冒頭
「私は、過去の私に恋をしている。」
日にかざすと向こう側が透けて見えそうなほどたよりないレポート用紙は、両手でしっかりと支えなければすぐに腰を折ってしまう。それに加えて、この紙はついさっきまで丁寧に手のひらのサイズにまで折りたたまれていたのだ。格子状についた折り目が、さらに紙の耐久度を下げている。
そんなやわらくて白い平面の端っこに、その一文はあった。
「私は、過去の私に恋をしている。」
几帳面だけど控えめな、持ち主の性格そのものを表すかのような、角ばった小さな文字だ。
その先に続きはなく、次の行の頭には、何かを書こうとしてペンの先をくっつけてはすぐに諦め、そしてまたくっつける、といった行為を繰り返したように、ポツポツと黒い点が残っていた。
けれど、僕にはその一文だけで十分だった。
それだけで、授業の終わりを告げる鐘の音とともに教室から湧き出てきた生徒たちのガヤガヤとした喧騒をどこか遠くにやってしまうくらいには、僕に衝撃を与えた。
だって、まさか彼女がこんなことを書いているなんて思いもしなかったのだ。
彼女の名前は、夢園さんという。
彼女のことは、とある授業で知った。
睡魔との戦いが厳しい午後一番の授業は、昼食後の満腹感と初夏のほどよい日差しのせいで、教室にいる生徒の大半が頬杖をつき、目を半開きにして欠伸をかみ殺していた。僕もその中の一人だった。
足を小刻みに揺らしてみたり、モゾモゾと姿勢を変えたりと、どうにか眠気を散らそうと試みてはいるが、そろそろ限界が近づいていた。既に机の上に突っ伏している幾人かの敗残兵の仲間入りをしてしまうのかと思うと、なんとも苦々しい気持ちになるが、先が見えている勝負をこれ以上続けても無駄に体力を消耗するだけだろう。それなら、次の授業にむけてその体力を温存しておいた方が賢明だ。幸い、この授業は最低限の出席日数さえかせいでおけば、あとは学期末に行われる課題をクリアするだけで単位が貰える。だから少しくらい先生の話を聞き逃してしまっても、そこまで深刻な問題にはならない(そのせいで、こうして実際に眠りに落ちている生徒がいるわけだ)。
僕はそんな言い訳を誰とはなしに頭の中で繰り返しながら、腕を枕にするようにして顔を横に傾けた。
そのとき、ふと斜め前に座っていた女生徒の背中が目についた。
血管が浮き出てきそうなほど白い肌。うなじが見えそうで見えないギリギリの位置で切りそろえられた髪は、他の色など知りませんと訴えるように真っ黒だった。無地のシャツにカーディガンを羽織っただけの恰好は、お世辞にも洒落ているとは言い難いが、彼女によく似合っている気がした。