4 日常
『ねぇ、ママ。はなのぱぱは、どんな人?』
その言葉が、頭の中で反芻する。
精一杯、伝えられることを伝えた。娘は終始真面目な顔で聞いていた。それでも、最後に見せた顔は、わかったようなわからないような、不思議そうな顔で。
まだ3歳の娘には、難しい内容だったかもしれない。それでも、今話すことに意味があると思った。
彼を待ち続けてもうすぐ4年。結衣の心は、疲れを見せ始めていた。
会えないかもしれない。もう二度と、彼に触れることは叶わないかもしれない。そんな思いを、無視できなくなっていた。
「真柴さん?」
その声に、ハッと顔を上げる。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。すみません」
心配そうな顔をしてくるのは、職場の先輩。
「無理はするなよ」
「はい」
何かと気にかけてくれる先輩は、非常に助かる。
ある程度の大きな企業でも、やっぱり入社して最初から早退や欠勤が多いのだから、いい顔はされない。たとえ事情があっても。
そんな中で、彼は結衣に親切にしてくれる先輩だった。
さて、今は仕事中だ。気になることは多いが、仕事に集中しないのは違う。
再びパソコンに向き合い、指先でキーボードを叩いた。
「お先に失礼します」
社員が残業する時期の時短勤務というのは、本当に申し訳ない気持ちになる。
「お疲れ」
声をかけてくれたのは、隣の席の先輩だけだった。
気にしていたって仕方ない。どんなに仕事を頑張っていても、評価されないことはある。何よりも、華の母親は自分だけ。仕事と違って代わりは効かないのだから。
「あ、真柴さん」
エレベーターに乗る直前、先輩が追いかけてきた。
「ごめん、退勤したのに」
「いえ。どうかしましたか?」
「いや、ちょっと疲れてそうだったから。何かあったかなーって」
ハッと両手を顔にやる。それを見て、先輩は笑った。
「顔に出やすいよね」
それを責めるわけでも、過剰に心配するわけでもない。ただの世間話のような会話。
「確か、娘さんいるんだよね。大丈夫?」
「はい。娘はかわいいですよ。3歳なので元気すぎてついていけない時はありますけど」
「アハハ、かわいい盛りだ。甥っ子がそれくらいの時も大変だったなぁ」
3歳児の大変さを知っているのか。それだけで、少し心が緩む。
「でも、よかった。大変だったら言ってね。何か手伝えるかもしれないし」
職場の先輩に頼れることなんて、そう多くはない。それでも、その言葉は嬉しくて。
「ありがとございます」
そう口に出した言葉は、どこか柔らかかった。
「ママ!」
保育園にいけば、娘が元気に駆け寄ってくる。
「ただいま、華。いい子にしてた?」
「うん! いいこだよ!」
この笑顔のために頑張っている。そう思える瞬間だった。
保育園の門を出てすぐ、
「まま、て」
華は無邪気に手を差し出してくる。その小さな手を握ると、娘は嬉しそうに笑った。
「あんねぇ」
母と娘、2人並んで歩く帰り道で、華は今日あったことを話してくれる。友達と遊んだこと、先生が読んでくれた絵本のこと、お昼寝の時に見た夢の話も。
「華、今日のご飯は何にしようか」
「んー、あんねぇ、かれー!」
「またカレー? 華はカレーライスが大好きだね」
「うん! ままのかれー、おいしい!」
そんな他愛ない会話をしながら、慣れ親しんだ道を歩く。娘とつないだ手は温かい。その温もりを離さないよう、強く、優しく握った。
華を寝かしつけると、家の中は途端に静かになる。あんなにあった彼を感じるためのグッズは片隅に追いやられ、その代わりに娘のものが増えた。散らかったおもちゃや絵本を片付けていると、壁にかけられたタペストリーに目がいく。
心が動かない。それは、少し前から感じていた感覚だった。悲しくも、寂しくもない。そして、それに励まされることも、なくなっていた。
好きか嫌いかで聞かれれば、それは好きだと答えられる。それくらい今でも彼のことを考えられる。でもそれは、昔ほどではなくて。
華が成長し、言葉を話すようになって、忙しくなって。自然と、彼を思い出すことが減った。
あんなに愛していたのに。もうあの時ほどの気持ちがない。それは、悲しかった。この気持ちは、自己嫌悪、とでもいうのだろうか。
彼がいなくても、やってこれた。この先、彼がいなくても、やっていけるかもしれない。そう考えることが、彼に申し訳なくて。
そんな時。スマートフォンがメッセージの着信を知らせた。
『お疲れ。まとめてくれてたの、助かった』
それは、あの先輩からのメッセージ。たったそれだけの、短い言葉。でも今は、この言葉に救われている。
こうやって、人間は過去に区切りをつけるのだろうか。過去を過去として受け入れ、未来へ歩いていくのだろうか。その感覚は、少し寂しい。
娘が眠る隣の部屋を見れば、大きな家紋が描かれたブランケットが。それは、華のお気に入りだった。小さい頃から使っていたせいだろう。
「……大丈夫」
ぽつりと、呟いた。
「ママ、頑張るからね」
まだ変わっていない。この寝顔が愛おしいと感じる限り。この感情は、終わっていないのだ。




