檻の住人
視界は常に闇。
正確な時間は愚か、夜か昼間かも分からない。
真っ暗な世界での生活にはもう慣れた。
少し身動ぎするだけで耳障りな『鎖』の音が耳朶を打ち、邪魔な『檻』が行動範囲を制限する、己の狭い世界。
カシャン…カシャン…。
少し離れた所から鎖を引き摺る音がする。二つ先の檻の住人は本日、ご機嫌斜めらしい。
ガシャンッ!
突如鳴り響いた一際大きな音に身を竦めるモノの気配がした。……これは三つ先の住人か。
視覚が役に立たない生活を送るようになってから、音で大体の距離感が測れるようになった。
「──なぁ、シュヴァルツ」
ふと隣の檻から声が掛った。野太く低い声音は中年の男のものだろう。布で覆われた檻では相手の容姿など解らないが、大体の見当はつく。
「…何だ、また下らない話をするのか」
シュヴァルツと呼ばれた少年は溜息を漏らした。
「下らないとは失礼な」
気乗りしない声で応答すれば、笑声がすぐ傍で聞こえた。『シュヴァルツ』と言う名も、悪意だか遊び心だか知らないが、声の主──アージンが勝手につけた名前だ。此処では本当の名前もいらない。己が己であることを示すのは、己の意思だけだ。
「アージン、お前の話はつまらない。今日も俺の悪口か?」
「悪口?そんなんじゃないさ。世間知らずのお前にちょっと教えてやっただけだろ」
軽い笑声が耳朶を打つ。口端を吊り上げて笑っているのだろう。
シュヴァルツは溜息を吐き、布越しにアージンを見据えた。
「今日は買い手が付くと良いな…此処は息が詰まるだろう?」
「お前には同意したくないが、同感だよ」
「まぁ、この国でお前に買い手が付くとは思わないがな」
同意を求めておいてなんて言い草だ。嘲笑めいた口調に、シュヴァルツは眉を顰めた。
「嫌な性格だ」
シュヴァルツはボソリ、と呟いた。
この国──ルゼノには、特別な風習がある。金色の髪を美しいと褒め称え、高貴な身分に取り立てた。その反面、『黒』を不吉の象徴とし、奴隷階級に貶めた。
『シュヴァルツ』と言う名は『黒』を意味し、忌み嫌われる。それを敢えて使うことで侮蔑を表しているのだ。
好きで黒髪に生まれたわけじゃない……!
檻の中で体を丸め、シュヴァルツは決して視界には映らない己の『黒髪』に触れた。
「おい、アージン」
「何だよ、ジルバート」
不意に聞こえた声に、シュヴァルツは眉間の皺を深めた。
「余りシュヴァルツを揶揄わないでくれ、こっちまで気分が悪くなる」
「お前も呼んでるじゃないか、この国で『不吉』とされる色で」
会話の内容に一層眉間の皺を深めたシュヴァルツは深く溜息を吐いた。
(彼奴も此奴も『シュヴァルツ』『シュヴァルツ』って呼びやがって…!)
決して嫌いではなかった『黒い髪』が、此処にいるせいで疎ましいものに思えてくる。
(生まれ持ったんだから仕方ないだろ…!)
そもそも人種として、黒髪黒目なのだ。誰かに文句を言われる筋合いはない。
シュヴァルツは髪に手を伸ばし、瞑目した。アージンという名の嵐が過ぎるまでの辛抱だ。
「シュヴァルツ」
渾名で呼ばれ、眉間に皺を寄せて布の向こうのジルバートの姿を睨みつけた。
(アージンでだけでも鬱陶しいのに…)
手足は鎖に繋がれ、逃れられない檻の中に閉じ込められたこの状況が疎ましい。せめて檻の外ならば、忌々しい男達を殴ってしまえるのに。
彼等の声の低さからして、年上なのは間違いない。勝てる喧嘩でないが、何もしないでいられるほど穏やかな心境ではない。
「──俺も『黒髪』なんだ」
愕く程優しい声で何でもないように告げられた言葉に、シュヴァルツは一瞬、何を言われたのか認識できなかった。
「え…?」
「仲間だな」
苦笑めいた声音が布越しに伝わってきた。シュヴァルツは目を瞬くと、見える筈のないジルバートを求めるように檻の格子部分から少し外を覗いた。すると、向かいの檻の住人がシュヴァルツと同じように格子の間から布を持ち上げて顔を出していた。
言葉通り、ジルバートは『黒髪』で、瞳は翡翠のような緑だった。
「へぇ、シュヴァルツは瞳まで黒いのかぁ」
格子の向こうからにっこりと微笑むジルバートは二十代半ばの好青年だった。身には皺だらけの灰色のシャツを纏い、首元には奴隷の象徴である首輪が付けられている。
「…奴隷生活は長いのか?」
「年月を数えるのが面倒になるくらいには長いな」
屈託なく笑うジルバートに、シュヴァルツは破顔した。
ジルバートは同じ髪色ということもあり、打ち解けるのが早かった。奴隷商館というこの場で屈託なく笑うジルバートは異質ではあったが、その陽気さが心地よかった。
