29 弟と夫と
「近くに引っ越してくるなんて、聞いてないよ」
結衣が口をとがらせる。
「ごめん、ごめん。職場に通いやすいところって、ここが一番でさ」
弟がそう笑った。
あれから間もなく、彼は私立高校の社会科教師として採用試験に合格した。教員免許は大学でとっていたらしく、準備は早かった。
父を説得する前から準備をしていたらしく、その強かな姿勢はやっぱり父に似ていると思った。
そして採用が決まった数日後には、織田家の近くのアパートに引っ越してきた。
「そう考えると、やっぱこの辺りの立地って最高だよな。姉ちゃんもいいところ選んだな」
「まぁ、華の環境も考えたからね」
結衣が引っ越す時は、信長と一緒にどこがいいか考えた。2人で意見が一致したのは、華を育てやすい場所。それに合致したのが、ここだったというだけ。
「今日、信長さんは? いないの?」
「昨日から滋賀に行ってるの。仕事で」
「へぇ。滋賀で仕事してるんだ」
「会社があっちにあるの。会社の人にわがまま言ってこっちに引っ越してきたけど、何かあったらすぐに動けるようにはしてるんだよ」
責任感の強さは彼らしい。だから結衣は応援するだけ。
「それより、いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「ん? んー……まぁ、いろいろ? 連絡取ってるだけ」
弟はなぜかあいまいにごまかす。
「せっかく近くに来たんだから、叔父としての役目もちゃんと果たすつもりではいるよ。許してもらえれば、だけど」
そう言って、悠真が振り返る。リビングの隅で、こちらに背を向けて絵本をめくる華。明らかに人見知りしている。
「華、おいで」
結衣が呼べば、華は嬉しそうに振り返る。そして、わざわざ悠真を避けて遠回りをして、母の元に来た。
「叔父さんにご挨拶は?」
「んー……やー」
「やっぱそう簡単じゃないよな」
悠真は苦笑した。
「いいよ。これから通うから」
そう言いながら、手を差し出すと、
「やー」
華がそれから逃れるように母にしがみつく。叔父と姪の攻防は、しばらく続きそうだった。
「おかえりなさい」
信長が帰ってきたのは、夜遅くだった。
「うむ。帰ったぞ」
信長は、どこか満足気で。疲れた顔なんて見せなかった。
「電車、ありましたか?」
「知らん。蘭に送らせた」
「えっ。森本さん、外にいらっしゃるのですか?」
慌てて確認する。
「もう行ったであろう」
しかし、信長は興味がなさそうに返した。
「そんな……。この時間から滋賀に戻らせるのですか?」
「儂がそんな非情な人間に見えるのか?」
どうだろう。織田信長という人物は、時として非情な人間として語られる。でも、それ以外の彼の一面を、結衣は知っている。
「近くに宿を取らせた。明日には帰るであろう」
その言葉に、結衣はホッとした。
「家に泊まらせてもよかったのに……」
ふとポツリとこぼした言葉に、
「よくない。結衣と華がおるところに、男が泊まるなどと」
信長は不機嫌そうに声を尖らせる。
「部屋はありますし、大丈夫ですよ」
「儂がよくないと言っておる」
「はいはい。お風呂、沸かしますね」
信長の言葉をここまで聞き流せるのなんて、結衣くらいだろう。
「シャワーでよい。結衣も早く休め」
そう言って、結衣の頭に伸ばされた手に、結衣は絆創膏を見つけた。
「指、怪我されたのですか?」
その手を取って。人差し指の先。
「う、うむ。ちょいとな」
信長がわずかに引いたことには気づかず、
「紙で切ったのですか? 気をつけないと。綺麗に洗ってくださいね」
「うむ」
そして、結衣は寝室に入る。そばのベッドで眠る華の顔を確認して。赤ちゃんの頃から変わらないあどけない寝顔に、ふっと微笑む。
何も変わらないのに、その寝顔を見ている時は、時間が止まっているようで。
いくら眺めても飽きない、かわいらしい顔を見つめていると、
「まだ起きておったのか」
信長が寝室に入ってきた。しっとり湿った髪は、シャワーを浴びた後だとわかる。
「相変わらず、早いですね」
なんて、結衣は笑った。
「シャワーは便利だからな。湯浴みより楽だ」
ベッドに座る信長の隣に座って、髪を拭いてあげる。すると、信長は結衣の膝に倒れてくる。
それは、信長が好きな膝枕。猫のように気持ちよさそうな信長の頭を、結衣がなぞるように撫でる。
「結衣の手は気持ちが良いな」
「信長様の手も、好きですよ」
「知っておる」
もう夜も更けた。でも、まだ眠くはなくて。愛おしさで胸がいっぱいになる。
「そういえば、信長様」
「なんだ」
「結婚式の服、決めましたよ。和装か洋装か」
「うむ」
信長は結衣にその選択権をくれた。結衣が決めきれず、しばらく保留にしてもらっていた。
「少しお金はかかりますが、前撮りを和装にして、お式は洋装にしましょう。披露宴もしますし、お色直ししやすい方がいいかと」
「そうか。あいわかった」
信長は何のためらいもなくそう返事をした。
「いくらかかっても良いから、結衣のいろんな服装を見てみたいものだ。十二単など、どうだ?」
「重いと聞くので、却下です」
「そ、そうか……」
「信長様の衣冠束帯はまた見たいですけどね」
戦国時代に何度か目にしたその姿は、見惚れるほど綺麗だった。
「儂はいくらでも着るぞ。結衣が十二単を着るならな」
そんな他愛ない話をしながら、夫婦は穏やかな夜を過ごした。




