ルゼノの王子2
「──相変わらず、仲が悪いね」
軽やかな声が耳朶を打つ。
その声に反応してか、クラウディアが慌てた様子で踵を返して戻ってくる。その顔には冷笑も侮蔑もない、ただ真剣な面持ちでシュヴルツの背後に頭を垂れた。
「ご無沙汰しております」
クラウディアに続き、スカイティアも頭を垂れた。
──二人の王子が頭を垂れる人物が自分の背後にいる。
そう思った瞬間、シュヴァルツの心臓が跳ね上がった。床に伸びる影は決して大きくない。けれど、巨体が放つ威圧とは異なる何かを背中に感じた。
(落ち着け…)
シュヴァルツは意を決して後ろを見上げた。
そこにあったのは、金糸を紡いだような光沢を持つ金色の髪。空のような鮮やかな青い瞳。シュヴァルツが想像する『王子像』が、そこにあった。
「ユエ兄上、お久しぶりです」
「うん、久しぶり」
スカイティアの二人目の兄──ユエは美麗な顔立ちの青年だった。二人の兄ということは少なくとも二十歳を越えている筈だが、その容姿はあどけなさが残っている。華奢な体つきのせいか、クラウディアの方が年上に見えるが、二人の態度がユエの身分を明確にしている。
「ユエ兄上は何故、此方に?」
「それがね、レーウィスに用があって来たんだ。シキ殿が探されていたよ」
ユエはレーウィスを捉えるとにっこりと微笑んだ。あどけない顔立ちが一層幼く見える。
レーウィスは態々探しに来たユエに礼を述べると、スカイティアに少しの間離れると告げた。
「さて、と」
レーウィスの後ろ姿を見届けると、ユエは二人の弟に向き直った。空色の双眸は滑らかな半月を画き、喜色満面と言った様子だ。
(この人が、この二人の兄…?)
横柄な態度であったクラウディアは委縮し、スカイティアは何処か怯えたような表情でユエを捉えていた。第一王子であり、『金髪』であるユエを畏怖しているようだ。
「珍しいね、君達が一緒にいるなんて」
「偶然ですよ、誰が好き好んで『黒髪』と一緒にいるのですか」
微笑むユエとは対照的に、クラウディアの眉間に皺が寄る。不快さを顔の全面に押し出したクラウディアに、ユエは表情を変えずに応答する。
腹の内が読めない人だ、と思う。クラウディアのように明確な嫌悪を表さずとも、一足一投にシュヴァルツに対する『感情』が現れる筈なのに、この青年には全くそれがない。完璧に猫を被る性質か、それともシュヴァルツに興味がないだけか。
「そう…此処の子は、ティアのところの子?」
「は、い…ヴェリーア殿からの」
そう、と相槌を打つと、ユエはシュヴァルツの前に屈んだ。……無視をする心算はないらしい。
大きな空色の瞳にシュヴァルツが映り込む。片膝を付いたユエの身長よりもシュヴァルツの方が背が高いため、ユエの顔を見下ろす形になった。
「君の名前は?」
そう問われ、シュヴァルツは返答に困った。
「……シュヴァルツ、です」
そう答えれば、ユエは眼を軽く見開いた。驚くのも当然である。レーウィスもスカイティアも驚いていた。
「……『シュヴァルツ』ね」
感情の読めない声音は耳朶を打つ。スカイティアの氷のような眼とは異なり、空虚を感じさせるユエの青い双眸がシュヴァルツを映し込んでいる。
「……リヒト、ライト…此方の方がしっくりくるけどなぁ」
ユエは一週間前にスカイティアが選んだ単語を口にすると、膝上に頬杖を付いて首を傾げた。
……この国では、皮肉で名前を付けることが流行っているのですか?それとも、ただの嫌がらせですか?というか、その発想はまさしく弟王子と同じ発想なんですが。
「兄上、奴隷に名前など必要ないでしょう」
「クラウディア兄上、彼は奴隷ではないと先程申し…」
「お前には聞いていない!」
弟の反論も意に介さず、クラウディアは顔を背けた。「お前の言葉は全てを拒絶する」と言わんばかりの勢いに、シュヴァルツは呆れた。
……横暴な態度の人間は何処にでもいるようだ。別に、そんな怒声に怯えるような軟な性格はしておりませんとも。というか、俺に向けられたものじゃないし。
「…相変わらず仲が悪いな」
溜息が聞こえた。ユエの視線は下がり、シュヴァルツを映さない。
「ねぇ、ティア」
「は、はい」
ユエの呼びかけにスカイティアがビクリ、と肩を揺らす。不安を通り過ぎて怯えた様子の主人の元へ、シュヴァルツは何故か駆け寄りたくなった。