けれど、その心地よい時間はすぐに終わりを告げた。
カツン…カツン…。
不意に足音が聞こえ、部屋の中が一瞬にして静まり返った。その足音が誰のものか分からない程、奴隷達は鈍くない。
ジルバートはシュヴァルツに目で合図し、布を下すように促した。シュヴァルツは大人しく従い、檻の背面まで下がった。
石畳に響く足音。近付いて来る音に、シュヴァルツは肌を粟立たせた。シュヴァルツだけでなく、その場にいた奴隷たちは警戒する獣の如く息を潜めていた。
「ご機嫌麗しゅう、奴隷たち」
音が止まると同時に、異臭が鼻孔を衝いた。この独特な臭いは、恐らく無茶苦茶に着けた香水だろう。とは言え、香水だけならばこんなにも不快な臭いはしないが。
(また、誰かが何かしたか…)
香水の匂いに混ざる微かな血の臭いを感じ取って、眉を顰めた。人間の嗅覚でも解る程だから、相当な量だろう。声の主はこの場所にいれば誰もが恐れる、この館の主人だ。
「今日はいい日だ」
機嫌が良いと言わんばかりの声音に、シュヴァルツは一層眉根を寄せた。この男の機嫌が良いと言うことは、この中の誰かが地獄に落ちると言うことだ。
ルゼノ奴隷商館の総支配人である男の名はマッド。性格は狂っている。
音を発するものは何一つない。マッドの前で反論しようものなら、香水に混ざる血の仲間入りだ。マッドに纏わりつく血の持ち主と同じ運命になりたくないなら、大人しくしておくべきだと此処一週間で理解していた。
「ふむ…今日は買い手が付きそうだ…ジルバート」
ジルバートが名を呼ばれ、シュヴァルツは彼の心中を察した。その瞬間だった。一瞬にして闇を作り出していた布が剥ぎ取られた。
シュヴァルツは顔を上げた。目の前には格子越しに無精髭を生やした男の顔がある。枯葉色の髪は無造作に撫でつけられ、琥珀色の目が見下す。
肌が粟立った。マッドの日焼けした顔に赤い染みがある。それが奴隷の血であることは明白だった。
「それとシュヴァルツ…あぁ、本名で、と言いたいところだが…生憎と新入りの名前まで覚えていられなくてな。悪く思うな」
悪びれる気などない命令口調のマッドを見据え、シュヴァルツは肩を竦めた。
「…お気になさらずに。此処ではシュヴァルツで通っています」
気を許していない人間に名を呼ばれたくもない。シュヴァルツの本心など知りもしない――知っていたとしても気にしない――マッドは口端を吊り上げた。
「この国で『黒』が不吉とされているのは知っているな?」
マッドの言葉に内心で眉を顰めつつ、シュヴァルツは「是」と答えた。
「宜しい…しかし、君たちは幸運だ。君たちに買い手が付きそうなのだよ…新しいご主人様のところでは粗相のないようにな」
不気味な微笑を湛えたマッドは顎髭を撫で、シュヴァルツを見下すように目を眇めた。琥珀色の瞳は蛇のように冷たくぎらついている。
マッドは視線を逸らすと乱暴に暗幕を掛けた。再び闇と化した檻の中で、頼りになるのは聴覚だけとなる。離れて行くマッドの足音だけが聞こえていた。
その音さえも聞こえなくなると、突如、ガシャン!と鎖が折りにぶつかる音がした。
「何が新しい主人だっ!」
ジルバートの声だった。荒れた声音が耳朶を打ち、「本当に」と同意した。
「金になればいいんだろ、彼奴は。俺達がどうなろうと知ったこっちゃないんだ」
好きで『黒髪』に生まれた訳ではない、と何度、そう思っただろうか。引き寄せた足に腕を重ね、その上に顎を乗せた。溜息が漏れる。
「ふん…精々、新しいご主人様に気に入られるように頑張るんだな」
吐き捨てるような声が隣から聞こえ、それに応じたのはやはり向かいだった。
「買い手が付かないからって、僻みか?」
ジルバートの侮蔑を孕んだ問いにアージンの返答はなかったし、シュヴァルツもそれに対する意見は持ち合わせていなかったから黙っていた。
もし、アージンが奴隷として売れなければ、この奴隷商館の中で家畜と変わらずに働かされるか、殺処分か迫られるだろう。
だが、奴隷として買われることと売れ残ることのどちらがマシかなんて解らない。
シュヴァルツの脳裏には先日までの奴隷生活が蘇った。
聞こえる。見える。感じる。
人間の狂気が。穢れが。普段は隠れている人間の本性が。
奴隷狩りに遭ってから、『シュヴァルツ』と名付けられてから、目まぐるしい日々を送って来た。
人間に生まれた。けれど、人間ではない。
奴隷の烙印を押された者は決して人間には戻れない。
(──理不尽な世の中だ)
シュヴァルツは、溜息を吐く。
彼はこの年頃の少年よりは明らかに老成していた。この世の中の不条理に対して感情だけで動くいても得がないことは理解している。
