4.湖
更に翌日、カインが三度目に失せ物探し屋の扉を叩いたとき、生憎と赤毛の店主も飼い犬(?)の白い獣も不在だった。
向こう隣の何でも屋に訊くと、多分湖じゃないかと言われる。情報料として小銭を取られたのはご愛嬌だ。
湖は小さな街のすぐ傍にあった。馬を駆けなくとも辿り着ける距離だったので、カインは徒歩でしばらく行く。
湖畔には人気がなかった。澄んだ水面と陽を反射する緑が美しい。
視覚に優れた狩人の血筋であるカインは、そう時間も掛からず目的の人物を見つけた。正確には湖のほとりでのんびりと寛ぐ、白く大きな毛玉が目に入ったのだ。
ぱしゃん、と水音がした。
「……リゼッタ」
名を呼んだのは無意識だった。
カインは思わず目を奪われる。
湖の浅瀬に腰まで浸かって光を浴びるリゼッタは、清らかで、一種の神々しささえ湛えていた。
長い赤毛が水に濡れて血のように映える。
巫女に似た白い装いは、女らしい身体の線を強調して、しっとりと透けていた。
我知れず男の芯が熱くなるのを自覚して、カインは邪心を散らすべく激しく首を振る。
沐浴をするリゼッタはやや時間を置いてカインに気づき、言葉をかけた。
「何だ、来たの?」
「その……すまない」
「ただの潔斎よ。魔力を高めてるの。知ってるとは思うけど、魔女には色々準備が必要なのよ」
何でもないことのように言うと、リゼッタは水から上がる。陽が射しているとは言え、冬の冷たい空気の中、その姿はあまりにも寒々しい。
「何か、拭くものは」
カインが訊くまでもなく、リゼッタは獣の首に掛けていた荷物から布を出して、その身をくるんだ。そのまま白い巨体に寄りかかり、ゆっくりと座る。
「これを10日くらいね」
「……すまない」
「そればっかりね、あんたは」
リゼッタは苦笑する。
「私が決めたんだから、いいのよ」
「そ、そうか。でも、ありがとう」
カインはリゼッタを直視できない。疚しい気持ちはない(と信じたい)が、先程の光景が脳裏を侵食している。
気を逸らすために、カインは凪いだ水面を見つめた。優しく煌めく青い静寂は、どこか懐かしさを伴って、落ち着かない心を更に揺さぶる。
「おかしいな」
カインは自身に問うた。
「この場所は初めてのはずなのに……何故だろう。何だか妙な気分だ」
「そうなの?」
リゼッタは一瞬だけ面を上げてカインを見ると、すぐに瞼を閉じるように頭から湿気った布をすっぽりと被った。身動きされてくすぐったいのか、白い獣が僅かに身震いする。
「来たことが、あるのかもね」
「……俺が? そうか……」
失われた記憶に眠る誰かの姿を想像し、カインは冬晴れの空を見上げる。
狩人の街はそう遠くない。湖面に映し出されるのがいつかの恋人の面影でも、何ら不思議ではなかった。
「……ねえ」
感傷を抑えられないカインに、リゼッタは敢えて尋ねる。
「あんたはさあ……どう思ってるの?」
「何が」
「業火の魔女は、どうしてそんなこと言ったのか」
カインは意表を突かれて瞠目する。
「自分の心臓を貫けなんて、なんでわざわざ、あんたに言ったんだろう」
「……わからない」
カインは答えられない。
深く考えたこともなかった。
一族を滅ぼされ、街を廃墟にされ、記憶の一部を奪われ、カインはこの7年の間、空白を埋めるだけを目的に生きてきた。
あちこちを旅して、魔女の噂を聞き集め、幻影に等しい希望を追う。振り返る余裕などなかった。
輪郭さえ朧気な魔女の残像を思い浮かべる。
はっきりと谺する呪いの言葉だけが、カインに残された唯一の手掛かりであり、他に選びようのない道だった。
一族の恨みも薄く、恋人を殺された実感もないカインにとって、業火の魔女は未だ憎むべき復讐の対象ではない。
自分にはわからない……魔女の心情など、及びもつかぬ想像の彼方にある。
「わからない……」
「ふうん……そう」
言葉に詰まるカインに、リゼッタはそれ以上追及しようとはしなかった。
ただ何かを諦めたように、そっと息を吐いた。