ルゼノの王子
奴隷の少年――シュヴァルツがルゼノ第三王子スカイティア殿下の元に送られてから、既に一週間が経過していた。
けれど、スカイティアは一度も部屋の外──とはいえ、彼の持ち部屋だけで十分に生活できる設備が整っている為──に出ることがなく、シュヴァルツと会っても視線を合わせようともしなかった。
シュヴァルツは、確かに部屋の中では自由であった。檻も枷も鎖も処分され、応接室とレーウィスの部屋の往来は自由だ。
我ながらいいのか、それで。
危機感なくない?俺、そんな無害に見える?……別に何もしないけどさ。
しかし、納得がいかないのは、別のことだ。
「……むぅ」
「どうしました?シュヴァルツ」
応接室のテーブルで書物に囲まれながら、シュヴァルツは頬を膨らませた。
奴隷として最低限の衣食住を経験した後の王宮暮らしは申し分ない。料理は王族並とまでは行かなくとも、レーウィスとほとんど同じものを提供されるし、奴隷時代に着ていた麻布の衣服から王宮を出歩いていてもおかしくない高価な服を纏うようになった。
部屋は、もともと空いていた王子の部屋の一室を使っている。ふかふかの寝台は、布を引いただけの檻の中と比べようもない。
だから、シュヴァルツの不機嫌さの原因は、主人であるスカイティアに限る。
「こう言っちゃなんだけど、スカイティア様って引き籠りなの?全然、顔合わせないんだけど」
会わなくても良いが、こうも顔を会わせないと切っ掛けがない。
……いや、仲よくなりたいとか、そういう訳ではないから。断じて。というか、『黒髪』が不吉とされる国で、最下層に位置する奴隷と仲良くしたいと思う筈がない。……レーウィス殿が例外中の例外だ。
「……外に出ていいとか聞ける雰囲気じゃないですし」
「外に、出たいのですか?」
レーウィスは首を傾げた。金色の髪がさらさらと肩を滑り落ちる。勿論、必要なものは揃っているし、特別外に出る理由がある訳でもない。
スカイティアの部屋はもはや一軒家のようなもの──と言ってもかなり大規模な屋敷──だ。
レーウィス曰く、王宮の一角をスカイティアが所有しているという。その空間で衣食住が足りて、暇を潰す本もあれば美術館のような絵画や芸術品もある。奥の空間には──室内に!だ──馬が歩ける程度の広い場所もあって、乗馬もレーウィスが付き合ってくれればできるので、特別スカイティアの管轄外に出る必要はない。
けれど、檻も枷も首輪のないのに、部屋の中に──壁に囲われ、空のない空間に──閉じ籠っているのは耐えられない。
(だけど…)
シュヴァルツは、スカイティアがいるだろう部屋の奥をちらっと見た。
静まり返った部屋の最奥。息を潜めているのではないかという静けさ。
(一応、主人だからなぁ…)
主人の存在を無視する訳にはいかない。どれだけ「話しかけるな」オーラが出ていても、彼がこの部屋の主であることは変わりないのだ。
「壁に覆われた部屋にいるなんて奴隷商館と変わらない……本当に奴隷なんて不便だ」
奴隷の規則。監視役がいない奴隷は脱走者と思われ、捕獲されるか殺されるかだ。
(王宮内だったら余計だよなぁ…)
権力を持つ人間は、他人の目など気にしない。自分の好き放題人を振り回して遊ぶのだ。それが奴隷の命に関わることでもお構いなし。……えぇ、俺達は『物』ではあっても『者』ではありませんからねぇ。
「シュヴァルツ」
静かだが、厳かに鋭く名を呼ばれ、規則のことを思い出す。慌てて口を押え、スカイティアがいないことを確認した。幸い、神出鬼没の王子はいなかった。
「…ごめんなさい。でも此処は王宮だし、勝手に出掛けちゃいけないでしょ?」
「スカイティア様に許可を頂いてきます。私と一緒なら大丈夫でしょう」
レーウィスは苦笑すると、スカイティアがいる奥の部屋へと向かった。応接室からスカイティアの部屋へと向かう通路は昼間でも暗い。その薄闇の中をレーウィスの靡く金糸が煌いていた。
ドクン、と心音が高鳴った。奴隷商館に居た頃と同じ既視感を覚える。
「さっさと忘れちゃえばいいのに…」
ハッと苦笑する。奴隷商館にいた女──ヘラーザがどのような経緯で奴隷商人になったかは知らないが、闇に棚引く金糸を見る度にヘラーザのことを思い出すのだろうか。
溜息を漏らすと、レーウィスが奥から戻って来た。
「許可が下りましたので、行きましょうか」
シュヴァルツに声を掛けると、レーウィスは応接室の扉を開けた。シュヴァルツは、主人であるスカイティアの許可を意外に思ってから、彼の後に続いた。
部屋の外にはまっすぐ廊下が続いていた。紅い絨毯に金糸が紡がれ、煌々と輝いている。天井にはスカイティアの部屋と同じシャンデリアが吊るされ、壁には絵画が並び、この回廊だけでも一軒家が立つ程度の価値があるだろう。
「……凄いね」
どこぞの領主の屋敷もこのような感じだった。しかし、回廊に並んでいたのは代々の領主の自画像だったが。しかも、別段、顔が整っている訳でない。いや、美的感覚は人それぞれか。でも、脂ぎった肥満体が美しいと思うお国柄は知らんぞ。いや、ふくよかさを美徳とする国は……あるかもしれないが、俺は知らん。
「此処は未だ少ない方ですよ」
「え…?」
レーウィスが呟いた言葉の意味を、シュヴァルツは理解できなかった。美術館かと思う程の芸術品の数々を、この一週間でも見終わらなかったというのに。
「此処は王宮の奥でしょ?」
王子の部屋がある回廊だからこその装飾だと思うが、これでもまだ少ないと?
