30話 水面に映る表情は
村から少し離れた所にある小さな木の小屋。そこが温泉の入り口だ。どうやら看板を見ると脱衣所は男女別らしい。俺はクレアと入り口で別れると、男湯の脱衣所に入る。
「それじゃーソウタ、まったねー!」
またね、と言っても男湯で会うこともないだろう。子供の気楽さにやれやれとポーズを取りながら、脱衣所の奥の方に向かう。朝早いためか、他の客はいないようだ。
小屋は基本的に木製のつくりで、蒸されたヒノキのような匂いが立ち込めている。整列して置かれている衣類用の編みカゴを見ると、どこの世界も温泉の造りは変わらないのかもな、と昔の記憶が蘇ってくる。
浴場への扉を開けると、熱気と湯気が飛び出してきた。
「異世界でも温泉に入れるとはな」
独り言を言いながら、桶でお湯を掬い体を流していく。少し熱めなのが、気温の低いこの村で冷えた体に心地いい。
屋根付きの露天風呂の浴場は半円状になっていて、岩でできた囲いの中に温泉が流し込まれている。お湯は薄い緑のような色合いをしていた。硫黄のような火薬のような匂いが鼻をかすめる。
ふと体を見ると、あちこちに古傷ができている。そういえば、異世界に来てからと言うもの戦闘が多かったので、何度も怪我をしていたのが、まだ跡として残っているのだろう。
湯の中に入ると、気持ちのいいぬくもりが体に染み渡る。思わず、気の抜けた声を漏らしてしまう。
「ソウター! 男湯はどうなってんのー?」
いきなり、背後の仕切りの向こうからクレアの声が響く。この仕切りの向こうが女湯になっているのか。
「どうって……真ん中に温泉があるな。ウサギみたいな湯口からお湯が出てる」
「あははー! こっちは魚みたいな形してるよー」
なんの魚だよ。はしゃいでいるクレアに、俺は少しだけ子連れのお父さんの気持ちが分かる気がした。近くにチャポチャポと流れる静かな水の音。それとは対照的に仕切りの向こう側ではバシャバシャという音が聞こえてくる。温泉で泳ぐのはやめなさい。
しばらくして、音が静かになったかと思うと、仕切りの向こうから扉を開ける音が聞こえた。
「あら、先客がいましたの。ご一緒してもよろしくて?」
お嬢様口調の少女のような声の主は、どうやら入り口からクレアに声をかけているらしい。朝から温泉に来るとは、珍しい人もいるものだ。
いや、待てよ。どこかで聞いたことのある声のような気がする。仕切りで向こうの様子は伺えないが、クレアと何か話している。
まあ、いずれ思い出すだろう。俺はこれからのことについて考え事を始めた。
吹雪が止んだら、すぐにリゼのもとに帰ろう。ピリファイ草は手に入れ、ゴウシ病の解決の道が見えた以上、早く救ってやらなければ。露天風呂から見える雪林の上空は、これからの吹雪を予感させるような天候だ。
「へぇ、それでシャーロットはいつも温泉に来てるんだ」
「そうです、旅をしてきた貴方が少し羨ましいですわ」
こもった室内に声が響く。シャーロットと呼ばれた少女の声は、どこか寂しそうに聞こえる。考え事をしていた間に、クレアと少女はすっかり打ち解けているらしい。
「わたくしがこの村から出たいと思っても、この病気がそれを許してくれませんわ。もちろん、父様も母様もお許しになりません。だからわたくし、この前こっそり抜け出しましたの。あの時は、こっぴどく叱られましたわ」
彼女は何かの病気なのか。
「ボクは……ボクは、むしろ家族ってものがあんまり実感湧かないなぁ」
「あら、そうですの? ……何か事情がおありのようですわね」
「家族ってどういうものかな」
「そうね……大切なものには違いないけど、それだけじゃなくて……うっとうしくなったり、叱られるのが嫌になったりするものですわ」
彼女は少し間をおいて、くすくすと上品な笑いを漏らす。
「不思議ね。初めて会ったのに、旅人の貴方には何でも話してしまいそう」
このまま盗み聞きするのも悪い気がしてきた。のぼせてきたので、温泉から出ようとすると、少女の黄色い声が響く。
「ところで……気になってたんだけど。なかなか良いものをお持ちで」
「きゃっ、どこを触っているの!」
「む……手のひらサイズ」
クレアは何を触っているんだ。反対側ではどんな光景が繰り広げられているのだろう。女子のガールズトークはこちらまで聞こえてくる。さすがに居づらくなり、温泉を後にした。
小屋から出たのはもう20分ほどたった頃で、脱衣所から出てきたクレアはなんだかツヤツヤしている。
「遅いぞ、手がすっかり冷えちまった」
「えー、声かけてくれればよかったじゃん。どうせ聞こえてたんでしょ?」
にしし、と意地悪そうにニヤけるクレアに、俺は少し恥ずかしくなって、照れ隠しのため肩を小突いた。
「ばか、先に出てたっつうの。それより誰かいたみたいだけど、失礼はなかったか?」
「むしろ仲良くなったよ」
クレアは、嬉しそうだった。
昼前、ルド雪林が吹雪きはじめ、その影響はルド村にも及び始めていた。雪が強くなり始め、住人達も家の中へ入っていく。俺達も避難と昼食を済ませるため、近くの食堂へ駆け込んだ。
中はこげ茶のレンガ作りで、木製の丸いテーブルとアームレスのシックな椅子がいくつも置かれている。客はまばらだったので、暖炉に近いテーブル席に向かうと、クレアが目を輝かせている。
「え、何でも好きなもの頼んでいいの?」
「別に構わないけど、食べられる分だけにしろよ」
「あれとーこれとー」とメニューを指さしているクレアをスルーしつつ、俺はコールドラビの香草焼きというのを注文してみた。
ウェイターに聞いてみると、コールドラビというのは、寒い地方にいる草食獣の一種で、丸い耳が特徴の群れをなす動物らしい。今の時期はたっぷり栄養を取って脂がのっているという話だ。
料理が届く。白い皿に盛られ、肉厚に輪切りスライスされた獣肉は、黄色いハーブが刻んで乗っけられている。
食べてみると、しょうがのような香辛料が効いていて、ぽかぽかと暖かくなる。なるほど寒い地方ならではの料理だ。付け合わせのカラミ草は、液体とよく絡む性質があるので、残った肉汁とともに頂いた。
「ほういえは、りへさんはいじょうぶかなぁ」
「食べながら喋るんじゃない、リゼには親父さんと医者がついてる。大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように呟く。その時、窓側のテーブルにいた客が外を見て叫んだ。
「おおい! 雪崩が来るぞ!」
一難去ってまた一難。俺の脳裏によぎったのは、そんな言葉だった。




