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9 別れの旅

 華のお気に入りのブランケットに、お気に入りのおもちゃ。それと、ぬいぐるみも。全てをバッグにつめた。


「ままぁ」

 華が手伝いながら、にっこり笑う。


「華、今日は佐伯さんのお家でお泊まりね」

「うん!」


 数日前から言い聞かせてきた。今回は、前回会った時からそれほど日が開いていない。佐伯一家のことを覚えているのか、華は喜んでいた。


「ひーくんと、はーくんと、あそぶよ」

「そうだね」


 不安はあった。やっぱり心配だった。

 ぬいぐるみの耳がはみ出て、バッグのファスナーが閉まらない。何度入れなおしても、うまくいかなくて。


「これ、こうやったら、しまるよ」

 華が入れ方を変える。すると、ファスナーがすっと閉まった。


「ほんとだ。華、すごいね」

「えへへ」

 名残惜しい。華の笑顔も、声も、匂いさえも。全てが、今夜だけ、自分のそばから離れる。

 それでも、これは、結衣の最後のわがままだった。




「ひーくん!」

 佐伯家の玄関が開いた瞬間、華が飛び出していく。


「華」

 娘を引き留める手は、宙を切った。


「あ、華ちゃん!」

「はなちゃん、きた!」

 奥から兄弟が飛び出してくる。


「あらあら、元気ね」

 それを直は笑って見ていた。


「すみません、直さん。よろしくお願いします」

 たくさんの荷物がつまったバッグを、直に預ける。


「大丈夫! 安心して行っておいで!」

 直のあっけらかんとした顔は、勇気をもらえる。


「心配しないで。何かあったら、ちゃんと連絡するから」

「……お願いします」

 心強い言葉に、少しだけ背中を押されて。


「華、いい子にしてね。明日、迎えに来るからね」

「うん! ママ、いってらっしゃい!」


 保育園で慣れているせいだろう。特に寂しそうにすることもなく、華は元気に送り出してくれた。


「よろしくお願いします」

 深々と下げた頭は、母親のわがままで寂しい思いをさせてしまう華への謝罪の意味も込めた。




 その足で新幹線に乗った。行先は、京都と滋賀。彼に別れを告げる旅だった。




 移り変わる車窓が、ゆっくりと過去へ引き戻すように。


『結衣、寂しいか?』


 彼の言葉が頭の中に響く。

『はい』

 彼女はそう答えた。


 それは、彼が戦にいく前日のことだったか。一緒にいたい、戦なんてやめて。その言葉を飲み込んで。伝えられたのは、その2文字だけだった。


『そうか』

 彼は、大きな手で頭を撫でてくれた。


『心配せずとも、儂は帰ってくる』

『わかっています。でも、寂しいものは寂しいのです』


 彼が死なないことは知っている。それは、結衣が歴史を知っていたから。ここで死ぬ人物じゃないと、わかっていたから。


 それでも、やっぱり心配はあって。怪我をしないでほしい、と。そう願って送り出していた。


『子どものようだな』


 優しく響く声は、低くて。耳に心地よくて、そっと目を閉じる。


『そなたのいる場所が、儂の帰る場所だ』

 その言葉が、結衣の支えだった。




 そこは、久しぶりの場所だった。3年前、まだ生まれて間もない華を連れて訪れた場所。


 そこには、彼のお墓がある。まずはここ、と決めていた。

 彼の存在が感じられる場所で。そう決めて、いくつかの場所を回ることにしていた。


 今回の旅は、時間が限られている。明日には帰らなければいけない。だから、ゆっくりしている暇はなかった。


 お寺に参拝し、そのまま隣の廟に足を向ける。


 くん、とスカートの裾が引かれる気がした。いろんな感情が足にまとわりついて、動かない。嫌だ、行きたくないと、と駄々をこねるように。


 ダメだ。ちゃんとお別れしないと、未来に進めない。これは、けじめだ。

 トン、と足を叩く。しっかりしろ。これは、彼のためなのだ。

 軽く足を叩き、ゆっくり進む。一歩、一歩、と。過去に蹴りをつけるために。


 石畳を踏みしめるたびに、空気が重くなる気がした。

 背後から何かに引かれるような感覚。まるで、足元の影が、「まだ来るな」と言っているようで。

 それでも、なんとか廟の前にたどりつき、そっと手を合わせた。


 そっと、彼の名前を呼ぶ。でも、返事はなくて。


 風すら吹かない静けさが、余計に寂しさを際立たせた。

 何も感じない。ここに彼はいない。それは、感覚的に説明できるものではなくて。

 娘を連れて来た時にも感じたもの。やっぱり、ここではないのか。


 それがわかると、すぐに踵を返した。ここじゃない。それなら、もうひとつの目的地へ。




 そこは、県をまたいだ先。滋賀県八幡市だった。

 ここには、彼が築いた城があった。彼と一緒に眺めた天守閣はもうなくて。


 ここは、本能寺以上に足が重くなる。それだけ思い出が詰まった地だった。


 草の匂いが鼻先をかすめる。大きな階段を一歩登るたびに、彼の影が重なる。


 彼と一緒に歩いた道。あの頃は、たくさんの屋敷に囲まれた場所。でも今は、大きな階段が残されているだけ。誰の屋敷があったとかはわかるようになっているが、それ以上に彼を感じられるものはない。


 それなのに、涙が止まらなかった。


『結衣』


 城下に火を灯し、イルミネーションのように飾ってくれたあの日。得意気だったあの顔は、今もはっきりと思い出せて。


 泣きたくない。涙なんて、流したくないのに。

 呼吸がうまくできない。 目の奥から溢れた熱が、次々に頬を伝う。


 幸せな日々を思い出しては、そのひとつひとつに別れを告げるように、ぽと、ぽと、と地面を濡らした。


「……っ」


 喉の奥から、小さな息が漏れた。その息が、そっと空気に消えていった時、


「……信長様……っ」


 何度も心の中で呼んだ名前を、ついに声に出してしまった瞬間。


 ふわりと、風が頬を撫でた気がした。その風が、彼の手に思えて。まるで、涙を拭ってくれるようで。さらに涙を増幅させていく。


 嫌だ。忘れたくない。会いたい。心の底からあふれ出る感情たちを、たった一言に込めて。

 視界が滲むたび、彼と見た風景が目の前に浮かぶ。


 彼と一緒に登った石段。一緒に歩いた参道。肩を寄せ合って見下ろした城下の光景。


 あの時の自分は、未来の不安なんて知らずに、笑っていた。彼がそばにいてくれるだけで、世界は満ちていた。


 なのに、今は。


「……どうして、いないんですか?」


 ぽつりと漏れた声は、誰に届くでもないのに、空気を震わせる。

 思い出の中の彼は、決して振り向かない。背中だけが、どんどん遠ざかっていく。


 彼は、過去に生きている。結衣は、今を生きなければいけない。

 そんなこと、わかっているのに。

 心は、まだ彼を探していて。


「信長様」


 また名前を呼ぶ。何度目かもわからず。

 呼べば呼ぶほどに、胸が締め付けられる。

 風が、また吹く。ふいに、涙で濡れた頬をそっと撫でた。


 その風にすがるように、手を伸ばす。彼を引き留めるように。でも、そこに彼の姿はなくて。


「……お願い」


 涙の中、声を絞り出す。

 あと、もう一度。もう一度だけでいい。


「……会いたい」


 さよならを言わせて。そうすれば、きっと忘れられるから。

「……結衣?」



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