誰そ、彼は-記録・36頁目-
術者の支配から逃れた膨大な呪力によって聴覚が一時的に奪われる。静寂は世界を塗り潰して、咄嗟に腕で庇った視界が白に染まった。
剱さん。
紡いだ名は音として世界に認識されない。何度呼ぼうとも、彼には届かない。
放出された呪力が消えていく感覚だけは身体が受容する。それでもまだ聴力は戻らなくて、静寂は焦燥を煽る。
白い世界。音を失った場所。
彼は、何処にいる。無事なのか。
剱さん。
「――密君」
音を失ったはずの世界に、静かでありながら温もりを持った声が響く
「・・・・・・・・・ッ!」
密は閉じていた瞼を開けた。目を庇っていた腕を退けた先で、夕焼け空を舞う数多の花びらを見る。
確かに呪力を解放したはずのこの世界は、密が最後に見た光景と一寸も変わらずにそこにあった。
軽く手を掲げる。掌に落ちてきた氷の欠片の冷たさを、触覚は確かに伝えてくる。
「これは……」
まるで、手を伸ばしても決して届かない、見上げてばかりいた天に包まれているかのようだった。夕陽に染まって煌く微細な氷の塊は、夜天の星屑そのもののよう。
「密君」
再度名前を呼ばれて、密の視線が動く。
慈しむような、柔らかな微笑みを湛えた彼が、そこにいた。
「ね?僕の言った通りだったでしょう?」
君は僕を傷付けたりしない。
悪戯っ子のような笑顔に替わる、そんな彼の姿を、密は呆然とした体で見つめていた。