異母兄弟
第三王子の部屋に戻ると、スカイティアは椅子に外套を掛け、その先にある窓辺に腰掛けた。一週間前に此処に送られた時と同じだ。あの窓辺は彼の特等席らしい。
……貴方は猫ですか、窓辺は陽射しのある内は暖かいでしょうけど、もう夕方ですよ?冷えますよ?
「……好きに座ってくれ」
スカイティアは窓枠に頭を凭れ、シュヴァルツを見た。気怠そうな青い眼差しが氷というよりも揺れる湖面のようだ。
「何処に」
「そこの椅子でいい」
スカイティアが指した椅子は高かった。何とかよじ登って座ったのは良いものの、足が付かない。畜生。
スカイティアはシュヴァルツが座ったのを見届けると、徐に口を開いた。
「兄弟が不仲で驚いた?」
唐突な問に驚いたが、スカイティアが返答を待っているようにじっと見据えていたので素直に答えた。
「まぁ、多少は…『人間』の兄弟とは仲の良いものだと思っていたので。ただ、王宮故の事情があるとは思っていますし…」
「……王宮故、か。まぁ、そうだな」
スカイティアが苦笑を浮かべると、青い双眸が半月を画く。揺れる水面のように照明の光が反射し、窓から舞い込む風が『不吉な黒髪』を靡かせた。
「俺達の中には誰一人、同じ母親から生まれた兄妹はいない…所謂、異母兄弟というものだな……この国の王には愛妾が何人もいるんだ」
何処の国の王もそんなものだ、とスカイティアは肩を竦めた。
「口を挟むようで申し訳ありませんが、何故、そのような話を俺に?」
「…俺の傍にいるなら、王宮事情を少し知っておくといい」
傍にいるなら、という仮定の言葉が引っ掛かり、シュヴァルツは眉を顰めた。
「…俺を本当に自由にさせておく御積りですか?」
今までの『飼い主』と余りにも違うことが、シュヴァルツには未だに受け入れがたい。
第一王子のユエも側近のレーウィスも、そしてこのスカイティアも、本当に王侯貴族か?何十人もの部下や奴隷を従えてこそ権力の象徴ではないのか?……偏見?俺が見た世の中は大体そうだ。
「俺は『黒髪』だから兄上にも嫌われてる…きっとこれからも誰にも好かれないだろう…こんな俺の傍にいる価値はないよ」
スカイティアはシュヴァルツに見せるように長い黒髪を指で摘まんだ。照明の中に黒髪が艶を放つ。色白の肌に『黒髪』が映える。
(何で…この人は…!)
自分を否定的に決める。自分のことなのに、何故、他人に左右される。
(…他人が決める価値って何だ?)
「価値って何ですか?見返りがあるかどうかですか?貴方がどういう風に育ったかは知りませんけど、俺は他人に期待なんかしない!俺は他人にされた自分の評価なんて気にしません!貴方が何と言おうと、俺が奴隷じゃないと仰るなら、俺が此処にいるかどうかは俺が決めます!」
シュヴァルツはきっぱりと言い切った。真っ直ぐに王子を見据えると、呆気にとられた様子で眼を瞬かせている。
「……変な子だ」
ポツリ、と言葉を零したスカイティアは次いで苦笑を漏らした。……失敬な。
「まぁ、此処を出たくなったら言ってくれ。必要なら馬車でも船でも用意させるし」
窓辺から手を伸ばしたスカイティアにそっと頭を撫でられる。優しい手だ。窓辺にいるせいか、少し手は冷たいが、不快には感じない。
「…えぇ、そうさせて頂きます」
勢いとはいえ、二言はない。この手だって、大人しく受け入れようじゃないか。……というか、本当に子ども扱いか。猫とか言いません?もしそうなら、窓辺を好む貴方も同類です。
シュヴァルツが大人しく撫でられていると、不意にスカイティアの手が止まる。
「……何です?」
「ユエ兄上が触れようとした時は怯えていたな、と思って」
