36話 氷柱の意志
違和感があった。なぜ俺たちに遺跡を調査するよう仕向けたのか、なぜ書庫の本に人の痕跡があったのか。
その答えは近くにあった。男爵のようなダンディな風貌は、ジークハルトその人だ。
「その悪魔と話すのは待ってもらおうか」
ジークハルトの右手には鋭い剣が握られていて、彼の眼光もまた、剣と同じように鋭かった。
「最初からこれが狙いだったのか」
「いかにも。ここまで上手くいくとは思っていなかったがね」
横にいるクレアが「え?どゆこと?」という顔をしている。
「尾けられてたんだ、俺たちは。そして、こいつの目的は遺跡を攻略させることだった」
召喚腕輪を構える。するとジークハルトは懐からボールのようなものを取り出した。
「マジックアイテムか、厄介なものだな。だが……」
ボールが近くの地面に叩きつけられたと認識した瞬間にはもう遅かった。閃光とともにジグザグの波のようなエフェクトが走る。
「パラライズボールだ、まずいよソウタ!」
「もう手遅れだよ、君たちの役目は終わりだ」
手を動かそうとするが、まるで動かない。動けない俺たちの間を、ジークハルトはつかつかと歩いていく。そして悪魔の前に立つと、こちらを振り返った。
「レインスト病を知っているかな」
クレアがわずかに反応する。
「ルド地方の、不治の病……」
その受け答えがどうでもいいかのように、彼は続ける。
「シャーロットはまだ15だ。不幸が降りかかったのは幼い子供の頃だった。私のかわいいシャーロットは、この村から出たことがない、なぜだかわかるか?」
確かな声色なのに、その奥には哀しみが感じられる。俺はもがきながらも、答える。
「遺跡にある書庫の本に、レインスト病についての記述があった。全部の文字は読めなかったけど、今のアンタの反応で察しがつく」
彼の暗い目が、少し揺れた気がした。
「シャーロットは、この村の温泉がなければ、生きていけない。この村を離れることができない。それがどんなに残酷なことか、分かるかね? 『する、しない』という選択肢ではなく『できない』という選択肢のみが与えられることの残酷さが、君に分かるかね?」
その声ははっきりとしていて、しかし苦しそうだった。俺は、何も言わなかった。クレアもまだ動けないようだ。膝をつきながら震えた声を絞り出している。
「ボクも、そうだった……」
その声は彼には届かなかった。
「やれやれ、人間の話は長いな。それで? オレさまと契約するのはお前か? まあ誰でもいいや」
悪魔がしびれを切らし、語りかける。
「悪魔よ、私の娘を……シャーロットを……」
まずい。あの悪魔がどんな能力を持っているのかは不明だが、悪魔と契約した人間がろくでもない結果になるのは多くの物語が証明している。
「その悪魔と契約したら、どうなるか分からないぞ!」
「娘を救うためなら、なんだってやるさ」
ジークハルトの意志は氷のように固い。しかし、この父親に万が一のことがあれば、例えシャーロットを救えたとしても……
「ばっかみたい! 自分勝手すぎ!」
クレアが叫ぶ。
「たしかにシャーロットは不治の病で、それはシャーロットにとって残酷なことかもしれない」
「でもそれは、シャーロット自身が決めることだよ! 父親が自分のためだからって、人を騙して、危険を犯してまで……そんなこと頼んだの!? それがシャーロットの意志なの?」
屋敷でのやり取りを思い出す。シャーロットが子供扱いされていたこと。ジークハルトが依頼の件を聞かせたくなかったこと。きっと今回の件も、ジークハルトが勝手に決めたことなのだろう。
「お前たちに私と娘の何が分かる!」
空を切るような音のあと、クレアの頬から鮮血がつたう。ジークハルトの持っていた剣がクレアの頬をかすめた。
「クレア!」
カッと頭に血が上る。
「おい、自分勝手コミュニケーション不足親父! 何しやがる!」
ジークハルトは一瞬、面食らったような顔をするが、すぐに悪魔の方へ向き直る。
「どんな犠牲も払うと約束する、娘のレインスト病を治してくれ」
「あーOK、契約完了っと」
悪魔が愉しそうに嗤い、「さて……」と尻尾をクルクル回す。
「犠牲になるのはお前さ、クケケケケッ」
ニタァと笑った悪魔が指差すと、ジークハルトが突然苦しみだした。
「ぐっ……頭が割れる……グ、オ、ォォオオオッ!」
「願いは叶えたぜ。契約の代償を受け取りな。オレさまの封印を解いてくれてありがとよ、じゃあな!」
悪魔はそう言うと、扉の方に飛んで逃げていく。パラライズボールで痺れていた俺は、目で追うことしかできない。
「がっ……グアアアアアアア!! オオオオオオオオオッ」
今はそれよりも、ジークハルトの方だ。すでに彼の体は人間の形ではなくなっていた。
「グオオォォ……シャーロットオオオオッ」
肉体が変貌する。筋肉が異常なほど盛り上がり、服は引き千切れる。頭からは角が生え、顔が怪物のように青く変化していく。彼の持っていた剣は巨大な棍棒へと変化した。
広間が一瞬にして冷気に包まれる。床が凍りつき、一面が氷の床になる。壁が凍りつき、ピキピキッという音が反響する。凄まじい冷気は、入口を塞ぎ、広間の四隅に氷の台を作る。部屋の真ん中で、巨大な鬼がこちらを見下ろしていた。
氷の鬼が現れた。