ただ静かに、時を待っている。そう、逃げ出す機会を。
少年の黒い瞳が、暗闇の中で妖しく光った。
◆◇◆◇◆
朝日が奴隷商館を包む頃、シュヴァルツは目を覚ました。
正確には起こされた。部屋に反響する足音が嫌でも神経を尖らせる。
(また来たのか…)
頻繁にマッドが檻のある部屋を訪れると言うことは冷やかしか、奴隷を買う客がいるということだ。しかし、冷やかしなら精々一日おきだ。おまけに機嫌が悪い時限定だから性質が悪い。
(…ってことはあの話は本当なのか)
人知れず、溜息を漏らした。「買い手がつきそうだ」と昨日言っていたことを思い出し、舌打ちをするのを堪えた。
マッドの機嫌が良い筈だ。反響する足音に雑じって鼻歌でも聞こえてきそうな勢いである。……何度か聞いたが、妙に寒気がするからやめて欲しい。足音が近づくに連れ、シュヴァルツの眉間に皺が深まる。
足音が不意に止んだ。ドクン、と心臓が跳ねた。
「此方がご希望の品でございます」
「……これはこれは」
マッドの声と客と思しき声がすぐ傍で聞こえた。しかし、シュヴァルツの話ではない。目の前にある檻の布は暴かれていない。
数分ほど会話が続くと、また足音が聞こえ出す。忌まわしい音が静寂へと返ってから、カシャン、と金属と金属のぶつかる音がした。
「…ジルバート?」
音の位置からしてジルバートだ。シュヴァルツは布を捲り上げ、ジルバートの檻を捉えた。
檻は布が外れたままだった。檻の中の彼を捉えた瞬間、シュヴァルツは息を呑んだ。
檻の格子越しに見えたジルバートは檻の格子に背中を凭れ、酷く衰弱したような顔をしていた。荒んだ眼。口角だけ不自然に吊り上った微笑。絶望して自嘲した、そんな状況だ。
「…買われたのか?」
問うまでもなく、買われるのだろう。
けれど、シュヴァルツはそれ以外に言葉を掛けられなかった。
「…そうらしい」
嘲笑が表情に残ったまま返答され、シュヴァルツは息を呑んだ。部屋の照明の加減か、彼の目元に影が落ちている。翡翠色の瞳が歪んだ光を宿していた。
「…まぁ、優しそうな顔だったがな。そう言う奴の方がエグい性格だったりするし」
買い手の顔を思い出してか、ジルバートの歪んだ笑みが深まる。きっと、彼の脳裏には買い手と嘗ての主人が重なって映っているだろう。
「あの爺さん、この国のお貴族様だそうだ」
奴隷を買いに来るのは、大抵貴族だ。奴隷は金銭的に余裕のある人間が小間使い──勿論、労働賃金など払われる筈がないが──として買うか、玩具として買うくらいだ。
「前の国でも貴族に飼われたことあるぜ…とんでもない悪徳領主だったけどな。その悪事が発覚して、あの領主の財産の一部である俺は奴隷商館に売られた…その金が一応、領民の補償金になってるらしいけど」
「……よく知ってるな」
シュヴァルツなら気にもしない情報だ。自分が奴隷となっていた屋敷や、自分に助けの手を伸ばしてもくれない人間達のその後など気に掛けたこともない。それがその輩の凶報なら、面白がって情報を集めたかもしれないが。
性格が悪い?寧ろ、性格がねじ曲がらない奴隷がいたら会ってみたい。
「あぁ、マッドが言ってた。まぁ、俺としちゃ、あんな貴族の屋敷を出られてよかったけどよ…やっぱ、奴隷は家畜同然だろう」
ははっとジルバートが笑う。嘲笑が痛々しい。シュヴァルツは身体の内側から込み上げる何かを堪え、ジルバートを真っ直ぐに見た。
「逃げ出せばいいよ。貴族の屋敷っていったって、逃げ出せないほどの警備が敷かれている訳じゃない」
「逃げ出す?ばれたら酷い仕打ちに遭うぜ?」
「……それでも何もしなきゃ、何も変わらない」
シュヴァルツにとって、それだけが真実だった。
何を望むにしても何をするにしても、他人に決められるなんて冗談じゃない。自分で選んだものを何故、否定されなくてはならない。
「……奴隷である以上、一生自由にはなれないよ」
ジルバートの苦笑が今にも泣き出しそうな顔に変わる。先程までの皮肉な笑みが嘘のように消えて、今はただ弱々しい表情がシュヴァルツの目に映り込んだ。
「そんなこと…!」
ない、とどうして言える?
ジルバートの目がそう言っている気がして、言葉は続かなかった。
彼に対して己が答えられる言葉を持ち合わせていなかった。
カシャン、と音を立てる鎖の音が。己の身の不自由さが、己の立場を物語る。
これは始まりに過ぎない。自由な未来を夢見ても、確実な未来はありえない。
──けれど、それならば足掻くしかないじゃないか。
何があっても負けるものか、と誰に知られることなく決意を固めた。