あぁそう言えば、とシュヴァルツは思い出す。
ユエが手を伸ばして来た時、反射的に目を閉じた。
けれど、スカイティアの手が伸びて来ても身を竦めることはなかった。……そういえば、不思議。
「ユエ兄上は怖いか?」
「怖いのは、ユエ様ではありません。あの手が前の主人と重なっただけで…」
思ったことを口にしたが、ふと違和感を覚える。ユエの手の大きさとスカイティアの手の大きさは大して違わない。寧ろ、ユエの方が小さい筈。意外に小柄なのだ、第一王子は。
威圧という点では、初めて会った時に感じたスカイティアに対する恐怖と同じ筈だ。勿論、あの時のスカイティアが手を伸ばしてきたら反射的に目を閉じたかもしれないが、今となっては検証の仕様がない。
「そうか……不謹慎だとは思うが、お前は俺の知らない世界を知ってるんだな」
意味有り気な言葉に、シュヴァルツは首を傾げた。
いや、奴隷の生活を王子が知ったら卒倒するって。と言うか奴隷側から見た世界なんて、王子が興味持つようなものじゃないよ?寧ろ周囲が全力で止める。レーウィス殿が可哀相だから止めて。マジで。
この王子、意外と楽しい(注:善意的表現)性格をされているようで不安だ、色々。レーウィス殿が過保護っぽいのはこの王子の性格のせいか。納得。
「……もう知っていると思うが、俺は引き籠りでな」
それは嫌と言う程見せて貰いました、とシュヴァルツは内心で呟いた。
猫は縄張りから出ないらしいけど、やっぱり猫か、あんた。猫は新参者は追い出すか、警戒しながらも様子見をするらしいが、最初にあった時のあんたもそれと同じ。
あぁ、さっきの頭を撫でる行為は仲間認定(=毛繕い)ですか。本当に猫か!……シリアスな場面なのに、なんか発想がずれている。でも、それは言動が突飛なこの王子のせい。俺のせいじゃない。
「クラウディア兄上には昔から嫌われていて…俺が『黒髪』だからあの人は俺を目の敵にしているんだ…本当は外に出たい。こんな王宮で一生を終わりにしたくない。髪色なんか気にしないで生きられる場所で生きたいんだ」
引き籠りの王子が望むのは王宮という名の籠から逃れることか。
この部屋を出た時、息の詰まりそうな回廊だと思った。少ないとはいえ、廊下に並べられた絵や石像はその眼で監視されている様で、部屋から出ることさえもできない。……まぁ、あれだけ並んでたら気味悪い。
「…スカイティア様は此処を出たいのですか」
それはシュヴァルツにとって好都合だ。スカイティアの傍にいるかどうかは保留するが、この王宮にずっといる心算はない。期待を込めて尋ねればスカイティアは苦笑を漏らした。
「それが出来るなら…けど、誰も認めてくれない。王の子だから」
スカイティアは諦めていた。
王宮という籠から逃れることも、他人から認められることも。
「自由に生きることに、誰かの許可が必要なのですか?それでは貴方も俺たち奴隷と変わらないではないですか」
溜息を吐くシュヴァルツに、スカイティアは笑った。「だからだよ」と。
「俺みたいだから…翼をもがれた鳥?いやそんな大層なものじゃないか。逃れたいのに逃れられない運命に囚われている自分が目の前にいるみたいで…奴隷の方がすっと大変だって分かっているけどさ」
「……奴隷は必要ないと仰ったのはそのような経緯ですか」
「そうだよ。お前は自由だ…こんな王子の元に留まる必要なんてないから」
(あぁ、左様ですか。何処までも覇気の無い方だと思いましたが、そこまでですか…)
何処まで自分を否定したいらしい主人に、シュヴァルツはムッとした。
足掻け、逃げ出しやがれ、この腑抜けが──!!
