8 告白
「やぁだ!」
華が岡崎にしがみついて声を上げる。
「あそぶ! あそぶの!」
先ほどまで車内で寝ていたからか、体力も気力も復活していて。それが厄介だ。
「華、わがまま言わないで。ママが遊んであげるから」
どうにかして結衣が岡崎から娘を離そうとするも、3歳児の力は思ったよりも強い。無理に離してしまえば怪我してしまうかもと思ってしまうから。
「華ちゃん、また今度遊ぼうね。いつでも遊べるから」
岡崎も華をなだめようと声をかけてくれる。
「やぁ! いまがいい!」
でも、華は頑として首を振る。ここまで頑なになってしまったら、もう手がつけられない。それは結衣が1番わかっていた。
仕方なく、結衣から提案した。
「岡崎さん、この後ご予定ありますか?」
「あ、いや。ないけど」
「じゃあ……少しだけ、お付き合いいただけませんか?」
それに対し、岡崎は軽く目を見開いた。
「ご迷惑でなければで大丈夫です。……少しだけでも遊べたら、華も納得すると思うので」
その言葉に答えた岡崎の声は、
「うん、わかった」
嬉しそうだった。
「華、ちょっとだけだからね」
「うん! おじちゃん、あそぼ!」
本当にわかっているのか不安な返事ではあるが、一応確認は取れた。
「お邪魔します」
母と娘、2人だけで暮らす小さなアパートに、岡崎が入ってくる。彼は、どこか居心地悪そうで。
「おじちゃん、こっちよ!」
しかし、華が気にせず手を引いていく。
「華ちゃん、おもちゃいっぱい持ってるね。いいね」
「んふ。ママがね、かってくれたの」
ほとんどは娘のわがままに折れる形で買ったものだが、一度買ったものは全てお気に入りでずっと遊んでくれる。
ものを大切にしてねと繰り返し伝えてきたからか、ひとつひとつを大事に扱ってくれる。その姿が、買ってよかったと思わせてくれた。
「おじちゃんのおもちゃもあるよ。ほらぁ」
「あ、ほんとだ。いっぱい遊んでくれてありがとうね」
たくさんのおもちゃを広げて、きゃっきゃっと楽しそうに遊ぶ。岡崎も嫌な顔せずそれに付き合ってくれるため、助かった。
結衣もそばで見守りながら、そっと岡崎の顔を見る。
彼とは似ても似つかない顔。彼のように威厳に溢れる雰囲気もなければ、カリスマ性溢れる性格でもない。
それでも、岡崎が誠実な人だということはわかっている。これ以上を望めばバチが当たりそうなほど、完璧な人物。
もし岡崎からアプローチされたら。
そう考えて、そっと胸に手を当てる。寂しいし、胸が痛い。でも、夢見てばかりじゃいられない。娘を幸せにするために。
「おじちゃん、えほんよんで」
「うん、いいよ。どれがいい?」
結衣が愛した人はきっと、子どもに絵本を読んであげるような人ではないだろう。子どもは何人もいたけれど、彼がその子たちといた記憶はあまりない。
それでも、華を膝に乗せて絵本を開く姿に、どうしても彼を重ねてしまう。もう忘れたいのに。
壁に飾ったタペストリーのように、今も心が彼から離れられない。それだけ愛していた。それこそ、一生に一度、人生をかけて愛した人。
「真柴さん」
小さな声に、ハッとした。
岡崎を見ると、唇に人差し指をあてていた。見ると、岡崎の膝の上で華が眠っていた。
「疲れてたんだね」
「そうみたいです。ありがとうございました」
そっと抱き上げ、近くに寝かせてあげる。お気に入りの毛布をかけると、コロンと寝返りを打って。ブランケットを抱きしめる体勢になったのは、偶然だろうか。
そんな小さなことにさえも、胸を締め付けられてしまう。
気を逸らそうとコップを手に取った時、ふいに視界がぼやける。水気のない目の奥が、じんわりと熱を持っていた。
思えば、こうして誰かが娘と一緒に遊んでくれる時間が、どれほど自分の心を支えてくれるのかを、これまで気づこうともしなかった。
ふと、視線を上げる。華が眠る傍らで、岡崎がそっと華の髪を撫でる。
優しい手つき。子どもに慣れているはずなのに、その手つきはどこかぎこちなくて。その不器用さが、どこかで彼と重なった。
