金色の罪
「──変なの…」
そう呟いて、部屋の奥を見据えた。
扉の向こうに消えた王子も側近も今はいない。今迄『黒髪』の王子ばかりに気を取られていたが、この部屋は広さに比べて家具が異様に少ない。
「髪色のせいか…?」
今迄に飼われた屋敷の部屋の何処よりも広いのに、家具がなさ過ぎる。
檻の向こうに見えるのは応接用と思われるテーブルと長椅子、一人掛けの椅子。それから窓の横に書棚だ。この部屋を彩る花瓶もなければ、絵画もない。
「気になります?」
不意に聞こえた声に、シュヴァルツははっと視線を上げた。カシャン、と鎖同士がぶつかる音がした。
「側近殿」
金色の髪が視界に映り込む。高貴とされる王侯貴族の髪色だ。
「レーウィスで結構ですよ」
深青色の双眸を眇め、レーウィスは微笑んだ。美麗な顔立ちに浮かんだ柔らかな微笑がシュヴァルツの瞳に映り込む。
「『シュヴァルツ』…奴隷商館での名前でしたね」
「えぇ、この国で不吉とされている色ですよ…あの王子もさぞ苦労されたのでしょうね?」
鼻で笑うシュヴァルツに、レーウィスの視線が突き刺さる。普段であれば軽口を聞くことが命取りなのに、今日は何故か口が滑る。
微笑みの消えたレーウィスは無表情であるが、それがシュヴァルツの背筋を凍らせた。
けれど、それは一瞬で、レーウィスは淡く微笑んだ。
「ティアの事、悪く思わないで下さいね」
「……奴隷に、その様な権利はありませんから」
シュヴァルツは真っ直ぐにレーウィスを見据えた。
奴隷となってから、そう短くない時間を過ごした。奴隷にあるのは義務だけで、権利などありはしない。
「……おかしな世の中です。同じ人間でありながら、平等には扱われない」
ポツリ、とレーウィスが呟いた。それが耳に届いた瞬間、シュヴァルツは目を瞠った。
「…変なの、金髪の人間がそんな事を言うなんて」
シュヴァルツの言葉にレーウィスはふっと微笑んだ。眉尻を下げ、哀愁を感じさせる。
レーウィスは檻の前に膝を付くと、覗き込むように顔を近づけた。驚いて、思わず後退り、檻の壁に激突した。カシャン、と鎖が檻の格子にぶつかり音を発てる。
「窮屈そうですね」
レーウィスは輪状に繋がれた鍵を取り出すと、檻の錠を外した。キィ、と音を発て扉が開く。シュヴァルツの視界には檻の格子に遮られない広い部屋が広がっている。
「出なさい」
レーウィスがシュヴァルツを呼ぶ。一瞬躊躇するが、鎖を引きずりながら檻の外へと出た。絨毯が敷かれた床に足を着け、シュヴァルツは恐る恐るレーウィスを見上げた。
間近に迫ったレーウィスの顔は、一瞬、嫌な女の顔を思い起こさせた。金に輝く髪。白い肌。柔らかな物腰。
(あの女…ヘラーザ…)
髪色のせいか。纏う雰囲気のせいか。奴隷商館の女を思い起こさせる彼の手が、己に迫る。
「少し痛むかもしれません」
レーウィスはシュヴァルツの首輪を掴み、檻を開けた鍵とは別の鍵を差した。カシャン、と音を発てて首輪が外れた。
「次は腕の枷を」
鍵を代え、レーウィスはシュヴァルツの枷を外していく。身体を拘束する枷が全て外れると、シュヴァルツは却って違和感を覚えた。
「久しぶりだ…」
手足の自由を確認すると、今までにない高揚感を覚えた。
身体が軽い。耳障りな鎖の音がしない。手足には枷の痕が付いているが、却ってそれが拘束から解放されたのだと知らしめる。
「…可哀想に」
レーウィスは枷の痕が付いた手首に手を伸ばした。紅い痕が付いている手首に優しく振れる手が、却って気味が悪い。
奴隷だ、とシュヴァルツは呟いた。
「可哀想…?そんな世の中にしたのはあんた達『金髪』の人間じゃないか?」
皮肉を込めて笑う。
少しでも傷つけばいい。奴隷たちが今までに味わった苦しみを少しでも知ればいい。
絶対に理解できない世界だと分かっている。どれだけ訴えても届かないと知っている。
けれど、何もしないで諦められるほど大人ではない。もし、己の命があと少しなら、最後の抵抗に噛みついてやる。
(『可哀想』なんて口先だけで…)
きっと、彼も前言を翻して「哀れな奴隷よ」と嗤うだろう。