……とは言えず、まぁ、そこは追々考えよう。
ジルバートにも確実なことは言えず、黙り込んだ前科があるのだ。脱出する方法とか、王宮から出たことのない王子を無理やり引っ張り出しても生き残れる保証はない。……現実見ないとまた捕まるし。二度は御免だ。
「……王子、俺、『ヒカル』って言います」
え?とスカイティアが眼を瞬く。唐突な自己紹介に呆けた顔はいつも以上に子供っぽい。そんな顔をするのも、彼が俺を受け入れた──その心変わりは半分以上が同情──からだろう。
「貴方が選んだ俺の名前…『リヒト』も『ライト』も俺の名前です。まぁ皮肉ですよね、この髪色で『輝く』って意味の『ヒカル』なんて」
心を開いてくれたなら、此方も誠意で返そう。
とはいえ、それは建前だ。本音は少しでも彼に近付きたかった。そんな感覚を持つなんて、思いもしなかったし、利用する心算でいた以上は誠意なんて言えないけれど。
自分に自信を持てない主人が奴隷と己を同化するように、ヒカルもまた彼を自分と同一化していた。同じ髪色ということも理由の一つだが、この王宮から逃げられない王子は、自分と同じだ。
髪を一束摘まみ、にっと笑うヒカルがスカイティアの目には無邪気な子どもに映る。
「でも、確かにそれが俺の名前です。何処にいるかも生きているかもわからない親がくれた唯一のモノです」
「……名前は教えたくないんだと思ってたけど」
「貴方ならいいと思ったんです。まぁ、この名前で呼ぶかどうかはお任せしますが」
にっと笑えば、スカイティアが笑う。
「いや、『ヒカル』と呼ぶよ。美しい名前だ」
スカイティアはヒカルの頭を撫でると、また名を呼んだ。
まるで、大切な物を呼ぶように。
◆◇◆◇◆
ルゼノ王宮の一角にあるバルコニーからは海が望める。水平線に沈みかけた半球体が海を赤く染め始めていた。
クラウディアは夕日に似た色の赤い髪を風に靡かせ、バルコニーの欄干に頬杖を付いた体勢で何処ともいえない空を眺めていた。
「──クラウディア」
名を呼ばれ、クラウディアは振り返った。棚引く金色の髪が視界に映り込む。彼を呼んだのは、自身の異母兄であるユエだった。靡く金色の髪を手で払い、口元に笑みを浮かべている。
「珍しいね、君が此処にいるとは…此処は君が嫌う、スカイティアの部屋が見える場所だ」
青い双眸を眇め、ユエは微笑む。幼い顔立ちに浮かぶ微笑は穏やかだが、少し意地悪だ。ユエの皮肉めいた言葉にクラウディアの眉間に深い皺が寄った。
「何故、兄上はスカイティアを恨まないのですか?」
「恨む?どうして?」
首を傾げて微笑むユエに、クラウディアは一層眉間に皺を寄せた。
「貴方が王位に一番近い。それは王宮の中では誰一人疑う者はおりません。しかし、一部では『黒髪』の逆鱗を恐れる者達も、それを利用しようとする者もおります。……あれは、髪色だけで貴方から王位を略奪するかもしれないのですよ!」
クラウディアの瞳に金糸が映り込む。風に靡く金糸がユエの白い肌に触れ、青い目を隠してはまた露わにする。
誰もが理想とする王子。彼は敬愛され、将来、王になることを望まれている。
それを阻む愚か者など、この王宮にはいらない。
「クラウディア、僕は王位なんてどうでもいいんだ。もし、スカイティアが望むなら」
鈴の音に似た柔らかな声音がクラウディアの鼓膜を揺らした。ユエの青い瞳は赤髪を映し、滑らかな半月を画く。
「僕は喜んで、この地位を明け渡そう」
夕暮れの日の中でユエの金色の髪が一層輝きを増す。赤く染まり掛けた空に映える金糸が、クラウディアの双眸に映り込む。クラウディアの波打つ赤髪が風に揺られ、ユエを捉えた瞳が愁いを宿した。
「何故、その髪色を生まれ持ちながら王位を望まれないのですか?」
クラウディアは表情を歪めた。信じられない、と語る表情がユエの瞳に映り込む。ユエが王位に就くことを信じて疑っていなかった眼差しの中に動揺が色濃く映った。