「…えぇ。ですが、此処はスカイティア様のお部屋の前ですから…スカイティア様は必要なもの以外お持ちにはなられませんので」
「どんだけ金があるんだよ…」
これだけ並んでいてもまだ少ないらしい。金持ちの金銭感覚に呆れつつ、王宮の説明を聞きながら、レーウィスはシュヴァルツを案内した。
スカイティアの部屋から回廊を真っ直ぐ進むと、ルゼノの城下を見渡せるバルコニーに出た。
ルゼノは海に面した国である。バルコニーから見渡せるのは城下だけでなく、その向こうに果てしなく広がる紺碧の海も見渡せる。青い空と紺碧の海のグラデーションが美しいルゼノの王都は観光の名所でもある、とレーウィスが教えてくれた。
「凄く綺麗だ…」
感嘆の声を漏らすシュヴァルツに、レーウィスが微笑む。
「──レーウィス」
不意に聞こえた声に、シュヴァルツは振り返った。
黒い瞳に映るのは、身には高価だと一目で分かる装飾品と衣服を纏った青年だった。彼の顔はレーウィスのように中性的な顔立ちでもなければ、スカイティアのようなあどけなさもない、端正な男前な顔立ちだった。腕の立つ騎士だと言われれば納得できる容姿で、細すぎず、確りと鍛えられた筋肉が服越しでも解る身体だ。
しかし、何よりも印象的なのは──。
(あ…赤、髪…?)
青年の髪は、夕焼けのように赤かった。深青の瞳も印象的だが、夕闇を思わせる赤い髪にシュヴァルツは首を捻った。ルゼノでは『金髪』を持つ者が高貴とされ、それ以外は仕える者でしかない。つまり、『赤髪』は平民階級だ。
「クラウディア様」
クラウディアと呼ばれた青年はシュヴァルツを一瞥すると、忌々しそうに眼を眇めた。
「『黒髪』か。厄介な者を入れさせたものだ…奴隷に枷はないのか?レーウィス」
赤髪に見え隠れする深青色の瞳がレーウィスを捉えると、明らかに侮蔑を孕んだ声で尋ねた。……侮蔑にも見縊られることにも慣れているシュヴァルツにとって、クラウディアの横柄な態度も大したものではないのだが。
(とはいえ…『金髪』のレーウィス殿に上から目線…)
『赤髪』でありながら『金髪』より上の立場になる地位。それだけで、クラウディアの地位に見当が付いた。
「彼は奴隷ではありませんので」
レーウィスは敬語を使いつつも、臆することなく艶然と微笑んで返答した。
その返答に軽く目を見開くと、クラウディアは固く口を結んだ。次いで溜息を落とし、レーウィスを捉えた。
「…レーウィス」
「はい」
素直に応じるレーウィスを、クラウディアは痛々しささえ覚える真剣な面持ちで見据えた。
「俺の元に来ないか?」
クラウディアの言葉にシュヴァルツは眼を見開き、レーウィスを見上げた。
クラウディアは間違いなくスカイティアよりも地位が高い。恐らく彼の兄──第一王子か第二王子だろう。レーウィスは髪色からして貴族だが、それよりも地位の高い王族からの誘いだ。それも、今の主人よりも明らかに地位が高い王子に仕えられることになるのだから、レーウィスにとっては好条件だろう。
(レーウィス殿…!)
