新たな主人
朝かな。
一言呟いて、シュヴァルツは欠伸を噛み殺した。
檻の中に寝転がったまま寝返りを打てば鎖がカシャン、と音を発てる。ひんやりとした檻の床と枷、鎖の温度が肌に伝わり、身体を起こした。
朝であろうと夜であろうと、視界は何時も真っ暗だ。しかし、朝であることは間違いない。檻を伝って振動する足音──マッドと客と思しき者の声が聞こえる。
(…次は俺?)
嫌な想像に小さく舌打ちをした。
足音が次第に大きくなり、部屋中に反響する。音が消えた瞬間、それが自分の目の前だと分かって、肌を粟立った。
「此方がご希望の品でございます」
機嫌が良いと一言で分かる声音に、シュヴァルツは歯を食いしばった。
布を取られれば隠れる場所などない。過去に何度も売買され、体験している瞬間だが、これだけは未だに慣れない。見ず知らずの人間に売り渡される瞬間が奴隷にとって一番の恐怖だ。
心音が外に漏れるのではないかと思うほど高鳴っている。ドクン、ドクン、と鼓膜の内側から響く。それが耳障りで仕方ない。
バサッと音を発てて布が剥がれ落ちる。まるでスローモーションの映像を見ているかのようにゆっくりと。
長いようで短い一瞬。
それが、心音が最大限に高鳴る瞬間だった。
真っ暗闇から色味のある世界に変わる。客がいる時といない時では様変わりするこの部屋はジルバートが消えた日と同じように綺麗に掃除されている。
視線を上げれば、マッドの顔がある。その隣で、客と思しき老人が感嘆の声を漏らした。老人の髪は既に色素が大幅に抜け、立派に蓄えた長い髭を撫でるように梳いている。
檻の中にいるシュヴァルツを値踏みするように顔を近づけ、ニタリと笑う。開いた口内は歯が数本しか残っておらず、真面に機能する歯があるのかどうかも怪しい。
「お気に召されましたか?」
にっこりと微笑むマッドが気色悪い。シュヴァルツは眉を顰めた。
マッドは、何時もなら寝起きかと思うような癖毛を無造作に撫でつけるだけ枯れ草色の髪を綺麗に整え、普段は髪に見え隠れする琥珀色の瞳に掛らないようにしている。服装も小奇麗なものを纏っていた。
この格好のマッドを街中で見かけたならば、そこそこの美丈夫で通っただろうに、普段との差が気色悪く思えてならない。
「あぁ、これを貰おう」
老人は満足そうに頷くと、マッドに応じた。
「お買い上げ、ありがとうございます」
マッドが檻に布を掛けると、視界は再び闇に覆われた。それとほぼ同時に足音が聞こえた。遠退く足音とともにマッドの上機嫌の声が聞こえる。
(はっ…お客様の御帰りですってか)
シュヴァルツはフン、と鼻を鳴らし、眉を思いっ切り顰めた。
「……これで最後だ」
絶対に、二度と戻るものか。
その決心は足音の中に消えた。
◆◇◆◇◆
マッドと老人が去った、十数分後。
また不快さを煽る足音が戻って来た。今度は一つだけ。マッドのモノだ。
先程は気にならなかった香水が鼻孔を掠めた。先程の老人の香水が強烈過ぎてマッドの臭いを感じなかったらしい。……どれだけ強烈だったんだ。
檻の前で止まったマッドを、シュヴァルツは布越しに睨みつけた。布に覆われた視界のように、耳もこの男の声を聞こえなくなればいいのに。
そう思ったのも束の間、忌々しい声が耳朶を打つ。
「シュヴァルツ、お前は実に運が良い」
マッドのその「運が良い」という一言に、眦を思いっ切り吊り上げた。マッドの機嫌が良い日に好いことが起こった例がない。
「お前は王宮に迎えられることになる。もう直ぐ御生誕日を迎える王子の元へ、な」
「王子…?」
思わず零れた言葉が間抜けに聞こえたのか、マッドが意地悪く笑った。
「あぁ、そうだ。第三王子だと聞いた。王宮から追い出されないように精々気を付けろ」
追い出される前に殺されるのでは、と呆気にとられた。
マッドはそれだけ言い残すと、さっと踵を返した。
(王子…?態々、『黒髪』の奴隷を?)