そうすればいい。そうしたら、どれだけ利用しても罪悪感など湧かないのだから。
「──ごめんなさい」
耳朶を打った言葉にハッとシュヴァルツは顔を上げた。聞き間違いだと思った。
けれど、レーウィスの表情は苦渋に満ちていて聞き間違いではないと物語っている。
「な、何で……レーウィス殿が謝るんだよ…」
「貴方を苦しめたのはこの髪色…私が貴方と同じ髪色なら貴方の気持ちをもう少し理解できたでしょう」
予想もしない言葉に、悲哀に満ちた目にシュヴァルツは言葉を失った。
「……どうして…変だよ、今迄にあんたみたいな人いなかったのに…」
声が震えた。理解が出来ない。けれど、湧き上がる何かがあった。
「そんな世の中です…少しずつ教えて頂けませんか?貴方がどんな日々を過ごして来たのか」
「奴隷の過去なんか聞いても面白くないよ」
シュヴァルツは痛々しいほど悲しい瞳から逃れるように眼を逸らした。
「奴隷ではありません」
きっぱりとレーウィスが否定する。シュヴァルツの前に膝を付くと真っ直ぐに見上げた。
「貴方は自由です」
「自由…?何それ」
シュヴァルツは繰り返した。長らく奴隷として暮らしてきたシュヴァルツにとって一人の人間として自由に生きることは夢である。逃げ出すには絶好の機会だ。
けれど、予想外の展開に戸惑いを隠せない。
「私は全ての人に幸せであって欲しいと思っています」
「……奴隷は人間じゃない」
奴隷の烙印を押された者は二度と人間に戻れない。逃げ出しても何処かで捕まるのではないかとビクビクして生きる。
一度、脱走を謀ったことはあった。屋敷を飛び出して、小一時間もしない内に追手が掛かって街中を駆け巡った。安住の地など何処にもなかった。
シュヴァルツはぎゅっと拳を握り締めた。
いざ目の前にした自由への道。けれど、目前にしたからこそ不安ばかりが脳裏を過る。
黒髪を、奴隷階級に貶めたのは紛れもない金髪の人間だ。
だからこそ、偏見を抱いていた。金髪に好い人間がいる訳がない、と。
だからこそ疑わしい。彼の言葉が。
(信じる…?金色の髪のこの青年を?)
訝しむなら信じられるわけない、ときっぱりと否定すればいいのに。その瞳が痛々しいほど悲哀に満ちているから、否定できなかった。
どうして、と呟いた。優しい言葉が嘘であればいいとすら思った。
「『金髪』の人間が皆、あんたみたいな人だったら、俺はこんな風じゃなかったのに…」
レーウィスは「そうですね」と呟いた。
「どうして…あんたみたいな人がいるんだよ…あんたが前の買い手みたいな奴だったら、もっと罵詈雑言浴びせられたのに…できなくなっちゃったじゃないか…」
思わず毀れた本音。どれだけ『金髪』の括りに入れようとしてもできなかった。
(…前の主人と同じ類の人間なら怒りを向けられたのに)
もう、泣きそうだった。
向けられた言葉の一つ一つがシュヴァルツの中に落ちてくる。
憤怒や憎悪で一杯だったシュヴァルツにとって、レーウィスの言葉は心の何処かに、それも本当にあるかどうかも怪しい小さな希望だった。
「……貴方が望むなら構いません」
掠れた声音が耳朶を打つ。シュヴァルツは真っ直ぐにレーウィスを見据えた。
奴隷の理不尽な怒りを受け入れる、と言っているのだ。このレーウィスという『金髪』の男は。
己が仕出かしたことでもない無関係な事を、己の罪とばかりに背負う心算なのかと思うと、驚くというより、呆れた。馬鹿なのか、と思ってしまう。
真摯な眼差しで見返してくるレーウィスに、シュヴァルツは視線を逸らして溜息を吐いた。
「……俺はそんな理不尽じゃない…八つ当たりするのは簡単だけど、あんたにしても仕方ないし」
「強いですね」
きっぱりと宣言すると、レーウィスは一瞬驚いたように瞠目すると次いで苦笑を浮かべた。
「どっちが…レーウィス殿、変わってる」
思わずシュヴァルツは破顔した。子供のような無邪気がシュヴァルツの顔に浮かぶ。
「やっと笑ってくれました」
「さっきから笑ってるよ?」
嘲りでもよければな、と今までならば言えたこと。それができない相手だから、調子が狂う。
