9.白い檻
――どうして彼の記憶を奪ったのだろう?
リゼッタは最初、自身の行動の意味が理解できなかった。
折角街から離れてもらったのに、運悪く戻ってきてしまったカインを見て、リゼッタは焦ったのだ。
カインは恋人の身を案じて街中を探し回っている。騙されたとも知らず、裏切られたとも思わず、愚かにも一途にリゼッタを愛している。
馬鹿な男だ、とリゼッタは独り言ちる。
そんな男をどうしても殺したくなかったから、魔女は彼から大切な恋人を奪うことにした。
どうせならこの時点で想いそのものも奪ってしまえばよかったのだが、さすがに準備が不足していた。リゼッタは場当たり的にカインから恋人に関する記憶を取り上げることしかできなかった。
条件を特定して、自分の存在を曖昧にする。追われる魔女が逃亡に使う簡易な術だ。奪った記憶は物質に変換する。
炎を操るのが得意なリゼッタは、奪取した記憶を白い炎に転じさせた。出会ってからの仮初の幸福を練り上げ、炎を核に一匹の守護獣を作り上げる。
彼の記憶は白い獣となって、常にリゼッタの傍らに侍った。
終わりが来るその瞬間まで、こうして寄り添い合いながら時を数えるのも悪くないと思った。
彼の大事なものを抱き締めて眠る日々は、柔らかく優しい気持ちをリゼッタに与えた。
同時に未来への恐怖を抱かせる。
殺伐と復讐の準備だけに気を取られていたリゼッタに、愚かなカインはどれだけ盲目的な愛を注いだのか。利用されたとも知らず、 住処を追われ一族の道を閉ざされたカインは、いつ真実を知るだろう。
いずれ、自分と同様に復讐の鬼と化したカインは魔女を見つけ、心臓を貫く。
そのとき彼の記憶は戻り、恋人が魔女であったことを思い出すのだ。憎むべき忌まわしい、呪詛に塗れた魔女であったことを。
見つからなければ彼の記憶は戻らず、恋人は永遠に喪われる。
どちらでもリジーという娘は死ぬ。カインの心から抹殺される。
ああ結局、魔女は恋人を殺すのか。
魔女の自分は罰を受けるかもしれない。
自分を愛した男に断罪されるかもしれない。
……それでもいい。
ただ、時が訪れるその瞬間までは。
――貴方の喪失を抱いて幻の恋に揺蕩うことを、どうか許して。
+ + +
出会った湖の近くにある小さな街に居を構え、リゼッタはいつ訪れるか知れぬ終焉を待った。
7年が経った。
やっと辿り着いたカインは、魔女の顔すら忘れていた。恋人に関する記憶を失っているのだから無理もない。
カインは変わらず馬鹿のままだった。
復讐ではなく、純粋に亡くした恋人の思い出を探している。
だからリゼッタは欲が出てしまった。
カインに気づかれぬよう慎重に、かつて施した術の上にもうひとつ呪いを重ね掛けする。
準備期間は10日も必要はなかったが、念には念を入れた。
……いや、ほんとは単に最後に少しだけ、二人きりで過ごす時間が欲しかったのかもしれない。
彼を、……愛していたのかもしれない。
だから、記憶を渡すのと引き換えに恋人への想いを奪うようにした。彼自身にすら、彼の恋心を譲りたくなかった。
記憶を取り戻したカインの中で、一途な想いは無惨に散華するだろう。どうせ失われる愛ならば、せめて最後までリゼッタの中に残したい。そう、切に願った。
斯くて新たな呪いは成就し、カインが愛した女はこの世から消えた。