5 ショッピング
「華、手、離さないで」
大興奮でさっさと先に行く娘を、慌てて引き留める。いくら地元のデパートとはいえ、休日の人の数はすごいものだ。
「ママから離れちゃダメだよ」
「うん!」
元気な返事をした後、さっそくおもちゃ売り場に引っ張られる。これは買い物が進みそうにない。
「華、車に乗ろうか」
「ごろごろ?」
「うん、そうだよ。華、好きでしょ?」
「うん!」
子ども用の椅子がついたカートに乗せると、いくらか自由度が増す気がする。
「おもちゃ!」
が、乗った瞬間の主張の強さ。
「あとで行くからね。他のお買い物してからね」
「や! おもちゃ!」
どんなに言い聞かせても、簡単ではない。でも、ここでおもちゃ売り場に連れていけば、その後疲れ切ってまったく買い物に集中できないのが目に見えている。こうやって騒ぐだけいいと思っておくか。
「まぁま! おもちゃ!」
そう思っておきたいのに。子どもの声は、どうしても頭に響く。
「もう……。いい子にしててよ?」
「うん! はな、いいこだよ!」
おもちゃ売り場に行くと決まった瞬間、華は明らかに大人しくなる。いい子にしてるよ、という主張に、苦笑いがこぼれた。
「一個だけだからね」
「いっこ」
カートから下ろしてあげると、華はさっそく売り場の中へ消えていく。
「待って、華。おててつないで」
慌てて手を引いて、それでも華は勢いのままに走り出そうとする。
「華、お店の中は走っちゃダメだよ。ゆっくり歩いてね」
「うん!」
その行動は、元気な返事とはうらはらで。せめて迷子にならないように、娘の手を掴んでついていく。
「なにがほしいの?」
「んー? あんねぇ……」
華は探すことに夢中らしく、何を探しているのかまでは聞き出せない。娘が納得するまで付き合うしかないかとため息をこぼした時だった。
「真柴さん?」
それは、意外な声だった。
「あ、やっぱり!」
職場の先輩、岡崎の声。騒がしい店内で、意外にもはっきりと耳に届いた。
「おはようございます、岡崎さん」
つい職場での挨拶のように硬くなってしまう。しかし、岡崎は気にしていないようで、結衣と手を繋ぐ子どもに目を向けた。
「娘さんとお買い物?」
「はい。華、こんにちはってできる?」
「んー……」
さっきまで元気に手を引っ張って歩いていたのに。母親の後ろに隠れてしまった。
「華、ほら。ご挨拶して」
「いいよ、いいよ。知らない人は怖いもんね」
岡崎はそう笑って、少し距離をとったまま膝を折った。
「初めまして。お母さんのお友達の岡崎です。君のお名前は?」
それは、ごく自然な行動。でも、不思議と心が暖かくなった。
華を妊娠してから触れた優しさは、両手じゃ納まりきれない。その度に、胸が温かくなる心地がする。
華がもっと小さかった時、電車に乗っていると、結衣に見えない位置から華をあやしてくれるおじさんがいた。
電車で席を譲ってくれるおばさんに、公園で華に挨拶してくれるおじさん。たまに、一緒に遊んでくれる高校生なんかも。
そんな人たちを見てきたからわかる。岡崎の言動は、子どもと対等な目線で接してくれる優しい人のそれ。とても自然で、そして子どもに慣れている人だとわかった。
「……はなだよ」
その優しさがつたわるように、華の小さな声を引き出す。
「はなちゃんって言うんだ。かわいい名前だね」
その一言だけで、華の警戒心はわずかにやわらぐ。それは間違いなく結衣の血だ。
「岡崎さんも、お買い物ですか?」
確か結婚はしてなかったはず。多様性と言われる時代、こういうと少し時代にそぐわない気はするが、独身男性とデパートのおもちゃ売り場というのは、どうしても一致しなくて。
「甥っ子にプレゼントを買っておこうと思ってね。今度、姉がこっちに帰ってくるらしくて」
それは、ごく自然な回答だった。
「そうなんですね。甥っ子さん、おいくつくらいなんですか?」
「来年から小学生だったかな」
「じゃあ華より少しお兄さんですね」
思わず世間話に花が咲きかけた時、
「まぁま」