首を傾げたシュヴァルツの頭をレーウィスはそっと撫でた。
「…子供扱い」
年齢的には子供ではあるが、今迄に子供扱いされなかっただけに抵抗がある。
「嫌ですか?」
残念そうに問いかけるレーウィスに、シュヴァルツは「…嫌ではない」と返答した。恥ずかしさはあるが、拒絶するようなことではない。決して久しい温もりに絆された訳ではない。
「本当ですか?」
彼の表情がぱぁっと明るくなるのを捉え、シュヴァルツは呆気にとられた。どうやら、随分と感情の起伏が激しい人に出会ってしまったようだ。
……おい、落ち着け、子供好きか?変な趣味はないよな?今までに聞いたことはあったが、実際にいたら俺は動けるだろうか。
「…レーウィス殿は俺の何が聞きたいの?」
「そうですね…貴方は今、お幾つですか?」
「…分からない。奴隷は誕生日を祝って貰える訳じゃないし」
自分で言い出しておいて何だが、シュヴァルツは自分の年齢というものを把握していなかった。奴隷となってから何年経ったのかも正確には分からない。
「…すみません、不謹慎でした」
頭を撫でていた手が離れてく。眉を八の字に下げたレーウィスの表情に居た堪れなくなり、シュヴァルツは首を振った。
……なんだか、一々こっちが罪悪感を抱くんだけど。俺、悪くないよね?
「気にしてない…他には?」
「そうですね…では、その都度教えてください」
「…それってしばらくここに居ろってこと?」
先程自由にしてくれると言った筈なのだが。怪訝に思い、レーウィスを見上げれば、残念そうに眉尻を下げている。
「駄目ですか?」
「…駄目ではない」
シュヴァルツは完全にレーウィスのペースに呑まれているのだが、レーウィスを振り切れるほど冷酷でもいられなかった。
(調子が狂うな…この人…)
でも、まぁいいか、と思って考えるのを止めた。
どの道、このルゼノと言う国が何処にあるか正確に解らなければ故郷には帰れない。下手に脱走して追われる身になるよりも、此処にいて知識を貯め込んでいた方が得策だ。
「では、此処で暮らす規則を」
「え……」
ぽかん、とするシュヴァルツにレーウィスは微笑んだ。
「此処は王宮で、我々がいるのはスカイティア様の御部屋ですから。規則を守らないとスカイティア様に怒られてしまいます」
シュヴァルツは先程のスカイティアの目を思い出し、身を震わせた。氷のように冷たい眼。あの眼で睨まれるのは避けたい。
……あの人、妙に威圧感あるんだよ。年上である以上に虚ろな目が問題というか。その人生に絶望しているとか、覇気の無さとか、今までにない性質なんだよね。
「まず、二度と『奴隷』だと言わないこと」
「は…?」
思わぬ内容に目を瞬いた。黒い瞳に苦笑を浮かべたレーウィスが映り込んだ。
「スカイティア様は奴隷がお嫌いなので」
「……そう言えば仰ってたね。『奴隷』は目障りだって」
スカイティアの言葉はシュヴァルツの耳に確りと残っている。
「何で、嫌いなの?」
奴隷のこと、と問えばレーウィスは困ったように眉尻を下げた。
「…スカイティア様は」
「レーウィス」
不意にスカイティアの声が聞こえた。視線を上げれば、何時の間にか黒髪を靡かせた王子がいた。青白い顔にしっかりと「不快だ」と書かれている。
「俺の過去に立ち入るな」
静かでありながらはっきりと拒絶を示した言葉。『黒髪』の間から覗く氷のような瞳が冷やかにシュヴァルツを見下ろしている。
レーウィスが謝罪の言葉を述べると、スカイティアは何も言わずに踵を返した。黒い髪が水面のように波打って空に舞う。スカイティアはまた部屋の奥へと姿を消した。
「シュヴァルツ、ごめんなさい」
申し訳なさそうに謝罪の言葉を述べるレーウィスに、シュヴァルツは首を振った。
……謝る相手が違う。俺じゃない。傷ついたのは多分『彼』の方だから。
「何で、レーウィス殿が謝るの?気にしてないよ」
シュヴァルツにとって罵詈雑言の嵐など、日常茶飯事。誹謗中傷の類や皮肉の言葉をくれるアージンや奴隷仲間だっていたのだ。誰かに冷たくされたとしても、自分が傷つくことなどない。
──それなのに、何故だか胸が痛んだのだ。