シュヴァルツは、はて、と首を傾げた。『黒』は忌み嫌われている筈だ。わざわざ好き好んで傍に置きたいなどと思う筈がない。
(それとも、あの類の人間か…)
自己顕示力を誇示したいが為に『呪い』を手名付けたと、愚かにも公言して自ら身を滅ぼすのだろうか。
浅はかな、と思わずにはいられなかった。
第三王子となれば、第一王子、第二王子に次いで王位継承権が三番目の筈。
王位継承権についての知識は小耳に挟んだ程度だが、年齢順が妥当だろう。そこに態々、この国で忌み嫌われる『黒髪』を欲したと言うのか。
(…余程、兄弟間の信頼が厚いか)
部屋の隅に置かれることを想像して、髪を掻き上げた。
(それとも、反乱か?)
自分にとってはどうでもいいことだが、巻き込まれては堪らない。隙をついて逃げなくては。
「シュヴァルツは王宮送りだってか?」
「…アージン」
ジルバートが売られてからすっかり息を潜めていたアージンの声を、随分と久し振りに聞いた。
「王宮ってのは市民の憧れだ。思わぬ所で『黒髪』が役に立つな」
せせら笑うアージンは明らかにシュヴァルツの運命を楽しんでいる。
「…お前はつくづく意地の悪い奴だな」
市民の憧れの王宮と、奴隷として買われる王宮では訳が違う。それを理解した上での言葉だから性質が悪い。
「奴隷生活が長いなら、忠告の一つでもしてくれるのが親切ってものじゃないか?」
奴隷は引き渡されるまでの期間、今迄とは破格の扱いになる。
契約を結んだ商品である以上、奴隷商人たちは奴隷に手を出さない。傷が付いたら価値が下がる──最悪、契約を破棄されるのが理由だ。食事も何時もより多いし豪華だ。とはいえ、人間に比べれば残飯のようなものだが。
契約した奴隷の日々は実に退屈である。眠る以外にすることがない。時折、奴隷商人が奴隷にちょっかいを掛けるが、契約を結ばれた奴隷には関係のないことだ。
数日後、惰眠を貪っていると、不意に「起きろ」と不機嫌な声音が落ちて来る。勿論、朝だからご飯を食べなさい、とかそんな優しいものではない。これが契約対象外であれば檻を蹴られたり、水を掛けられたりするものだ。
眠気眼で声を掛けてきた人物を捉えるが、焦点が一致しない。身体を起こし、眼を擦るとやっと視界がはっきりした。
シュヴァルツの目に映ったのは、表情を歪めた男の顔だ。男の表情は、この国で『黒髪』を見た人間の典型的な表情であるため不思議とも思わないし、機嫌を損ねることもない。
「さっさと檻から出ろ!」
男はシュヴァルツを急かした。「不吉」とされる『黒髪』の世話をさっさと済ませたいのだろう。
シュヴァルツは大人しく指示に従った。手足の枷はされたままだが、狭い檻に閉じ込められているよりよっぽどいい。
背伸びをしてから腕を回せば、ボキ、と関節が鳴る。腕を伸ばしてみたり、軽く屈伸をしてみたり。その度に鎖が耳障りな音を発てる。
「…不気味な『色』だ」
ボソリ、と男が吐き捨てる。男の表情を窺えば、強張っているのが見て取れる。『黒髪』が本当に『不幸』を招くと信じているのだろう。シュヴァルツは口角を吊り上げた。その瞬間、男の表情が凍りついた。
「な、何だ…!?」
「別に……で、これからどうするの」
奴隷として扱われることには慣れている。これからすることも理解しているが、敢えて笑みを浮かべたまま問うた。
シュヴァルツの年に不相応な笑みに男は狼狽えた。引き攣る表情が、シュヴァルツの黒い瞳に映り込む。
(怯えろ…怯えればいい…そして此処から消えろ。二度と姿を見せるな)
シュヴァルツが相手の反応を楽しみながらも考えることは一つだ。
奴隷商館を出た後、屋敷で隙を見て脱走する。それが自由への道だ。
自由になる機会が目前にある。絶好の機会を逃して堪るものか。
深まる笑みが男の表情を一層強張らせる。
「──何をしている」
不意に第三者の声が耳朶を打った。薄暗い空間に響いた凛とした声音。それを認識した瞬間、シュヴァルツは内心舌打ちした。
「ヘラーザ殿!」