「この子をどう呼んでるの?」
「わ、私は…」
一度も呼んだことはない、とは続かなかった。けれど、それだけでユエは理解したようだ。呼ぶ毎に自身さえも傷つけるような皮肉の名を口にできる程、彼の弟は強くないのだと。……呼べることが強さだとは思えないが。
……理解がある様で何よりですよ。別に俺は『シュヴァルツ』と呼ばれようと気にしませんが?というか、最早名前とは認識してないし。『記号』ですよ、き・ご・う。
「……呼べない名前なんて不便だ。この子の名前は新しくつけるか、本名を教えて貰った方が良い」
ユエの言葉に、スカイティアは「左様ですね」とだけ応えた。ユエは弟の反応に何を思ったのか双眸を眇めると、シュヴァルツにそっと手を伸ばした。
その瞬間、反射的に目を閉じた。ルゼノに来る前は殴られることも蹴られることも日常茶飯事だった。今でも、目の前に手が出ると殴られると思ってしまう。
けれど、ユエは殴らなかった。それどころか不吉の象徴である『黒髪』に触れ、優しく撫でた。
驚いて顔を上げれば、すまなそうに悲しそうに眉尻を下げたユエが視界に映り込む。
「……怖い?ごめんね」
「兄上?」
ユエの謝罪に誰もが目を瞠った。この中で一番身分の高いユエが奴隷同然のシュヴァルツに謝ったのだから、無理もない。
……あのですね、ちょっとばかし身分的規則をかじった程度の俺でも分かるんですよ、王子様?あんたが謝ってどうするんだ。レーウィス殿も貴族階級の人間として『変』だけど、あんたも同類か。そもそも第一王子が奴隷以上小姓未満の俺と普通に交しているのも、おかしいんですけどね?
「君の髪色は、この国では不吉とされている。生き辛い国だと思う……僕の弟にとっても」
悲しげな鈴の音が耳朶を打つ。柳眉が情けなく垂れ下がり、空色の瞳はまるで迷子のように不安そうで、彼を幼く見せる。
「……困った世の中だ」
呟かれた言葉がシュヴァルツの中に落ちて来る。レーウィスと話した時と同じように。
「……ごめんね」
青い月が歪む。哀しげな表情がレーウィスと重なる。それがシュヴァルツを戸惑わせた。
(どうして……変な人ばかりだ)
奴隷商館での日々が、嘗ての奴隷生活が、夢であったならいいのに。
それなら今を現実として受け入れられるのに。
(あぁ…駄目だ…)
シュヴァルツは唇を噛む。
瞼の裏に張り付いた残像。血の臭い。決して消えない過去が蘇る。
忘れるな、と誰かに言われているようで──。
「シュヴァルツ!」
不意に聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。
「……ジル、バート?」
視線を向けた先には黒髪に翡翠色の瞳を輝かせた青年がいた。間違いなく、ジルバートだった。奴隷商館で着ていた衣服とは比べ物にならない小奇麗なシャツを身に着けた彼はシュヴァルツを確認するなり駆け寄って来た。
「何だ、お前も…」
そう言いかけて、ジルバートの顔色が変わる。
原因は一目瞭然。此処に集まった三人の王子の存在だ。一目で高貴だと分かる身形が三人も揃えばかなりの迫力があるだろう。
この三人が王子だと分からなくとも、貴族の前で失態を犯したと言うくらいは認識できる。ジルバートの顔から血の気が引くのが目に見えた。
「また『黒髪』か…なんて不吉な日だ」
忌々しげに口を開いたのは、『赤髪』のクラウディアだ。器用に侮蔑の表情を作り上げると、ジルバートを嘲笑する。
「──クラウ」
鈴の音が厳かな鐘の音に変わったように鋭い声が、クラウディアを呼んだ。静かながらも、それが「黙れ」と示しているのは誰もが理解した。
「た、大変失礼致しました!」
その場に平伏してジルバートが謝罪を述べた。
王族の前で失態を晒せば首が飛ぶ。この場でジルバートの首が飛ぶかは王子──この場では一番身分の高いユエ次第だ。
シュヴァルツは額に汗を滲ませた。遠目に見てもジルバートが震えているのが分かる。
ユエには『黒髪』に対する嫌悪もなければ、そもそも不幸の象徴などと思っていない。『黒髪』故の差別はないにしても、これは礼儀の問題だ。王子が奴隷の闊歩を許すはずがない。
シュヴァルツは思考を巡らせた。ジルバートを連れて逃げるか。それとも、自分の安全を優先するか。
──安全?
