが、レインチェルは約束の場所へ無事に辿り着いたのであった。
「なんとか辿り着いた……」
そう言って、彼女は今来た道を振り返る。
遠くの……住宅街の方でゆらゆらと赤い光が揺れている。警官隊の持つランプラの炎だ。一つや二つではない。多くの灯火が町を彩らんとばかりに揺れている。こんな小さな町でもこれだけの数があるのだ。恐らく、今頃の首都は昼間と変わらぬ程明るく照らされているのではないか。
改めてその数を確認すると、よく無事に抜け出せたものだ、と自分で自分を褒めたくなる、とレインチェルはしみじみと思った。
「しかし……警備の目を掻い潜るのは確かに厄介だったけど、それ以外は本当に何もおかしなことは起きなかったな……」
恋で盲目になった彼女とて、宿屋のドアを開けてまず目に飛び込んできた満月に事件の恐怖をありありと思い出させられ、次の一歩をなかなか踏み出せなかった。
それでも、愛しの君が待つ約束の場所へ向かうべく勇気を持って進み始め、現在に至るわけではあるのだが、はたして本当に事件なぞ起こるのだろうか、という程にこの町は静かだった。
まるで、事件なんて始めからなかったかのように。
「なんだ。マックスさんの言うとおりじゃないか。今までのアタシが馬鹿みたいじゃないか」
今まで過剰に怯えていた自分が情けなくなる。上気した頬もいつの間にかすっかりと冷めきり、肩の上下も収まった。
「……よし」
最後に大きく息を吸い、レインチェルは教会の扉を押し開けようとしたが、ガチャガチャ、と音を立てるだけで開く気配がない。ただ立てつけが悪いだけならいいが、閂でもはまっていればそもそもここへ入ることができない。何回か試行錯誤を繰り返すと、扉がゆっくりと開き始めた。どうやら開け方にコツがあるらしい。
何年もろくに油を挿していなかった扉が甲高い音を上げる。その存外大きな音に驚いた彼女は周囲を急いで見渡すが、炎は相変わらず遠目で揺れているだけであった。
ほっ、と胸を撫で下ろしたレインチェルはそのまま扉を開いていき、人一人通るには十分の大きさまで開けたところで静かに教会へと足を踏み入れた。
「……マックスさ~ん? もういるのか~い?」
返事はない。蝋燭の明かり一つもないこの空間に、本当に彼はいるのだろうか。ステンドグラスから射し込む月光を頼りにレインチェルは手探り状態で進み始める。
もしかして自分が早く着きすぎたのではないか。そう考え始めたところ、突然扉が大きな音を立てて閉じてしまった。
「え、や、やだ真っ暗!? マックスさん!? マックスさんなのかい!?」
不鮮明な視界と、予想外の展開に恐怖したレインチェルはまだ見ぬ愛しの彼の名前を叫び始めた。
―――パチン。
その瞬間、指を弾いたような音が暗闇に響くと同時に、教会内に設置されていた照明全てに火が灯り始めた。一体どうやって蝋燭に点火しているのかはさっぱりわからないレインチェルであったが、兎にも角にも暗闇から抜け出せたことに安堵する。
それにしても今の音はなんだったのだろうか、周囲をキョロキョロと見回していると、
「こっちだよレイン! 本当に来てくれたんだね!」
十字架の下で優しそうに微笑むマックスの姿を見つけた途端、嬉しさと心細さとがまじった感情を一気に爆発させ、涙目になりながら彼の元へ駆け寄った。
「マックスさん!」
そんな彼女を、マックスは優しく抱き留める。