第三者の介入にほっとしたように表情を和らげたのは一瞬で、まるで程よく酒に酔ったように恍惚とした表情に変わる。……気持ち悪い。
シュヴァルツは男から視線をずらし、ヘラーザと呼ばれた女を捉えた。ヘラーザは『金色』の髪の女だ。昼間の空のような青い瞳がシュヴァルツと男を冷ややかに見据えた。
「これは大事な商品だ。気に食わなくても丁重に扱え」
ヘラーザの言葉に男はさっと表情を引き締めた。しかし、彼女へと向けられる視線が熱を帯びていることが見て取れる。そんな光景には溜息を吐きたくなった。
ヘラーザが、見ている者を虜とするような魅力的な女であるのは確かだろう。此処で働く男たちは殆どがヘラーザを崇拝、心酔しているし、此処にいる奴隷の中でも彼女の奴隷になるなら、一生奴隷でも構わないなんて馬鹿げたことを言っている。
此処は彼女の城のようなものだ、と思う。さしずめ、彼女は此処の女王で、実は蔭でマッドを操っている女傑だろう。
恍惚とさせた表情に自分で気づきもしない男は、うっとりと商館の女王に見惚れている。あの男には間抜け面がお似合いだと内心で悪態をつきつつ、ヘラーザの様子も窺った。
闇の中でも、まるで光の粒子を集めたかのように輝く『金の髪』。年齢を感じさせない張りのある白い肌。涼やかな青い双眸。桜色の頬。すっと通った鼻梁。ふっくらとした紅い唇。ふくよかな胸に引き締まった腰。すらりと伸びた足。飾り気のない服だが、かえって彼女の美貌とスタイルの良さを鮮明に浮き上がらせる。
彼女の奴隷になりたいという願望を抱いている多くの者たちの存在を、彼女は知っているのか知らないのか判断が付かない。そもそも興味もないのだが、ただ巻き込まれると迷惑だ。
シュヴァルツはヘラーザの瞳から逃れるように視線を逸らした。しかし、近付いてきたヘラーザはシュヴァルツの顎を押し上げ、視線を合わせた。
「可愛げのない奴隷も、手放す時には離れがたくなるものだ」
青い瞳がシュヴァルツを捉え、ヘラーザは口角を吊り上げた。ヘラーザはマッド同様に街で見かけたら美しい貴婦人だが、今はただ冷徹な奴隷商人だ。見る者を誘惑するような微笑も、シュヴァルツには冷笑にしか映らない。
「なぁ?シュヴァルツ。お前も慣れぬ土地に送り出されるより、此処に居た方が居心地がいいのではないか?」
「……ヘラーザ」
じとっと見上げれば彼女は「おや、私の名前を覚えたか?」と微笑んだ。眉を顰めてヘラーザを睨みつけたが、彼女は一層笑みを深めるだけだ。
「俺を買い取ったのはお前とマッドだ」
「そう言えばそうだったな」
パチン、と指を弾いた。何かを思いついた時に指を弾くのがヘラーザの癖だ。
「買い手から売られるのは悲しいかい?」
青い双眸を眇め、ヘラーザは口角を吊り上げる。紅い唇が艶を放つ。蠱惑的な笑みだ。見ている者を虜にするといわれる悪魔の微笑みに、シュヴァルツでなく監視の男が頬を染める。
「別に」
シュヴァルツはすっと視線を逸らした。薄暗い闇に煌く金糸が視界に映る。忌々しい色だ。
「清々しているよ、もう二度と会わないだろうから」
「そうか、それは残念。私は楽しみにしているがね」
ふふっと柔らかな笑声が耳朶を打った。ヘラーザはシュヴァルツの頬に口づけをして、その場から立ち去った。……何しに来たんだ、あの女。
彼女の柔らかな口付は、今に始まったことではない。初めて出会った時もあった。それ以来、監視の男から酷く理不尽な扱いを受けているが、それが彼女のやり方か。
今も、ヘラーザから口付されたせいで、嫉妬の焔で己を焼き尽くさんとしている男が何人もいた。彼女が来ると、監視役が増える。いや、観衆というべきか。
(まったく、いい迷惑だ)
だから、おいそれと脱走経路を探すことも出来ない。「あぁ、今日も厄日だ」と男が振り上げた拳を見て思った。どうやら彼は『黒髪』の『呪い』を受ける覚悟があるらしい。
(まぁ、そんな力ないんだけどね)
降り注ぐ厄災は、防ぎようがない。「奴隷の癖に」と罵声が飛んできて辺りが騒然とした頃、マッドの怒声が聞こえた。
──やっぱり今日は厄日だと、シュヴァルツは呟いた。