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3 会える日まで

「華」

 結衣が呼びかければ、娘はにこっと笑う。その顔が、かわいらしくて。


「華はかわいいね」

「あーぅ」

 かわいらしい声に、結衣がふっと微笑む。


 そこは、新幹線の中。オフシーズンのせいか、ところどころに空席がある。通勤中のサラリーマンや、楽しそうに喋るカップルなど、いろんな人が乗っている。


 窓に目を向けると、真っ暗な窓に自分の顔が映った。

 現代のもの、外国のものに興味津々だった彼。新幹線や飛行機に乗ったら、どんな反応をするのだろう。警戒するのか、無邪気に受け入れるのか。彼の少年のように輝く瞳を思い出し、ふっと笑った。


「あー?」

 抱っこ紐の中で、娘が元気な声を出す。


「パパに会えたらいいね」

 大きな希望と、ほんの少しの不安。会えなかったら。なんて考えなかった。


 華がにっこり笑う。その笑顔が、かわいらしくて。そして、どこか彼に似ていて。


 娘の笑顔や寝顔に、彼の存在を感じた。彼に会いたくなった。6月。彼が命を落とした日に近いある日。結衣は、京都を訪れることを決めた。

 生後2か月の娘を連れた旅行は大変だろう。でもそれ以上に、彼に会いたかった。娘を彼に会わせたかった。


 彼に会えるかもしれない。その希望を胸に、京都の地を踏んだ。




「本当にここでいいんですか?」

 タクシーの運転手が怪訝そうな顔をする。

「何にもないと思うんですけど」


「大丈夫です」

 料金を支払い、タクシーを降りる。そこには、『本能寺跡』と書かれた石碑が立っていた。


「ここだね」

 現代的な住宅街の中。彼の面影を感じられるものはなくて。抱っこ紐の中で眠る娘の顔を見る。彼に似たその寝顔に、ふっと微笑む。


 この場所に、彼はいたのかもしれない。そう思うと、少しだけ心が軽くなる。


 石碑に触れれば、彼に会えるだろうか。何か変わるだろうか。そんな期待を胸に、そっと手を伸ばす。

 ひんやり冷たい石の感触。特に何も起きない。そう簡単にはいかないらしい。


 ぽつりと、彼の名前を呼んだ。もう随分、口にしていなかったその言葉は、返事をしてくれる人もいなくて。心の中の隙間に冷たい風を通す。


 彼に届いていればいいな。そう思いながら、もう一度名前を呼ぶ。


「あなた様に会える日を、心待ちにしています」

 彼の頬を撫でるように石碑を撫で、そっと手を離した。


 この1年。長かった。でも、彼に会えるかもしれないという希望を忘れたことはない。どんなにつらい時でも、彼がそばにいてくれるような感じがした。だから頑張れたのだ。


「そういえば……」


 今の本能寺は別の場所にあると言っていた。そっちにいるかもしれない。

 その場で軽く調べると、徒歩30分の文字。少し離れている。タクシーを呼んだ方がいいだろうか。


「……お散歩にちょうどいいかな」


 梅雨の最中だということを忘れそうな快晴。真っ青な空の下の散歩は、気持ちがいいだろう。

 幸い娘も寝ているし、ぐずることはないはず。ぐずったら近くで休憩するか、タクシーを呼べばいい。そう思いながら、彼女は歩き出した。


 何の変哲もない住宅街。ごく普通の、どこにでもあるような街並み。このどこかに、彼がいるとしたら。

 この風景を背景に彼が立つ姿を想像して、あまりの似合わなさにふっと笑みがこぼれる。でもその街並みのおかげで、日々の散歩と同じ感覚になれる。


 抱っこ紐を通じて伝わる、ずっしりとした重み。この2ヶ月間で、しっかり重くなった。でも、日ごろから歩いているせいか、そこまで重労働には感じない。


 住宅街の抜け、商店街を通り抜けて。


 1時間ほどは歩いただろうか。だいぶのんびり歩いていたようだ。特に急ぐ旅でもない。のんびりでいいじゃないか。


 綺麗に整備されたお寺は、まるで観光地のようで。京都の観光地として思い浮かぶ場所ではないが、やっぱり歴史が好きな人にはこういったところも名所なのだろう。


 売店のような建物に、博物館のような建物も。あまりにも、現代的で。彼がここに立つ想像が、できなかった。

 少し不安になる。彼に会えないのではないか。その不安を、慌てて振り払った。


 今日ではないかもしれない。でも、いつか必ず会える。そう思っていないと、何かが崩れてしまう。


 本堂の隣、少し離れたところに、立派な廟があった。ここが、彼のお墓。でも、遺体があるわけではない。彼が眠っているはずはない。そう思ってしまった。

 そっと手を合わせ、心の中で彼に会えることを願う。


「会えますよね?」


 頼りなく震えそうな声に答えるものはない。その代わりに、「すー」と、娘の寝息が聞こえた。


「……ふふ」


 そうだ。この子がいる。この子がいる限り、自分は大丈夫だ。




 博物館の中には、彼が大切にしていたものたちが置いてあった。そのほとんどは、当然レプリカ。でも、思い出す。


『結衣』

 名前を呼んで、得意げに見せて教えてくれた彼の存在。


『これは唐銅香炉というものだ。異国から渡ってきたと言われている』

 蛙のようだと言うと、彼は笑った。


『結衣は賢いな。これは、三つ足の蛙とも言われているのだ』

 彼の大きな手で頭を撫でられた時のことを思いだす。そのぬくもりは、確かにあったのに。


『そちによく似ている』

 蛙に似ているなんて、とても褒めているとは思えない。結衣が頬を膨らませれば、


『そう膨れるな。褒め言葉だ』

 と彼は笑った。


『次に戦に行く時は、これを持っていくか。そちの代わりになりそうだ』

 戦に行かないでほしい、とは言えなかった。それが彼の仕事だとわかっているから。


 この蛙が、自分の代わりになるのなら。彼のそばで、彼を守ってくれるなら。そう思って、あの香木を入れるように言った。




 抱っこ紐から垂れた小さな手を握る。


 大丈夫。まだ待てる。今日じゃなくても。今月、今年には会えなくても。きっと、また会えるから。


 結衣は本能寺を出て歩き出す。

 もう少しだけ、歩いていこう。また会える、その日まで。


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