彼に抱きついたのはこれが初めてだ、とレインチェルはふと思う。顔に似合わぬ、意外としっかりとした体の持ち主なのだな、とどこか冷静に分析しながらも、今はその胸板に思いの限り顔を埋める。そういえば、マックスが宿を出る際につけていた愛用の香水とは違う香りが彼から広がる。汗がまじったような、少し刺激のある匂いだ。彼もここまで自分のために走ってきてくれたのであろうか。それならば、少し嬉しい、とレインチェルは思った。
何分ほど経過したであろうか。すっかり恐怖心の取れた彼女は、マックスの胸を軽く叩きながら不満を漏らした。
「も~驚かさないでよ! 不安だったんだからね!」
「ははは、ごめんごめん。ここまでちゃんと一人で来られたのかい?」
「うん!」
そうか、頑張ったね、とマックスがレインチェルの頭を撫でる。普段ならこのような子ども扱い御免こうむるのであるが、今晩だけは別である。その手の感触に彼女は大いに興奮していた。
「狼男には出会わなかったのかい?」
「も~! そんなのいないって言ったのはマックスさんじゃあないのさ」
二人の他愛のない軽口が数度交わされた頃、一拍おいてレインチェルが静かに口を開いた。
「―――ねえ、それよりさ。何かアタシに言うことがあるんじゃないのかい……?」
彼女の耳に、徐々に高ぶっていくマックス心臓の鼓動が伝わる。それに比例してレインチェルの心臓も最早早鐘を打ち鳴らすかのように鼓動を刻んでいた。
しかし、マックスはなかなか返答しない。普段は常に余裕を持った態度を取っているマックスという人物ではあるが、彼なりに緊張しているのだろう。レインチェルはただ静かに待つ。
二、三度、マックスが深呼吸をすると、あんなにも高ぶっていた心臓の鼓動が、次第に音を小さくしていく。ついに決意を固めたのであろう。ギュッ、とレインチェルを抱きしめ、彼女もそれに応じながら、マックスがゆっくりと口を開いた。
「そう……とても大事な話だ。よく聞いておくれレインチェル。実はね、僕は君を一目見た時から―――」
「うん……」
「―――ずっと、食べたいと思っていた」
…………。
「……うん?」
考えられる限り、いや、考え付かなかったわけだが、彼の口からはレインチェルの望む言葉の遙か頭上を通り過ぎる暴投が飛び出したのであった。
意味が解らない。いや、もしかして意味はあるのか? 少ない脳みそを回転させながら、レインチェルは一つの答えを無理矢理絞り出す。
「……あっ! そ、そうかそういうことか。食べるだなんてそんな……マックスさんってけっこうスケベだったんだね!」
―――胃の奥底に湧き出した寒気から、とても自然な動きで、マックスを押しのけながら。
あはは、と冷や汗を流しながらレインチェルは笑う。笑い続ける。まるで笑い続けることで、事態の好転を願うかのように。
そんな、どこか滑稽な彼女の姿を―――マックスは、がらんどうの瞳で見つめ続ける。
「……マックス……さん?」
なんて、冷たい瞳なのだろう。本当に、これがあのマックスなのであろうか。四カ月を共に過ごした彼の記憶がレインチェルの脳裏にいくつもいくつも浮かび上がる。
笑い、怒り、悲しみ、微笑み、笑い、笑って、笑っている彼の姿が、今の姿のどれにも属さない。
―――誰だ、こいつは。
レインチェルの鼻腔に残るのはマックスの香水の香り。いつもとは少し違う、何かが混じったかのような香り。そもそもその香水自体を、彼はいったいいつからつけるようになったか。初めて出会った時にそのような香りはしなかった。初めて香水をつけたのは……そう、彼が宿屋に来て初めての満月の晩の翌日。その日から、香水の香りを纏うようになった。それが、一月、二月と経つにつれ、次第に香りも強くなっていった。決まって、満月の翌日に! 事件の翌日に!
―――いったい、何のための香水なのか!