心臓が高鳴った。一週間、あの部屋にいて分かった。スカイティアの部屋にいるのはレーウィスだけだ。彼が離れたらスカイティアは孤独になってしまう。
断って、と願った。
けれど、そもそもそんな不安など不要だった。
「クラウディア様、私は、私の意思でスカイティア様にお仕えしております」
レーウィスは顔色を変えず、ただ少し困った笑みに変えて返答した。その笑みの美しいこと。見惚れるほどだ。
(……そう、美形っていうのは彼のことを言うんだ、どこぞの領主。お前の屋敷の肖像画など、この人の前では塵芥だろう)
「……それが解らないと言っている」
クラウディアは不満そうに眉を顰めた。けれど、レーウィスは微笑んだままだった。まるで聞き分けのない子供を諭すようにゆっくりと、優しく説明した。
「長らく連れ添ったスカイティア様から引き離されることは、私にとって拷問に等しいものでございます」
「……長らく連れ添ったのが理由か?」
クラウディアは腕を組み、レーウィスを見据えたまま問う。深青色の瞳が光の加減か、シュヴァルツには揺らいで見えた。まるで波立つ水面のように。
「他に、理由が必要でございましょうか?」
互いに譲らない二人の会話にシュヴァルツの鼓動は加速していた。以前なら他人の会話などに気を取られる様なことはなかったと言うのに。
(何で、俺…こんなに気にしてるんだろ)
あの部屋に、スカイティアと二人きりになるからだろうか。
それが嫌でレーウィスが引き抜かれないように祈っている?
(別に、関係ないのに…)
ほんの数日だけ耐えればいい。何れは此処を出て行くのだ。スカイティアが一人になろうと関係ない。彼に対してシュヴァルツが何かを思う必要はない。それなのに、どうしてこんなにも気にかかるのだろう。
「……解らないな」
クラウディアがボソリ、と呟く。反射的に見上げた彼の顔が歪んでいるように見えた。
「──兄上」
不意に聞こえた声にシュヴァルツの心臓がドクン、と跳ねた。誰のものとかと考えなくても分かる、主人の声だ。
「久しいな、スカイティア。今日も引き籠っているのかと思ったぞ」
クラウディアは横目でスカイティアを捉え、冷やかな声音で続けた。
「引き籠っている内に、俺からレーウィスを奪うお心算ですか」
スカイティアは笑った。口だけで。瞳は決して笑わない。何処か引き攣ったような、複雑そうな笑みは、それでも彼が人間らしい笑みを浮かべているのだという印象を受ける。溌剌とした覇気はなくとも縋るものがある。それは生きる上で重要なことだ。……少なくとも、生きるための楔として。
「奪う?レーウィスが俺の元に来る時は、レーウィス自身の意思だ。そこの餓鬼と違って、レーウィスは『物』じゃないからな」
クラウディアは器用に片眉だけを吊り上げ、意地の悪い笑みを浮かべる。
「彼も『物』ではありません」
スカイティアは怒りも笑いもせず兄を見据えている。青々とした氷のような眼は見ていて痛々しい。
クラウディアはその瞳から逃れるかのように視線をシュヴァルツに向けた。
「ヴェリーアから、か……まぁ、『黒髪』には『黒髪』が似合いだな」
「皮肉ですか」
「……俺はお前が大嫌いだからな」
そう言うと、クラウディアは踵を返した。白い外套が揺れる。金糸で刺繍された柄はルゼノの紋章だ。白い外套の上を靡く赤髪がそれを見え隠れさせる。
「俺が『黒髪』だから、ですか」
スカイティアはクラウディアが横を通り抜けると、そう問い掛けた。クラウディアは振り返らずに「あぁ」とだけ答えた。
「では…俺は永遠に嫌われたままですね」
スカイティアもまた、クラウディアの背を振り返ることはしなかった。
(えぇ…兄弟って、こういうもの?)
一部始終を見ていたシュヴァルツは呆気にとられた。以前飼われた屋敷にいたのは、喧嘩はしようとも仲の良さそうな兄弟だったというのに。
此処が王宮だから?権力の頂点を競う場所だから?
王宮といわれても漠然としたイメージしか湧いてこない。誰もが華やかなものだと思うような、それだけの世界ではないということは認識しているが。
……所詮、人間ですもん、『奴隷』みたいな奴がいる時点でお察しです。
「──相変わらず仲が悪いね」
シュヴァルツの思考を他所に、不意に高すぎず低すぎない鈴の音のような声音が耳朶を打った。