エチュード
車は、怪しまれないように、一定の速度で走っている。信号が赤になるたびに後部座席の男は、キョロキョロと回りのようすをうかがっている。
信号が青に変わった。
「おい! 静かに。目立たないように出すんだ。」
男は、運転席の男に命令した。男の名は、草野誠司という、小悪党である.
他の車との距離が狭くなると、
「変な気を起こすんじゃねぞ! 」
と、手に持った銃をチラつかせながら威圧する。運転する男は、唾を飲み込むとハンドルを両手で握りまっすぐに前を見ながらうなずいた。
「とにかくまっすぐ走るんだ! 」
草野は、大きく目を見開きシートに身を沈める。
時刻は、22時。
草野の安物の腕時計から〝ピピッ〝と電子音が鳴り響いた。携帯電話を握りしめ、腕時計に目を落とした。約束の時刻になっても着信がない。
(頼む。電話してくれ。頼む。)
イラついた顔を見られないように、左手で顔を隠した。
(ちょっとした手違いだぜ。俺は、しくじっちゃいねえ……。 )
すれ違う車のライトを浴びながら男は考えつづけた。
(畜生……。どうすりゃいいんだ? )
時刻は、20時。
駅裏の小さなラーメン屋を出ると、駅のベンチに座り手順を頭に浮かべた。
(夜9時に店が閉まる。夜8時50分に店に入り、出口に近いショーケースを見るふりをする。いつものように、閉店の5分前に売上金を集めに本店の男がやってくる。)
店の様子を思い描きながら、左手の紙袋の中の物を見て一人うなずいた。
(その男の背にコイツを突き付けて、金を紙袋に入れるように言う。後は逃げるだけだ)
草野は、計画した逃走ルートを頭に描く。
目標の宝石店のあるビルの、横の路地に昨夜隠した自転車で、2街区先のビルの路地まで走る。そこで自転車を乗り捨てて地下道の入口から地下の駐車場へ行き、後藤のダンナの車に乗り込む。
(時間にうるさいダンナのことだ、約束通りに来るだろう。来なきゃ、ダンナも都合悪いから……。)
草野は、後藤のダンナからもらった安物の腕時計を見た。大きな伸びをしたあと、力強く立ち上がり歩きだす。
(こんどの仕事は簡単な仕事だ、なんてことないさ。)
草野は、逃走ルートを逆に宝石店を目指し、時間を調整しながら歩く。途中の路地で用意したカツラとヒゲで変装して。
(あとは防犯カメラに顔が写らないようにすれば、足はつかないだろう。)
そもそも、この仕事は、店に対する嫌がらせが目的で強盗そのものではない。だから、金を入れるように紙袋を突き出して用意させている間に逃げるという簡単な仕事だ。被害額も少なく、怪我人も出ない事件となると、警察だってそんなに暇じゃないさ、本気で捜査しないだろうとたかをくくっていた。
店のビルの路地にくると、昨夜用意していた自転車の鍵を外して、すぐに使えるようにした。もう一度、
(なあに、簡単な仕事だすぐに終わるさ)
と、言い聞かせた。
時刻は、20時45分。
店の前に来ると、昨夜と同様に右側の本屋と左側の花屋は、シャッターを降ろしていた。店の前のパーキングメーターには宝石店の集金の車が停まっている。
この車の主は、事前の情報通り毎日20時半過ぎに来ては、向かい側のハンバーガーショップでコーヒーを飲み。計ったように20時55分に店の売上金を取りに行く。強盗を計画するならば、このタイミングが一番だろう。
草野は、店に入った。
「いらっしゃいませ。」
奥から女性の声がした。声の方向に目をやり店員の位置を確認した。
店員は、一番奥のカウンターから笑顔を送ってきた。
草野は、目を合わせずに軽く会釈すると、計画通りに出口に近いショーケースを覗きこむ。
(店内には、あの女が一人か。もう一人は奥にいるのか? )
そろそろ閉店の時刻であるのか、もう一人の店員は奥から出てこない。カウンターに居る店員は、閉店間際に入ってきた草野を警戒する様子もなく、壁の時計に目をやった。
「ご用向きがございましたら、お申しつけください。時間の方もお気になさらずゆっくりとご覧ください。」
閉店の時刻をきにしないように言いながら、早く閉めたい気分が逆に伝わってくる。
(どうやら買う気がないってことを、見透かされてるのか? )