胃の奥底から湧き出る寒気がレインチェルの足に、腕に、歯に伝わりカタカタ、と小刻みに震えだす。彼女がいよいよ体の震えを抑えきれなくなってきたところで、マックスは饒舌に語り出した。
「最近ね……香水でも僕の『匂い』が誤魔化しきれなくなってきてね。今着ている皮がさすがに古くなってきたんだと思う。僕に皮をうまく加工する技術があればよかったんだが……困るよね。でもまあいいさ、些細なことだよ。また奪って、着ればいいのだからね。
それに、さすがに同じ国に留まって遊び過ぎてしまったからかな。騎士なんていうものが派遣されるっていうじゃないか。冗談じゃない、あんな戦うことしか脳のない馬鹿ども相手にしていられるか。そう考えた僕は、早々にここを発つことに決めたんだ。
―――狼男である僕が君を食べるこの満月の晩の、翌日にね」
「ひっ、ひいぃ!」
余りにも、余りにも楽しそうに語るマックスの姿がレインチェルの恐怖心を加速させていき、限界を迎えた彼女は彼に背を向けて一目散に扉へと駆け出した。
その後ろ姿をあえて追わず、マックスは語り続ける。
「ここに来て最初に食べたのは……そう、娼婦だったね。股も緩けりゃ頭も緩い馬鹿な女だった。「月夜の森を背景に君を描きたい」なんて言ったらすぐついてきてくれたよ。せっかくだからさんざん犯しきってから食べてやった。その時は……その、少々『興奮』しすぎてしまってね。大分グチャグチャにしてしまったんだが、ありゃあ悪いことをしたと今でも反省している」
聞かない。聞こえない。いや、聞いてなんてやらない。扉へと辿り着いたレインチェルが力いっぱい押し開けようとするもびくともしない。開かない、何故だ、何故だ何故だ! と彼女は半狂乱になりながら扉を押し続けるが、やはり開かない。
―――開け方にコツがいるということなど、冷静に思い出せるはずがなかった。
「二人目は確か観光客……だったかな。名物の魚料理を食べにやってきたらしいんだが、何もこんな時期に来なくてもよかったのにね。まぁ、結局は僕に食べられてしまったわけだが」
何度扉に力を込めたかレインチェルは数えきれない、そもそも数える余裕なんてない。涙で顔をグチャグチャにしながら、彼女は開け開けと呪文のように叫び続ける。
観念したのか、突然彼女が扉から離れた。そのままマックスの元へ戻るのかと思いきや、
「うああああああぁぁっ!」
扉に体当たりをぶちかましたのだ。
功を奏したのか、金属の擦れ合う甲高い音を上げながら扉は勢いよく開き、レインチェルはそのまま倒れるように外へ飛び出した。
「三人目は……おやおや、無茶するねえ。君のそういう行動的なところ、僕は好きだよ」
「あっ!」
足がもつれ、レインチェルは地面に体をしたたかに打ち付けた。だが、やっと出ることができた。このまま走って逃げる、というところで、彼女は右足に力が入らないことに気が付く。正確に言えば、力は入るが激痛が走るのだ。まさか、と月光で照らされた右足を見やると、
―――右足首が、大きく腫れあがっていた。
レインチェルの顔を、絶望が覆う。
「あぁ、そういえば何故君が四人目なのかを話していなかったね。言っていたね、両親がおらず、家族も恋人もいないって。そういう人間こそ一番都合がいいんだ。単に失踪したことになれば、近しい間柄の人間は訝しがっても、世間的にはなんらささいなことだ。
……それにその、実を言うとね。一度、女の皮を着てみたい、と思っていたんだ。君はよく働く真面目な良い子だからね。さぞかし動きやすいだろう。……まぁ、それなら別に他の娘でも良かったわけだが……一番近くにいたからね。自分の運命を呪ってほしい」
聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞かない!
