p1 喫茶ビビリアンのお客様
スクールバックを肩に掛け、一冊の小説を胸に抱いて…住宅街を走り抜ける。急な坂で、汗がダラダラと零れるのが分かる。
『(やっと…やっと、手に入れた!)』
中学生の時に出会った有名小説家、神代 零の今では何処へ行っても見つからない絶版小説。
そんなの…今すぐ読みたいに決まってる。読む前から、もう心臓がバクバクしてる。だから、私は走るの。誰にも邪魔されない。私のお気に入りの場所!神代先生の小説は読むのは…何時もその場所だって、決まってるから。
カランカランと扉のベルが鳴る。走りながら、店内に入ってくるのは常連の女子高校生。レトロで常に静けさに包まれている、この小さな喫茶店は知る人ぞ知る喫茶店だ。
『マスター、何時もの席!使うね!』
そう言って、奥の席へと向かって足の歩みを止めずに奥へと進む。カウンター席の一席に腰を据えていた中年の眼鏡を掛けた男性が親しげに彼女に声を掛けた。
「おー、凛ちゃん。学校帰りかい?」
その言葉に彼女は足を止めずに通り際に大きな声で言葉を返した。
「そう!おじさんこそ、こんな時間に暇なの〜?」
その言葉に男性は愉快に笑った。悪気のない彼女の言葉に男性は参ったように頭を搔く。
小さな喫茶店、ビビリアンでは数少ない常連客達は喫茶店を第二の実家の用に大切にしている。常連客達はお互いにまるで第二の家族かのように仲が良く、心地良い。この親しみのあるゆったりとした平和な空間が皆、好きなのだ。
無口で寡黙気味な喫茶店の店主はその姿を横目に冷えたドリンク用のカップを2つを取り出した。
常連客の彼女…森川 凛はお気に入りの何時もの席に着くと、赤いふかふかのソファ席に鞄を投げ置いた。その隣に早足で腰を降ろすと胸元にある一冊の小説の表紙をまじまじと見つめた。
作品のタイトル共に背を向け合う2人の人物。片方は自分と妙に似た制服と髪、背丈の女子高校生だった。その少女は1つのお墓の前で真っ直ぐと前を見つめている。お墓の近くには綺麗な花束が添えられている。
もう片方は灰色のロングコートを身に纏った20代くらいの男性。胸元のポケットからは、僅かに万年筆が見え隠れしていて、男性の視線は前ではなく後ろの少女を見ているようにも見えた。
表紙の次は背表紙を見やる。背表紙には憧れで大ファンの人の名前が載っている。その文字を指先の腹で優しく撫でる。
その文字を見るだけで、心臓が微かに高鳴るを感じた。神代先生…私の憧れの人。数々の幅広いジャンルの作品を手掛ける、まさにオールラウンダーの小説家。彼の作品の特徴は、繊細で魅力的な登場人物達の描写と読者に訴えかけるような起承転結。まさに彼は私にとって…
『神様!!』
小説を両手で空に掲げて、そう言った。その時、コトッと音がする。目線を小説からずらすと、そこには喫茶店の老店主が居た。
マスター、そう声を掛ける。机の上には私のお気に入りのカフェラテ。その日は珍しく、アイスのカフェラテで上には生クリーム。そこにチョコレートクッキーが添えられていた。
今日はまだ何も頼んでいないし、普段…マスターは生クリームも乗せないし、クッキーも出さない。今日は気分が良いのかな?なんて考えてるとマスターが言った。
「…いつもと同じ、アーモンドミルクにしてある。最近は暑いからな、アイスにしておけ」
その言葉に納得して、私は感謝の言葉を伝えるとマスターは押し黙ってしまった。マスターってば、相変わらずなんだから…
『あれ、マスター。その胸元にある万年筆なに?』
マスターの薄緑のエプロンの胸ポケットには、身に覚えのない万年筆が入っていた。黒とゴールドの綺麗で、高価そうな万年筆。貧乏性なところがあるマスターには似ても似つかない品物だった。
私がそう言うと、マスターは不思議そうに言った。
