さわり
夢園さんは話し終わると、夏の匂いのする湿った空気を深く吸いこみ、それから長く細い息をはいた。それだけで、彼女がどんな思いで自らの心の内をあかしてくれたのかがひしひしと伝わってきて、僕の胸のあたりがカラコロとせわしなく音をたてる。
そして、夢園さんは何か重要な仕事をやり遂げたあとのように、うんと大きく伸びをすると、(いつもシャンとしている彼女にしては珍しく)だらんと足を投げ出し、ベンチの背にもたれかかるようにして虚空を見上げた。
僕はといえば、いまだに緊張の糸が切れず、話しを聞き始めたときのままの姿勢で固まっていた。背を丸めて、両膝の上に肘をついて、夢園さんの言葉の一音も聞き逃さないように、じっと耳の奥に集中していた。変わったことがあるとしたら、公園の入り口にある自動販売機で買った、冷たかったはずのサイダーが、封を開けるタイミングを忘れたせいで手の中ですっかりぬるくなってしまったことぐらいだ。
それでも、僕はジワジワとにじみ出てくる手汗をごまかすように缶を握り続けた。この汗は、夏の夜の蒸し暑さのせいだけではない。そんなことは、自分でもわかっていた。僕はおもわず下唇を噛んで、ちらりと隣の彼女を盗み見る。
先ほどまでの姿が嘘のように、夢園さんは静かだった。
ただ、遠くを見ていた。そっと鳴きだした蝉の声も、澄んだ空気の向こうに輝く星々も……。もしかしたら、地球をおおっている薄くてやわらかな膜さえも通り越して、すごい遠くを見ているのではないかと思わせるほど、『今』を見てなかった。
それがどうしようもなく切なくて、僕は缶の頭に視線を落とした。さらに手のひらが熱くなるのを感じる。
何かを言わなければいけないと思った。僕は、頭の中をひっかき回して懸命に言葉を探す。言いたいことなんて決まってないし、言うべきことなんてもっとわからない。それでも、心の奥底にしまっていた大切な思い出をこんな僕に分けてくれた彼女に対して、僕なりに何かこたえなければいけないと思った。ようするに、僕は焦っていたのだ。
だから、こんなことを口走ってしまった。
「夢園さんは、辛かったんだね」
ハッと夢園さんがこちらを振り返ったのが視界の端にうつる。僕は間をあけないように必死で口を動かした。
「その辛さを、僕は想像することしかできない……。でも、きっと人は誰もが何かしらの辛さを抱えていて、それに大きいとか小さいとかはないんだと思う」
夢園さんは何も言わない。ただ、黙って僕を見つめていた。その静けさが耳に痛くて、今なら握りしめている缶の中から、シュワシュワとはじける気泡の音が聞こえてきそうだった。
「できることならやり直したいって、きっとみんなが思ってるんだ。それでも、やっぱりどうやったってやり直せなくて……。でも、だからこそ、『いい』んだと思う」
笑みを浮かべようとしたら、変速機の調整を間違えた自転車で坂道をのぼっているかのように、なぜか口の端が重かった。
「だから、尊いんだ。だから、今を大事にできるんじゃないのかな。その『今』を積み重ねていって、そしたら、きっと――」
「東雲くん」
その声は、まだ誰の足跡もついていないまっさらな新雪のようにシンとしていて、冷たかった。僕は、この音を知っている。これは、僕が初めて彼女に話しかけたときと同じものだ。
いつか、彼女と交わした会話を思い出す。
「もし声の形が見えたとしたら、夢園さんの声はハリネズミだね」
「なあに、それ?」
「だって、会ったばかりの君は、お世辞にも僕に好意的とは思えなかったから。拒絶の言葉を実際に口にしなくても、それが声音にあらわれていたんだよ」
「私ってそんなにわかりやすい?」
「少なくとも僕にはわかっちゃったよ」
「ふふ、そうなんだ。でも、もう大丈夫よ」
「なんで?」
「だって、今の私は、お世辞なんていらないくらいには東雲くんに好意をもっているもの」
そう言って照れくさそうに笑った彼女の顔が瞼の裏に溶けていった。「やめてくれ」と僕は叫びそうになる。これではまるで走馬灯のようではないか。
そんな僕の願いを砕くように、目の前の夢園さんが口を開いた。
「ありがとう」
それは、彼女の口から初めて聞く、完全な拒絶の言葉だった。