胸に浮かぶのは、あの人の顔。名前を呼ばれた時の、あの低くて優しい声。きっと、もう聞くことはできない。
わかっているのに、心のどこかが「もしかしたら」と夢を見てしまう。そんな自分を責めたくなる。
「お茶、いれますね」
空っぽになったガラスのコップを見て、立ち上がった。
「真柴さん」
その声に、引き止められた。緊張しているような声を不思議に思って振り返った先。
そこには、真面目な顔をした岡崎がいた。
「少し、僕の話をしてもいいかな」
「あ……はい」
突然のことだった。でも、真面目な眼差しからは逃げられなくて。結衣はそのままその場に座る。
「姉がさ、真柴さんと同じシングルマザーなんだ」
「……ぇ」
結衣の口から小さな声が漏れた。
「旦那さんが家事とか育児に協力してくれなかったんだって。僕は、それを聞いて悔しかったし、なんでって思った」
きっと、誠実で、人と真摯に向き合うからこそ出てくる、この言葉たち。
「どんな理由があったって、親が子どもを見ないなんて、あっていいわけがない。父親と母親がいて初めて、子どもができるんだから」
どこまでも真っ直ぐな人だと思った。
「シングルを否定するわけじゃない。姉も甥っ子たちも幸せそうだし、片親でも十分立派なひとつの家庭だ」
あぁ、そうか。これは、告白というやつだ。彼のこの先の言葉が、わかってしまった。
「でも、僕は、真柴さんと、華ちゃんと、家族になりたいと思った」
ぎゅっと締め付けられる胸を無視して、彼の言葉に耳を傾ける。
「華ちゃんが僕の手を握ってくれるたびに、かわいいとか、嬉しいとか、そんな感情じゃなくて……。愛おしいって、思ったんだ」
華を愛してくれる人。それだけで、いいはずだった。
「僕は、ずるいよ。初めてこの家に入った時、仏壇がないことにホッとした」
「……どうして、ですか?」
「仏壇があったら、……旦那さんが亡くなってたら、敵わないと思ったから。亡くなった人との思い出は綺麗だろう? それを超える自信がないんだ」
結衣にとって、彼は「死んだ人」なのだろうか。死んだところを見たわけでもなければ、別れを告げたわけでもない。でも、一般的に言えば、彼はもう「死んだ人」だ。
「結衣さん」
もう一度、確かめるように、岡崎が結衣の名前を呼んだ。
「僕と、結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
わかっていたのに。「結婚」という言葉が、心臓に突き刺さる。
「結衣さんの過去のことは、……気になるけど、話したくないなら、聞きません。今の結衣さんと、華ちゃんを、僕に守らせてくれませんか?」
痛い。胸が痛い。瞼が熱い。口が乾く。そして、彼の顔が、脳裏にこびりついて離れない。
『結衣』
彼の声は、今でも思い出せるのに。
呼吸が浅くなる。彼の存在を忘れることを、身体が拒否するように。
「……少し」
喉につかえながら、言葉を絞り出した。
「少し、考えさせてください」
まだ準備ができていない。せめて、あの日言えなかった言葉を、彼に伝えてから。
「ダメ、かな?」
岡崎が不安そうに尋ねる。
「岡崎さんが優しい方だということは知っています。今の言葉を聞いて、華のことも大切にしてくれるって安心しました」
真っ直ぐな言葉を向けてくれたから。結衣も、まっすぐ返したかった。
「でも、今のままじゃ、岡崎さんに失礼になってしまうので。もう少しだけ、時間をください」
「……うん、わかった」
岡崎は、少し寂しそうに頷いた。
「これだけは言わせて」
でも次には、真っ直ぐな目を向けてきて。
「結衣さんに過去を忘れてとは言いたくない。過去は過去として、それを塗り替えられるくらい幸せだと感じてもらえるように、頑張るから」
これが、彼の本音なのだろう。
もう逃げられない。どんどん進んでいく時間から。目の前に迫る未来から。
結衣は、静かに、過去に区切りをつける覚悟を決めた。