「君は王位が欲しいか?」
真っ直ぐに見据え、ユエが問う。空色の瞳は感情を読み取らせなかった。
今、クラウディアが見ているのは、ユエが王や臣下の前で見せる次期国王としての表情だ。揺るぎないそれは、クラウディアの返答次第でユエの中の最善の策が動き出すと物語っているものであり、一言間違えれば、異母弟のクラウディアも首が飛ぶ。
「私は…側室の子です。正妃様の御子息である貴方様から王位を奪うことなどありえません」
それは、とユエの唇が動いた。彼はクラウディアの赤髪を一房掴み、異母弟を見上げた。クラウディアとユエの身長差は凡そ十センチメートル。下から顔を覗き込まれ、クラウディアは青い双眸から逃れられない。
「この髪色が理由か?」
金色の髪を美とするルゼノでは金色と黒を別として残りは平等だ。
『金髪』のユエ、『赤髪』のクラウディア、『黒髪』のスカイティア。
異母兄弟の中でも当然のように身分に差がつく。生まれた順番よりも、習慣による差別が生み出した差である。だからこそ、『赤髪』であるクラウディアは第二王子であるにもかかわらず、『金髪』の第四王子よりも身分が低い。
「いいえ、私は貴方が、この国の王位に就かれる事が当然と思うだけです」
クラウディアの返答にユエは「そうか」とだけ言い、赤い髪を放した。細い指から解放された赤髪が頬に返ると、クラウディアは忌々しそうに睨んだ。
「…僕はこんな髪色なんて、大嫌いだよ」
目を伏せたユエからポツリ、と言葉が落ちる。
「……兄上?」
クラウディアが呼んでもユエは応じない。ユエは目を伏せたまま踵を返し、クラウディアの耳にユエの足音だけが響いた。
「何故、ですか…?」
遠ざかる背に問い掛けた。けれど、それはユエの耳には届かない。
ユエの姿が見えなくなると、クラウディアはその場に座り込んだ。風が赤髪を浚うように靡かせる。
「…どうして、ですか?」
ユエを王位に望むのは『金色』の髪だけが理由ではない。ユエに何一つ敵わないと知っているからだ。政に対する厳格さは王の右腕と称されるほどで、誰一人、ユエの王位継承を疑わない。クラウディアもそれで構わなかった。寧ろ、それを望んだ。ユエがルゼノ王となり、彼の力になれれば、それでよかった。
それなのに、とぎゅっと拳を握った。
(貴方が王位につくなら誰も文句を言わないのに、どうしてそんなことを仰るのですか)
クラウディアにとってユエは絶対的な存在である。それは兄だから、という理由だけではない。幼い頃から、ユエだけが特別だった。赤髪の王子であるクラウディアをただ弟の一人として、そして王家を支える一員の王子として扱ってくれた兄。……だから、彼だけに尽くそうと思えたのに。
「どうして、スカイティアに優しくするのですか…?」
風が髪を浚う。流れる赤い髪が深青色瞳に映り込む。クラウディアは何一つユエと同じ色を持たない。それが酷く悲しいことに思えた。
「俺を救ってくれたのは兄上なのに…」
力なく呟いてそのまま寝転んだ。紅い絨毯の上に赤い髪が散る。絨毯に紡がれた金糸が、赤髪の間から煌いて見せる。
「大嫌いだ、あんな弟…」
クラウディアは視界の端にちらつく赤髪を乱暴に掴むと、クシャリ、と握り潰した。この髪色は、否、受け継いだ色は全て母親からだった。父親である王に似なかったクラウディアに、母親は酷く冷たく当たった。
『赤髪』で生まれた以上、『金髪』の王子より格下になる。王位継承権から大きく遠退くのだ。勿論、王位継承権第一位は『金髪』であり、第一王子のユエである。誰も文句を付けようがない。
「……俺は、貴方だから憧れたのに」
ポツリ、と言葉が毀れる。けれど、その言葉を聞く者はいない。
日が沈む。東の空に濃紺色が広がる。星が空に浮かび始めたことにクラウディアは気付かない。