華の声に、ハッと現実に引き戻された。せっかくおもちゃを買いにきたのに、大人の話に付き合わされる子どもというのは、退屈だろう。
「ごめんね、華。おもちゃ買いに行こうね」
慌てて頭を撫でる。
「よかったら」
その様子を見て、岡崎が口を開いた。
「一緒に、ってどうかな?」
「え?」
それは、予想していない提案だった。
「あ、それとも、旦那さんとか来てる? だったら全然いいんだけど」
「あ、いえ……」
「旦那さん」という言葉に、思わず視線を逸らしてしまった。いない、なんて言えなかった。
「大人ひとりじゃ大変かなって思って。荷物持ちとでも思ってもらえれば」
確かにありがたい提案ではある。片手は娘と手を繋ぎ、もう片方でカートを押しながらの買い物というのは、それなりに大変だから。
「いいんですか? ご迷惑じゃありませんか?」
「全然。こっちから提案したんだし、気にしないで」
「ありがとうございます……」
知らない人ではないし、頼れる人がいるのはありがたい。そんな気持ちで、その提案を受け入れた。
「おじちゃん!」
華が打ち解けるのは早かった。いつもは一個しか買ってもらえないおもちゃを、岡崎からのプレゼントということでもう一個買えたのが嬉しかった、というのもあるだろう。
子どもというのは、本当に無邪気なもので。最初の警戒が嘘のように、手を繋いでいる。
「おじちゃ、これ、かってぇ?」
一回で味を占めた華は、さっそく別のものも要求する。
「こら、華。もうダメだよ」
さすがに、と結衣が止めに入ると、
「まま、ちがうの! おじちゃんなの!」
と拒絶されてしまう。この人になら甘えればいい、と覚えてしまったのだろうか。
どうしよう。これからお店を変えるたびに華がおねだりしてしまうのは、申し訳ない。さすがにそろそろ断るべきか。そう考えている間に、
「華ちゃん、あっちのも見てみようか」
「うん!」
岡崎は上手に華の気を逸らす。
「真柴さん、ゆっくり見てていいよ。華ちゃんは僕が見ておくから」
「すみません……。よろしくお願いします」
いつも手を繋いでいなきゃいけなかった華は、ある程度自由にできて。華のストレスも小さいだろうし、何より結衣が助かっている。さらに岡崎は、常に結衣の視界に入るように気遣ってくれる。そのおかげで、心配する必要もなかった。
「これ、かわいいねぇ」
「そうだね。かわいいね」
華の身長に合わせて、やや腰を折りながら歩くその姿は、どこからどう見ても「父親」で。それは、結衣が望んでいた彼の姿と重なってしまう。
華を産んでから、涙腺が緩んでしまったのかもしれない。人の優しさに触れるたび、涙ぐんでしまう。優しい世界で華を育てていけることが、嬉しくて。
「すみません。車まで乗せてもらって……」
「いやいや、大丈夫だよ。さすがにその荷物だと、電車で帰るの大変だろう?」
帰りは岡崎の車で送ってもらうことになった。豪華なパフェまで食べた華は、幸せそうに眠っていて。華が手を離れているから、少し買いすぎてしまった。
「少しは、手伝えたかな?」
その声に、ハッとした。
「え……?」
バックミラー越しの眼差しは、優しくて。
「ひとりだと大変だろうからって、ちょっと強引にしちゃったから。邪魔になってたらごめんね」
「いえ、そんな……。助かりました。本当に。華がいる時は、こんなゆっくり買い物なんてできなくて」
娘の機嫌をうかがって、必要以上に時間を使わないように気をつけていた。でも、今日はそんなことはなくて。久しぶりに「買い物をした」と思えた。
「姉もいつも大変そうだから、そうかなって思っちゃったんだ。助けになれたのなら、よかった」
もし、彼がいたら。こんな日常があったのだろうか。彼が、この時代に来てくれたら。
ただの職場の先輩に、そんなことを感じてしまう自分が、怖かった。恐怖、とはまた違う。不快感に近い感情が芽生える。だって、彼はひとりだけ。彼と他の人を比べる、まして重ねるなんて。
今回は確かに助かった。でも、心の中で思うだけにしても、あまりにも失礼すぎる感情。
今回限りにしよう。これ以上、岡崎には頼れなかった。




