ノクターン
草野は後藤から受け取ったメモに書かれた番号に電話をかけた。電話の相手は、後藤から連絡を受けていたのであろう、すぐに来るように言い電話を切った。
仕事の内容は、ごく簡単なものだった。後藤が世話をした仕事先は、飲食店を数点経営する会社だった。草野はそこで女達をワゴン車に乗せて店と寮とを何度か往復する。あとは事務所でテレビを見ながら待機するだけ。たまに、たちの悪い酔客が来るとあしらったりすることもある。住居の提供もあり、なんとも待遇が良い仕事だった。
(さすがに、後藤のダンナの顔だな)
頭が下がる思いだった。
草野は、店の女達が住む寮の出入口の横の部屋に住むようになった。女達からは『寮長』と呼ばれている。楽な仕事なのだが、看守のように女達を見張っているようで、何度も刑務所暮らしをした草野にとっては皮肉なものである。
ある日、運転席で女達を待っていると、一番早く乗り込んだ女が、
「寮長。いい仕事があるのよ。いい仕事。」
と、一方的にメモを手に押し込みながら、耳元で囁いた。草野は女を呼び止めようとしたが、他の女達が次々に乗り込んできたため、問いかけるのをやめた。女も何もなかったような顔つきで化粧を直していた。
その日の夜、店への4度目の送りを終え、駐車場の前の公衆電話からメモの番号に電話をかけた。
低いしわがれた声の男が出た。草野は、女からメモを受け取って電話をしたことを告げた。男は手元のメモでも読むように指示をだした。繁華街の交番の横の薬局に行き、店員に女から渡されたメモを見せるようにと。
(なるほど、足がつかねえように、いろいろと回りくどい仕掛けだぜ。この電話の男にしろメモを渡した女にしろそれだけの役目で、仕事のことなど知らないのだろう)
草野は、依頼主や仕事のことよりも報酬のことばかりえを想像しながら薬局まで歩いた。
電話の指示通りに店員にメモを渡すと、カウンターの下から小さな紙袋を出した。メモの電話番号と紙袋に貼り付けてあるメモを照合して、間違いないことを確認して草野に手渡した。受け取ると店の外で袋の中を見た。携帯電話が一台だけ。電源を入れると、すぐに着信があった。
相手が、ボイスチェンジャーを使うほど用心深いことに、大きな仕事なんだろうと勝手に思い込んでいた。まとまった金になれば殺し以外なら引き受けるつもりだった。
依頼された仕事の内容は、拍子抜けするほど楽な仕事だった。
ただ、強盗のふりをして嫌がらせをするだけ。それだけで、報酬は500万。引き受けるならばすぐに前金で半分を、終わってから残金を払うと。草野は、金に目がくらみ冷静な判断が出来なかった。あのとき、仕事の内容を聞いたときに、
(別に俺じゃなくても、誰でも出来る簡単な仕事だが)
と、頭をよぎったが。
22時32分。
漆黒の闇の中で、草野の呻き声だけが響いていた。
「お前、だれなんだ…… だ…… 」
男は、深く息を吸い込み、激しい息遣いを静めようとした。しかし、意に反して体は、ガチガチにこわばったまま、銃を降ろすことなく草野に近づいた。
「こ、殺さないでくれ……」
「く、草野! 草野誠司だな! 」
草野は苦悶の表情で顔を見上げた。
「ど、どうして…… 俺の名前を……。」
「俺を、よく見ろ。俺を! 」
男は、車のライトを背にしているせいか、顔がはっきりと見えなかった。
「……お前…だ、だれなんだ……。」
「俺は、この日を待っていた。お前に復讐するために。」
男は、さらに草野に近づいて草野の血に染まった足を蹴飛ばした。
「う! あ―― 。 」
意識が薄れていこうとする草野の全身に激痛が貫いた。
「俺は、お前が3年前に殺した。山内徹の息子だ! 」
「ま、待ってくれ! 俺は、人殺しなんか…… 。」
「忘れたとは言わせないぞ。お前は、お前は、俺のたった一人の肉親だった父を…… 。父を、車で引き殺しやがった!」
草野は、3年前の交通事故を思い出した。あのときの男の顔が。フロントガラスに叩きつけられた男の目を思い出した。
あの目とそっくりな目が、目の前に立っていろ。
「や、やめろ……。撃つな……。あれは事故だった。事故なんだ…… 。」
「嘘だ! ウソなんかつくなーー。」
男はもう一度、草野の足を蹴飛ばした。
「あー、うあーー。…… 。」
憐れな草野の叫び声だけが山の中にこだました。
「俺は、知ってるんだ。何もかも知っているんだ。事故に見せかけて……。」
草野は、銃口を額に突き付けられた恐怖に、少しづつ真実を語り始めた。ときおり気を失いそうになりながら喋り続けた。
3年前、草野は後藤に頼まれて交通事故を装って、横断歩道を歩く山内徹をはね飛ばした。
山内は、愛人の真奈美と二人で食事のあとスナックで、いつもより多く飲んで横断歩道の真ん中に立っていた。信号を無視して歩いていたことになっていた。すべてが仕組まれたことだった。草野は、打ち合わせ通りに山内徹をはね飛ばした。そして、打ち合わせ通りに救急車を呼び、真奈美は駆け寄って泣き崩れ、すぐ近くにいた後藤のパトカーが現場に最初に到着した。あとは、後藤のシナリオ通りに警察と検察で事情を話すだけだった。
以外だったのは、不起訴にならなかったことだった。信号を無視した酔っ払いをはねた事故なんだが、ブレーキ痕が全くなかったことが実刑を免れなかった。刑期は、1年4ヶ月。人の命を奪ったにしては、軽すぎる。
山内徹の息子である山内勇一は、父を失った悲しみに悲嘆の日々を過ごしていた。唯一の肉親をなくした悲しみを背負うには、まだ若い勇一には堪え難いものだった。その苦しみは、加害者を憎しむことで堪えるしかできなかった。事故であることを、受け入れることができずにいた勇一は、一人、事故の事を調べはじめたのだ。そして、この事故が不自然なことに気づきはじめた。誰に聞いても、父は泥酔するほどに飲んだことがないという。もう一つは、どうして真奈美と離れて歩いていたのか? 泥酔していたのならば、なおさら一人で道路の真ん中を歩くなんて。湧きあがる疑問に対峙した時、悲しみの日々から這い上がらなければと、立ち上がったのである。父の死を受け入れたのではなく復讐をすために。
苦悶の表情で語る草野を見つめていた勇一は、草野の話しと調べた事実が一致していたことで、草野が嘘を言っていないと思った。そして勇一の心は、激しい殺意に満ち溢れた。
草野は出血の多さに次第に意識がもうろうとして気を失ってしまった。
勇一は、草野を見おろし、
(この出血だ、そう長くは持たないだろう)
血の気が引いていく顔に、とどめを刺すのをやめた。
勇一は、車に戻ると、助手席の下に隠していた携帯電話を取り出して電源を入れた。圏外の表示に困惑の表情を浮かべたが、とっさにガードレールを越えて林の中を歩き出した。
(すぐに、後藤が追ってくるはずだ、とにかく急いで電話をしなければ、今度は俺がやられる)
電話が繋がるまで急いで逃げるしかない。勇一は、とにかく息をきらせて林の中を駆け落ちていった。
ズボンは枝で引っ掛けてボロボロになり、無数の傷口から出血していたが、夢中で走り続ける勇一には、何の痛みも感じなかった。月明かりで時刻を見ると、22時53分。ほんの十数分間が1時間にも2時間にも感じた。
(早く圏外を抜けなければ……)