「万年筆…?なんの話だ?」
その反応は、まるで万年筆そのものが見えていないかのような…存在しないかのような反応だった。
いや、そんなことは無いはずだ…そう思って、マスターの胸元を指さす。マスターは指、指した方を見た。不思議そうな顔をして、胸元のポケットの中に手を入れた。万年筆に触れる手はするりと万年筆を突き抜けた。突き抜けていた万年筆は微かにノイズが掛かったように揺れているように見えた。
マスターは胸元のポケットを隅々まで探して、手をひらひらと揺らした。マスターが言うには、ポケットの中には何も入っていない…とのことだった。でも、確かに私の目線の先には高級そうな万年筆が映っていた。見えない、だなんて…そんなはずは無い。私は立ち上がって、少し強引にマスターの胸元に手を伸ばした。マスターの手と同じように、私の手はすり抜けてしまうのか。そう思ったけれど、何故かその万年筆は私の手を受け入れた。
すんなりと万年筆は私の手の中に移った。そして、それをマスターの鼻先にまで持って行き、見せた。が…マスターは依然として、ただ不思議そうな顔をするだけだった。
「…風邪でも引いているのか?」
そう、マスターに心配させてしまったようだ。その場は何とか終わらせて、マスターは納得いっていない様子をしながらも仕事に戻った。
席に一人、背中を丸めるように座っている私は手の平の上にある万年筆に目線を向けた。万年質を一通り、見回すと筆記体で描かれた名前のようなものを見つけた。
『れ…か〜……ろ?』
筆記体な上に英語で描かれた名前は、英語を苦手とする私には上手く読み取ることが出来そうになかった。でも、その文字はどこかで似たようなものを見たことがあるような気がした。それらしき読みを口に出してみるが、どれもしっくりこなかった。万年筆をぐるぐると回す手を止めて、万年筆の蓋に手を掛けた。少し力を入れるが、ビクともしない。随分と長いこと使われていないのか。蓋はキツく閉まっていた。少しずつ、蓋に対する力が強くなっていく。手だけでなく、顔までも赤くなった頃、やっと蓋が空いた。
空いた瞬間、手から力が抜けて蓋が宙に高く舞った。そして、カランと音を立てて蓋が地面に落ちた。拾おうとして、席を立つ。しゃがむと突然、外からの強い風に煽られてすぐ近くの小さな窓が空いて、窓枠が壁に当たる音がした。蓋を拾い上げて、万年筆に戻そうとした時、外からの風に煽られて、微かに万年筆からインクの香りがした。万年筆に蓋を閉めると、上…いや、大分近くから男性の声が聞こえた。
「やぁ、調子はどうだい?」
バッと顔を上げると、至近距離に若い大人の男性が居た。私は思わず、情けない声を出した。
『うわぁっ!?』
喫茶店の赤色のソファ席に足を乗せて、後退った。その勢いのまま、壁に頭を強くぶつけて、私は余りの痛みに頭を抱えて丸まった。両手を後頭部に当てて、膝を抱えるように蹲る。私が痛みに悶えていると、少しするとクスクスと笑う声が聞こえた。その声は段々と大きくなり、最終的には喫茶店の外に響くほどに大きな声になっていた。私はその笑い声に無性に苛立ちを覚えて、不貞腐れながらも顔をゆっくりと上げた。後頭部にはまだ痛みがジンジンと響いている。
男性と目が合うと、男性は目元の涙を拭いながら言った。
「ごめんごめん、余りにも…君が派手に驚くからさぁ。」
反省の色の見えない目の前の人物を睨む。だが、男性は変わらず笑いを堪えている。そして、当然かのように自然に私の対面のソファ席に腰を下ろした。
なんなんだこの人…ビビリアンの常連である私でも、一度も見たことの無いお客さんだし、人の不幸を笑って…失礼な人。
それが、彼の最悪な第一印象だった。
私の気分とは裏腹に目の前の彼はニッコリと不敵な笑みを浮かべて、此方を見ていた。




