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32 前夜

 夜の静かな空気が、ゆったりと流れる。音のない空間なのに、ピンと糸が張りつめたような感じはなかった。むしろ、凪いだ海のような穏やかな時間だった。


 アルバムの中には、この1年で溜まった写真たち。華、結衣、そして信長の、たくさんの笑顔で埋まったアルバムを、思い出をなぞるように見つめていた。


「結衣」

 信長がリビングに入ってくる。


「眠れないのか」

「……少しだけ」


 結衣の答えに、信長は優しく微笑んで。そっと隣に座った。

 左側からじわりと温もりを感じていく身体に、じんわり意識を飛ばす。


「興奮しているみたいです」

 結衣の口から、静かな声が漏れた。


「今までと変わることなんて、何もないのに」

「そうだな」


 信長が、アルバムに添えられた結衣の手に、そっと大きな手を重ねる。

「儂は、緊張しておるがな」

 まさかの告白に、結衣が思わず目を見張る。


「当然であろう。結衣と永遠を誓うのだ」

「ふふ」

 正直な言葉に、結衣の口から笑みが漏れた。


「笑うな」

「だって……ふふ」


 笑いをこらえきれない結衣を止めるように、信長が手を握る。


「信長様と初めて会った時からは、考えられないなって」

「覚えておるのか」

「もちろん覚えていますよ。信長様は忘れましたか?」

「そんなわけあるか」


 信長が驚いたように結衣を見た。


「今も、鮮明に覚えておる」

 結衣の目を見て、そう言った。


「初めて会った時、信長様は宇宙人を見たみたいな顔をしていました」


「宇宙人とは思わなかったが、日本人とも思わなかったな。南蛮人のような恰好をしておった」

「仕事帰りでしたから、確かスーツでしたね」

「うむ。奇抜な恰好に見えたのだ」


 信長に従っていた者たちが止める中、信長は馬に乗って近づいてきた。


「結衣は、儂が怖かったか?」

「んー……まぁ、そうかもしれないです」


 そこがどこかもわからず、どうしていいかもわからなかった。突然現れた刀を持った人間たちに、最初は驚いたし怯えた。


「でも、信長様は、最初から優しかった。行く宛がないとわかると、わたしをお屋敷に招いてくれました」


「南蛮人なら恩を売るのも悪くないと思ったのだ」

「打算ですね」


 それを嫌だとは思わなかった。そのおかげで、結衣は救われたのだから。


「有岡城……でしたっけ。わたしが来てすぐ、信長様が戦に行ったの」

「うむ。あれは、嫌な戦だったな」


「帰ってきた信長様が、悲しそうで。それを見て、苦しくなりました。わたしが、助けてあげたいと」


 当時、結衣は何も知らなかった。歴史に詳しいわけでもなかったし、噂話を話してくれるほど信頼している人間関係も築けていなかった。


 それでも、信頼していた家臣に裏切られたという話をどこかで聞き、信長を訪ねた。


 彼の背中は、いつもと比べて、少し悲し気で。思わず歩み寄り、その背中を支えるように、手を取った。


「あの時から、そなたは儂を支えてくれた」

「支えた、なんて。何もしていませんよ。あの頃は信長様に甘えてばかりでしたし」


 自分で立つことも、生活することもできない、子どものような存在。信長に受け入れてもらえなければ、野垂れ死んでいてもおかしくなかった。


「そのすぐ後、丹波、丹後を平定されましたね」

「よく覚えておるな」

「歴史をこの目で見た瞬間でしたから。感動しましたよ」


 信長が天下を取っていく瞬間を目にして、歴史に疎い結衣でも簡単に心を動かされてしまった。それくらい、感動的な光景だった。


「だが、そのすぐ後、結衣は泣いておったであろう」

「……松平様の事件ですか?」


 現代でいう、信康事件と呼ばれるもの。信頼していた家臣に、その家臣が大切にしている家族の処刑を命じた信長に、結衣はどう声をかければいいかわからなかった。


「あの時、わかりました。目の前にいるのは、わたしが教科書でしか知らなかった織田信長という存在なのだと」


「それまで疑っておったのか?」

「嘘だとは思っていませんでしたが、意外と優しい人だな、って思ってました」


 残酷で、冷徹で。でも、彼は胸を痛めていた。それを、結衣は知った。

 織田信長は、教科書の中よりずっと、人間的だった。


「それからも、ずっと見ていましたよ。播磨を平定して、本願寺と和睦して、一向一揆を収めて」

「よく覚えておるな」


「信長様が話してくださったのではないですか。おもちゃをもらった子どものように、嬉しそうに」

『結衣、やったぞ!』

 あの時の信長の嬉しそうな顔を、結衣は覚えている。


「京都での馬揃えは圧巻でした。あの時代に、あんなに豪華なパレードができるなんて」

「結衣は子どものようにはしゃいでおったな」


 そして、あのイルミネーション。結衣の誕生日のお祝いにと、安土城の城下町をライトアップしてくれたサプライズ。


 そこまで話すと、2人は自然と口をつぐんだ。そこから先は、つらく悲しい思い出だから。


 いつものように2人で夜を過ごした。信長が初めて聞いた。

『結衣はどこから来たのだ』


 その言葉に、結衣は初めて正直に答えた。それが最後の会話になるなんて、その時は思っていなかった。


 やっと言える。現代への未練を捨てて、彼のそばにいることを決めた、決意の言葉だったのに。


「信長様」

 その静寂を破ったのは、結衣だった。


「愛しています」


 今も、昔も、変わらず。離れた時でさえも。彼だけを、愛していた。


「儂もだ」


 信長が低い声で答える。


「そなたを愛しておる」


 くすぐったくて、でも、嬉しい。心が温かくなる言葉は、何度言われても嬉しい。


「あなた様と結婚できて、わたしは幸せ者です」


「そなたを娶ることができて、儂は日本一の幸せ者だ」


 たくさんのことがあった。つらいことも、悲しいことも。嬉しいことも、楽しいことも。


 これから先もきっと、そういう思い出を作っていける。どうかそうであってほしい。


 確信とも願いとも言えないその言葉を、心の中で唱えて。


 明日は、永遠を誓う日だ。


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