レインチェルは耳を塞ぎたい気持ちを必死に押さえつけながら、両の腕に力を込め、這うようにして少しずつ前へ進んでいった。
―――少しでも止まったら死ぬ。
まさに、必死の形相である。そんな彼女の姿を眺めながら、マックスは血が一点に集中していくのを大いに感じ取っていた。
「いいお尻だ。安産型だね。子供を産むことは叶わないが、せめて孕ませるだけは孕ませてやろう。そうだ……次は妊婦なんて狙うのがいいな。よし、次の町の獲物は……ごふん、失礼。獲物じゃないね。愛する人と月夜を過ごすのはその人にしよう」
そう言って、マックスは赤く腫れあがったレインチェルの足首を掴みとった。
「ギャアアアア!」
激痛に顔を歪ませながら、レインチェルは手足をバタバタ、と動かす。振りほどこうにも、万力のように握るその指から逃れることなど彼女には不可能であった。
「はぁ……ケヒッ……はぁ、い、今、痛みによく効くお注射をしてあげようねえ……」
「ひっ! ひっ! だ、誰…か!」
来ない。来るはずがない。とっくに捨てられた教会だ。警官隊はここに人がいるなんて露ほども思わないだろう。何故なら、お触れによって今日は『そもそも家から人は出ていない』のだから。
遠くで、相も変わらず赤い光が揺れている。ゆらゆら、ゆらゆらと、憎らしいほどに。
―――あぁ、ここでアタシは死ぬんだ。
痛みが脳の許容範囲を超えて何も感じなくなってきた頃に、レインチェルは至極冷静になった頭でそう直感した。
思えば、特筆することのない人生であった。忙しい両親の元で産まれ、自身も宿を手伝い、少なくない友人に囲まれ、いつの間にか宿を継ぐという、どこにでもある人間の一生。
せめて、結婚をしてみたかった。食材の仕入れ先の男や、行きずりの旅人と一夜を共に過ごすなどということは人並みに経験していたが、ついぞ結婚までその恋が長続きすることはなかった。
今度こそ。今度こそ目の前の男と結婚するものだとレインチェルは思っていた。その男は、今や端正な顔を下品に歪ませながら、彼女を相手に腰を振る真似をしている。
―――本当に、誰だこいつは。
その滑稽な顔と、滑稽な自分の人生に、思わず笑ってしまう。
今までの思い出が走馬灯のように脳裏をよぎっていく。両親に初めて褒められた。両親に初めて怒られた。彼氏ができた。彼氏とすぐに別れた。両親が死んだ。両親の宿屋を継ぐことに決めた。顔の良い旅人と寝た。顔の良い旅人は次の日にはいなくなった。それから、それから……。
―――こんばんは、Ms.お部屋を一つ、お借りしたいのだけど―――
最後に一際大きく、あの少女と出会った瞬間を思い出す。黄金の長髪に、愛らしい小さな顔。透き通るような美声に、細い体。そして、不釣り合いな大きな黒い鞄。レインチェルの目の前に大きな牙が迫っているが、そのようなもの気にもかけず、思い浮かぶのはローズマリア・ハイネンヴェルゼという一人の女の子ばかり。
何を考えているかわからず、子供らしからぬ艶っぽい顔も浮かべたりするものの、紅茶を美味しそうに啜る姿はまさに年齢相応の、女の子。
―――人生の最後に、彼女に知り合えて本当に良かった。あぁ、やはりそれにしても。それにしても。
「ハイネンヴェルゼさん。本当に綺麗だったなぁ……!」
「そう? もっと言ってちょうだい」
「え?」
「誰、ぁぐっ!」
レインチェルの眼前を何か大きな物体が掠めると同時に、鈍い音を立ててマックスが横に勢いよく吹き飛んだ。二、三度回転した後、片膝をつきながら目をギラつかせる。
―――睨み付けるは、眼前の女の子。
「嫁入り前の淑女の体を傷つかせるなんて、あなた最低の男ね。Ms.悪いことは言わないわ。野良犬に噛まれたとでも思って、今晩のことは忘れてしまいなさい」
「なっ! き…さま!」
マックスが顔を歪ませながら激怒する。その口から人間のものとは思えない大きな牙が飛び出しているのだが、レインチェルはまさしく歯牙にもかけず、突如現れたローズマリアの姿に目をただただ見開くばかりであった。
夜風に、黄金の長髪がふわりと揺れる。
先ほどレインチェルの眼前を掠めながらマックスを吹き飛ばしたものの正体。それはあの大きな黒い鞄であった。ローズマリアが不敵な笑みを浮かびながら鞄を二、三度挑発するように叩く。大の大人一人を数メートルは吹き飛ばす程の質量だ。よく振り回せたものだ、とレインチェルは感心するも、すぐに我に返った。
「ハイネンヴェルゼさん! 早く逃げて!」
完結に、要点だけを叫ぶ。「自分は助からないからお前は逃げろ」という、目の前の化け物に対するどうしようもない現実だけを少女に突きつける。そもそも、何故この少女がここに現れたのか。偶然か、必然か。そのようなこと、理由はあの世に着いてからゆっくりと考える。今はただ、レインチェルはこの少女の無事を願う―――!