はっと内心で自嘲する。そんな場所はない。この世は全て生き地獄だ。蘇る惨劇を、降りかかってきた厄災を誰が振り払えるだろうか。
(…どうする?)
シュヴァルツが逡巡する間にユエはジルバートの方へと歩み寄る。その一歩一歩が長い。ほんの数秒が小一時間にすら感じられる。
「……君は確か、アルセル侯爵の所の子だね」
「は…覚えて下さって光栄の極みでございます、ユエ王太子殿下」
頭を垂れたままジルバートが答えた。ユエが王太子であることも知っていた。そして、幸か不幸かユエもジルバートのことを覚えている。
「君はあの子を『シュヴァルツ』と呼んだね…知り合いかい?」
「その、彼とは奴隷商館、で同じ部屋に…」
艶然と微笑むユエに、ジルバートは頭を垂れたまま応えた。
「奴隷商館…シュヴァルツ…かぁ…」
ふーん、とユエは呟いた。ユエは踵を返すと、シュヴァルツへと視線を映す。その顔に浮かべられたのは幼い印象を払拭する大人びた表情で、シュヴァルツは額に汗を滲ませた。
「君は『シュヴァルツ』という名を気に入っているのかい?そうでなければ、本当の名を教えてくれない?」
にっこりとユエは微笑んだ。しかし、そこにあるのが純粋なる興味だとは思えなかった。ユエの気配を背後に感じた時と同じ威圧感だ。権力者特有の、有無を言わせぬ迫力が足を竦ませる。
「……名前など気にしません。ご自由に御呼びくださいませ、第一王子ユエ様」
息を呑んだ。それから、はっきりと口にした。従順に見せつつも、細やかな反抗だ。
シュヴァルツは権力や圧力に屈するのは嫌いだ。その人の思い通りになるのも御免だ。
ユエが本当の名を求めるなら、決して教えはしない。
例え、不敬罪に問われたとしても。
そう、と呟くとユエは双眸を眇めた。青い瞳からシュヴァルツの像が消え、ユエは視線をジルバートの方へと向けた。
「まぁ、いいか…侯爵に待つように言われたなら僕が案内するよ」
「兄上、それなら侍従にやらせれば宜しいでしょう!態々、王子である貴方様がされることではありません!」
クラウディアはユエを呼び止めるが、ユエは首を横に振った。
「どうせ、通り道だ。君こそ此処でいつまでも油を売ってないで、剣術の鍛錬にでも行ったら?」
空色の瞳が『赤髪』を映す。優美な顔立ちに笑みを浮かべていたが、向けた言葉はまるで突き放すようで、クラウディアはぐっと表情を歪めた。
けれど、それは一瞬だった。クラウディアは返事をして頭を垂れた。その従順な姿が却って痛々しい。『兄』という立場以上に、『金髪』で『第一王子』という絶対的な地位が、権威が、従わせているようで。
「スカイティア、君はもう少し顔を見せてくれると嬉しいな」
スカイティアの「はい」と何処か上擦った声音の返事を聞くと、満足そうに微笑んだ。
ユエはジルバートに声を掛け、踵を返した。ジルバートは何かを言いたそうにシュヴァルツを見たが、ユエを待たせる訳にはいかず一礼して後を追った。
ユエの姿が回廊の奥へと消えると、クラウディアは踵を返したが、スカイティアはクラウディアの足音が聞こえなくなるまで眉一つ動かさなかった。
二人きりになった回廊が静まり返った。何時の間にか、紅い絨毯に伸びる影の面積が広がっている。時刻は夕刻らしい。
……ねぇ、二人きりなんだけど。気まずいんだけど。
「……言っただろ」
ぽつり、とスカイティアが呟いた。溜息と苦笑が耳朶を打つ。顔を上げると、自嘲に満ちた青年が力尽きたように壁に寄り掛かっていた。
「俺の傍にいると苦労すると」
「……俺も、苦労することには慣れていると申し上げました」
言葉を探したのか、少し間を空けたスカイティアは短く「戻るぞ」とだけ口にした。