草野は動揺を隠すために、ショーケースを食い入るように見た。いや、ショーケースの表面に映る入口を見ていた。
店員は、草野に買う気がないと悟り、奥のショーケースから鍵をかけ始めた。と、その時、集金の男が入ってきて草野に目をとめて
「いらっしゃいませ」
と、言いながら、通り過ぎようとした。その瞬間、草野は男の背後に立ち、
「騒ぐんじゃねぞ! 静かにしないとぶっ放すぞ! 」
と、男の背に銃を突き付けた。
「は…… はい。」
怯える男の背に銃口を押し当てながら、女にも聞こえるように大声で言う。
「女に騒がねように言え! 金をこいつにいれるんだ! 」
店員達は、草野の言う通りに渡された紙袋に金を入れようとしていた。
(俺の仕事は、これで済んだ。あとは、ショーケースのガラスを1、2枚たたき割って逃げるだけだ)
草野は、ためらうことなく店の男を突き飛ばし、拳銃でショーケースのガラスをたたき割ると、走り出した。計画した通り自転車のある路地へと、必死に走った。背後に『強盗!』と連呼する声を聞きながら。
ビルの角を曲がり準備してある自転車に飛び乗る予定だった。
(? 畜生! 自転車がない! )
自転車が無くなっていた。背後からは、罵声と足音が迫ってくる。考える余地もない。予定のルートを走るだけだった。
(畜生! 畜生! ついてないぜ……。 )
とにかく無我夢中で路地を走った。ごみ箱を蹴飛ばしながら。
路地を抜けると片側2車線の道路にでる。予定では、その道路を自転車で突っ切り、さらに1街区走り抜けるはずだった。
(畜生! 逃げてやる! 逃げてやる! )
草野は、鬼のような形相で走り続けた。
路地を抜けたところに、車が1台ハザードランプを点灯させて停車していた。しかも、都合がいいことに後ろの座席のドアが開いていた。
(車だ! 俺はまだついてるぜ! 運が残っていたぜ!)
まるで吸いよされるように飛び乗ると、運転席に向かって銃を突き出して車を出させた。車はキキッーと猛スピードで走り去った。
あれから、1時間ほど走り続けていた。ときおりすれ違うパトカーに、ビクッとすることもあるが、運転席の男に見透かされないように虚勢をはっていた。
(こんなはずじゃなかったのに。俺は、捕まらねいぞ! 逃げてやる! )
「何だテメー! チラチラ見るんじゃね! 」
バックミラー越しにようすをうかがう運転席の男に叫んだ。
(そろそろ、この車も足がつくころだろう。)
車は、命じられたままにまっすぐに走っている。県境の山間部へと。
時刻は、22時15分。
「……ど、どこまで走ればいいのですか? 」
「ずっと真っすぐだ。いいと言うまで真っすぐだ。」
運転席の男は、怯えた表情で背を丸めながら前だけを見ていた。
(どうして? 電話がないんだ? )
草野は、携帯電話を握り締めた。依頼主の話では、22時に電話をかけてくることになっていた。無事に仕事が終わったあと、後金の受け渡しの指示を受けるために。しかし、今は、これからの逃走の助けを求めるために連絡が欲しかった。
(仕事は、ちゃんと済んだんだ。ちょっとした手違いでこうなっただけなんだ……。)
草野は、自らに言い聞かせるように。落ち着かせるためにも、何度も何度も言い聞かせた。
週末のこの時間帯、ラジオはどの番組もニュースをやっていない。草野は、事件がどのように報道されているのか、気が気でなかった。車は、郊外の新しい商業施設ゾーンに入った。片側2車線の道路の左右に大型のショッピングセンターがある。右手の店舗は24時間営業らしく、この時間帯でも車の出入りが多かった。
草野は、この先の山間部で運転席の男を降ろし。山を越えた辺りで車を捨て。そこから2キロ程歩いたところにある、高速道路のサービスエリアにつながる。高速バスのバス停への階段を使って、人ごみに紛れて早朝のバスで逃げることを思いついた。幸いにも変装したままだったから運転席の男に、はっきりと見られてはいないだろう。
(コイツは、ビビッてるから。俺の顔をまともに見ていないはずだ。)
いっそのこと、殺してしまおうか? 一瞬、頭をよぎったが、
(俺は、人殺しなんかじゃねえ…… あれは仕方なく…… でも、事故だったんだ。)
と、思い直した。