―――のだが、当の本人は髪を指先でくるくると巻きながら遊んでいた。
今ここで何が起きているのかわからないのか。宿屋の主人が乱暴されていたからただ助けただけなのか。その乱暴していた相手が問題だというのに! なんて呑気な奴だ! やはり金持ちは変人が多い! とレインチェルは憤る。
「……あぁ、君はもしかして昨晩泊まりに来たというお金持ちのお嬢さんかな。レインチェルから話は聞いている。以後、お見知りおきを。まぁ、もっとも以後なんてないんだがね」
口内を切ったのか。血が混じった唾を吐き捨てながら、マックスはローズマリアを睨み付ける。先程の不意打ちが余程足にきていたのかしばらく膝をついたままであったが、なんとか両腕で体を起こして立ち上がる。ふぅ、と小さく息を吐いた後に、ローズマリアを見下ろす形で対峙した。
「……ほほう、これはなかなか」
じろじろと、マックスはローズマリアの体を頭からつま先まで舐めつくすように眺めた後、まさに上機嫌といった様子で口を開いた。
「いやぁ、君のような美人はなかなかお目にかかることが難しい。子供ではあるが、しっかりとした女ではある。どうだい、お兄さんと気持ちいいことしないかい?」
―――なんて下品な奴だ!
レインチェルの記憶から、たまにふざけたことを言うものの、基本的には紳士であったマックスという男性の思い出ががらがらと音を立てて崩れ去る。いや、崩れ去るぐらいがちょうどいい。こんな下種な男のことなどは!
すると、はぁはぁ、と興奮して大きく肩で息をするマックスの姿を見上げながら、ローズマリアは耳を疑う発言を行った。
「―――いいわよ、私に勝ったらね」
凛、とした自信に満ちた張りのある声。レインチェルは驚きに目を見開き、マックスは喜びに目を見開いた。
「私、弱い男は嫌いなの。とてもたくましい姿を見せてくれたなら、あなたの『たくましいもの』を私にくれてもいいわよ」
「く……は、はははは! いいねえ! 君、すごくいいよ!」
「な……馬鹿なこと言ってんじゃないよ!」
こいつは、何を言っているんだ。化け物と変人に挟まれて頭がおかしくなりそうだ! とレインチェルは発狂しかける。ローズマリアはそんな彼女の気持ちに気が付いたのか、ゆっくりとレインチェルの方へ視線を下げると、
―――ニコリ、と。
昨晩、初めて二人が出会った時と同じように微笑んで見せながら、レインチェルを守らんとその場に立ち塞がった。
「ハイネンヴェルゼさん……?」
何の笑顔だ。何を意味する笑顔なのか。わからない。やはりこの少女は変人なのだろう。
―――だが、不思議とレインチェルは己の恐怖心が徐々に薄くなってきていることに気が付いた。
自分と一緒に二人で逃げるのか。もしくは、自分の代わりにその美しい肢体を差し出すのか、それはわからない。わからないが、この少女が一体何をしてくれるのか。レインチェルは最後が来るその時まで、ローズマリアから目を逸らしたくないと、そう思った。
「で、何で勝負をするんだい? かけっこかい? 刺繍でもするかい?」
「そうね、【お人形遊び】なんていかがかしら」
「くはっ! いいね、年頃の女の子らしいな! で、その人形はどこに?」
「ふふ……」
またも、ローズマリアは不敵な笑みを浮かべた。
「……ん?」
レインチェルはふと気が付く。つい先程まで全く気が付かなかったが、冷静になってローズマリアをよく眺めると、彼女の両の指には指輪らしきものが十本全てにはめられており、また、そこから月光に照らされて何かキラキラと光るものが伸びていることに。
―――これは……糸、いや、ただの糸ではない……銀の糸か?
そして、その十本の糸全てがあの黒い鞄に吸い込まれるように消えていることに。
―――あの鞄には、何が入っていたのであろうか。確か……そうだ、あの中には。
〝へー……人形と一緒に旅を〟
ローズマリアがゆっくりと右腕を天にかざす。そして、大きく指をはじきながら、その『名前』を読んだ。
「起きなさい……【ヌワラエリヤ】!」
ガチャリ、と鞄から留め金の外れる音が響く。同時に、キリキリ、と一体なんの音であろうか。金属の回る音が少しずつ広がっていく。何が始まるんだ? とマックスが訝しげに鞄を眺め続けると、その中から飛び出してきたもの、それは【腕】。その両腕が鞄の口の上下をがっちりと掴むと、ゆっくりと開いていく。開き切ったところで現れたもの、それは銀髪黒衣の少女……否、人形であった。
その人形に、マックスはほう、と感嘆の息を漏らす。なんて美しさだ。君の美しさにも引けをとらない、と素直に褒めたたえると、ローズマリアは嬉しそうに微笑んだ。
「いや、しかし本当に人形なのか? 人間にしか見えないが……」
「よければ触ってみる?」
「いいのかい? では遠慮なく……お人形さんはどんな下着をつけているのかな」
下品な笑みを浮かべながらマックスは人形……ヌワラエリヤの元へ歩み寄ると、ローズマリアと同じく全身を舐めまわすように見つめた後、スカートをめくらんと手をかけて、
―――死ぬ。
野性的直感から、上体を勢いよく反らした。
「うっ、うおお!?」
マックスが体を動かすのとほぼ同時に、人形の足が先程まで彼の顔があった空間を、風を切り裂きながら蹴ったのだ。
「あらぁ……」
ローズマリアがとても残念そうに呟き、レインチェルは全く目で追うことができなかったその動きと、突然の事態に困惑する。
間一髪避けたと思ったマックスであったが、ゆっくりと上体を起こすのと同時に、まるで刃で切り裂かれたかのように血を流す自分の顎を撫でた。血を拭いながらローズマリアとヌワラエリヤを見つめるその表情には、先程までの下品な笑顔はもうなかった。
「―――貴様、人形遣いか」
憎らしげに吐き出されたその言葉に、ローズマリアは小さく微笑んで返す。
―――その瞬間、空気が変わった。
酷く底冷えするような、冷気が一面を覆う。元々寒い季節の夜長だ。冷たい空気などそこかしこに流れているが、これは明らかに異質な空気だった。
その張りつめた空気に気圧されたレインチェルが小さなうめき声を上げると、
「―――っ!」
「!」
それがきっかけとなり、全てが始まった。
マックスは両膝をバネのように畳んで力を溜めこんだ後、それを一気に解放させ、弾丸のようにヌワラエリヤに迫る。その時、彼の右腕に異様な変化が起こった。メキリ、メキリ、と音を立てて肌が裂けているのだ。そして、その下から飛び出すのは灰色の体毛。筋肉が膨張していき、その爪もまるで猫科動物のソレと同等、否、それ以上に伸びる。一目で人間のソレとは明らかに異なったもの―――狼男の本性を露わにしていく。
大きな大きな鉤爪が、月光に反射して鈍く光った。
対するローズマリアは涼しげな表情でその光景を眺めながら指先を動かし、ヌワラエリヤに迎撃の姿勢を取らせた。
―――閃。
袈裟懸けに振り下ろしたマックスの鉤爪。並の人間……否、いかな鋼鉄であろうが飴細工のように引き裂く必殺の一撃。おそらく、今までの犠牲者もこの鉤爪で尊い命を落としてきたのであろう。
その一撃を、
「―――ぬっ!?」
「蠅が止まるわね」
ヌワラエリヤは、あろうことか片手で受け止めていた。
ヌワラエリヤはローズマリアが操る人形である。人形故、表情は変わらない。全くの無表情のまま、鉤爪を押し留める。
「……全然たくましくないじゃない。弱い男ね」
「言ったなあぁっ!」
ローズマリアの挑発に激怒したマックスが余った左の鉤爪を薙ぐ。それをもヌワラエリヤは同じように難なく受け止める。
しかし、両腕が塞がり無防備になった腹部に強烈な膝蹴りを受けてしまった。
見れば、マックスの足もその腕と同じように、ズボンと肌を引き裂きながら灰色の体毛を覗かせている。化け物の異様なまでの脚力がヌワラエリヤの腹部を打ち抜いたのだ。マックスの膝に、芯を捉えたかのような感触が伝わる。所詮人形は人形、とくの字に曲がったヌワラエリヤを見下す。
―――殺った。
と、自身の勝利を確信したその時であった。マックスの目が、ヌワラエリヤの腹部を覆う銀色に光る薄いナニカの姿を一瞬だけ捉えたところで、壊れたはずのその体が強力な膝蹴りを打ち込んできた。
「馬鹿な……!」
「フフフ…」
何故だ、破壊したはずなのに、と困惑するマックス。だが、ヌワラエリヤの攻撃の手は止まらない。矢継ぎ早に手刀、足刀、蹴り、と様々な体術を繰り出してきた。これも、まともに受ければ致命傷になりかねない一撃だ。マックスはその一撃一撃をなんとか目で追いながらさばいていく。
しかし、徐々にその攻撃は加速していく。マックスは次第にその動きを追いきれなくなくなっていくが、半狂乱になりながらもなんとか対応していく。その姿を見たローズマリアは、クスリ、と小さく微笑んだ。
「…………」
その三者の姿を傍観するはレインチェル。
―――嗚呼、何ということだろうか。
突然現れた宿屋の客である少女が、正体を現した化け物相手に人形で立ち向かっている。
おかしい。可笑しい。メルヒェンだ、これは。今すぐ、今すぐ逃げ出さなければ。
―――しかし、その場からどうしても動くことができない。
足が痛くて動けないから? 違う、そんなくだらない理由などではない。
―――なんて綺麗な指なんだろう。
余裕の表情で人形を操るローズマリアの姿に心奪われていたからである。
糸で繋がったローズマリアという主人と、ヌワラエリヤという人形。その人形に糸を通じて、まるで本当に生きているかのように、指先を別の生き物のように踊らせる姿はまさに圧巻。本当に、この人はいったい何者なのだろうか、レインチェルが彼女の姿に惚けていたところで、マックスの叫び声が聞こえた。
「うぅ…うぅあああああぁぁぁ!」
この瞬間、彼の反射神経は完全に、ローズマリアが操るヌワラエリヤの動きについていけなくなったのだ。両腕を弾かれ腹部ががら空きになり、そこへ鋼鉄のハンマーで殴られたかのような衝撃が広がる。そのまま、吐しゃ物を撒き散らしながら吹き飛んだマックスは、木々を二、三本薙ぎ倒しながら転がっていき、やがて動かなくなった。
「……ふぅ」
その様を見届けると、ローズマリアは火照った体を夜風で冷ましながら小さく息を吐く。
同じく、全てを見届けたレインチェル。その心はいまだ狂気の世界におり、混乱しているも、やはり動くことはできない。
少々疲れた、といった様子で体を伸ばしたローズマリアが、ゆっくり、ゆっくりとレインチェルに向き直る。その表情はどこか楽しそうで。レインチェルを守れたことに喜んでいるのか、化け物を倒した達成感に酔っているのか、それは全くわからない。
わからない、が……。
「今夜は月が綺麗ね、Ms.」
怪しく微笑む少女の眼差しに囚われたレインチェルには、最早些細なことであった。
「ハイネンヴェルゼさん……あんた、一体……?」