26 弟
「こーえん!」
華が言い出した。
「おそとであそぶ!」
「華……」
子どもの気分は変わりやすい。とはいえ、これから弟が来るから、家は空けられない。
「儂が連れていこう」
そこに、信長が名乗り出る。
「姉と弟での話もあるだろう。好きにするが良い」
「じゃあ、お願いします」
そして、結衣は信長と華を送り出した。
「お邪魔します」
弟が来たのは、それからしばらくしてからだった。
「迷わなかった? 駅から若干遠いから」
「大丈夫。織田って苗字、珍しいし、表札でわかった」
周りは似たような家ばかりの住宅街だが、しっかりしている弟には問題なかったようだ。
「旦那さん、いるの?」
「いる予定だったんだけどね。娘が公園に行きたいって言ったから、連れていってくれたの」
「そっか」
どこかホッとしたような声に、結衣はわかりやすいな、と笑う。
「お茶淹れるから、座ってて。しばらく帰ってこないと思うから」
「あ、うん」
ダイニングの方の椅子に座り、結衣は冷たい麦茶をいれてあげる。
「いいところに住んでるんだな」
「そうかな。夫と相談して決めたの」
保育園や小学校からの距離、近隣の公園の有無、生活圏にある店のチェックも。信長が見るところは、意外と現実的だった。
「前の家より家賃高そう」
「こっちは買ったから、家賃というよりローンかな」
「うわ、買ったのか。やば……」
なんて、ごく自然な、久しぶりに会う姉弟の会話。次第に弟の緊張が緩むのを感じるが、結衣の方からは何も言わなかった。
「この前さ、姉ちゃん、家に電話しただろ?」
「うん」
挨拶の件だろう。全く取り合ってくれなかったが。
「母さんがさ、『家を捨てたくせに』って言ってて」
「だろうね」
その言葉に、怒りも悲しみもなかった。そういうものだ、と切り離していた。
「俺、その言葉にムカついてさ」
「悠真が怒ることないじゃない。わたしのことなんだし」
「姉ちゃんだからだろ」
今も怒っているように、弟は語気を強める。
「それでさ、勢いに任せて、言っちゃったんだ」
「何を?」
「政治家になりたくないって」
「……そっか」
わかっていた。はっきりと聞いたわけではなかったが。
父や母が息子に望んでいる道と、悠真が希望する道は、違う。
「俺、高校生の時、なりたい職業あったんだよな」
「当ててもいい?」
「え、わかるの?」
「学校の先生でしょ」
「……うわ、やば」
図星だったらしい。
「悠真がわかりやすいからね」
結衣がくすくすと笑う。昔から見ていれば、それくらいはわかるものだ。
「そこまでは言ってないんだけど、政治家になりたくないってだけで、めっちゃ怒ってた」
「だろうね」
父と母の反応なんて、手に取るようにわかる。姉弟に長年向けられてきたものだから。
「悠真は、どうしたいの?」
結衣は静かに聞いた。弟の答えを待つように。
「……わかんねぇよ」
弟は、ぽつりとつぶやいた。
その時、
「ママぁ!」
玄関で声が聞こえた。
「華?」
帰りが早すぎる。何かあったのだろうか。驚いて玄関に行くと、
「おかえり、華。信長様もおかえりなさい」
「うむ」
「早かったですね」
「華が帰りたいと言ったからな」
いつもは疲れ果てて眠るまで遊んでくるのに。何かあったのだろうか、と額に手を当ててみる。熱があるわけではなさそうだ。その他観察しても、具合が悪そうな様子はない。
「おにんぎょさん!」
家のおもちゃで遊びたかっただけか。
「華、おてて洗ってからだよ」
さっそくリビングに走っていく華を、
「華」
と信長が抱き上げる。
「やー!」
「暴れるな。手を洗うだけだ」
これなら大丈夫、と結衣はリビングに戻る。驚いた様子の弟に、
「ごめん、帰ってきちゃったみたい。あとで挨拶させるね」
「いや、大丈夫。ってか、俺いてもいい? 旦那さんとか嫌がらない?」
「大丈夫だよ。華が人見知りするかも、ってくらいかな」
そんなことを話していると、華の声が近づいてくる。
「おにんぎょさんがねぇ」
そう言いながらリビングに入ってきた華は、悠真を見てふと固まった。
「……」
しばし、時間が止まる。家の中に知らない人がいる、という状況を飲み込むように。
そして、状況を理解すると、
「ふぇえ……っ」
一気に目に涙を溜めた。
「泣かずともよかろう」
信長が後ろから抱き上げる。華は父の腕の中に隠れるように小さくなって。
「びっくりしただけだよね、華。大丈夫、大丈夫」
結衣も笑いながら落ち着かせる。
「ごめんね、悠真。人見知りしやすい子なの」
「いや……。こっちこそごめん。急に知らない人いたらビビるよな」
そうして、悠真の視線は、信長へ向けられる。
現代の成人男性ほどの身長はないものの、その威圧感は昔から変わらない。きっと弟も圧倒されているはずだ。
「悠真、紹介するね」
だから、結衣はできるだけ明るく言った。
「夫の信長様です」
「……ん?」
悠真が反応した。
「え……っと……」
「驚くのはわかるけど、正真正銘、織田信長様だよ」
「……偽名?」
「本名だよ」
「信長役とか」
「本人だよ」
しばらく理解に時間がかかる弟に、結衣はひとつひとつ、丁寧に返していく。
「姉ちゃん、騙されてない?」
「どうだろうね」
これには、冗談っぽく笑ってみせて。
「なぜ儂が結衣を騙さねばならんのだ」
「過去の人が現代にいるって、それくらい不思議なことですよ。信長様だって、わたしが令和から来たって言って信じなかったでしょう?」
「儂は信じたぞ。結衣が嘘を吐くとは思っておらんかったからな」
それは、3年間、結衣が黙っていたからだろう。3年分の関係があるから、信じられたに違いない。
「なんかわかんないけど……」
悠真がやや理解に苦しみながらも言葉を紡ぎ出す。
「姉がお世話になってます。弟の悠真です。よろしくお願いします」
社会人らしい丁寧な挨拶。
「うむ。よろしく頼む」
信長もそれに答えて。
「きょうだいの話を邪魔してすまなかった。結衣、華にお菓子を与えても良いか?」
「そうですね。信長様もよかったら、一緒に話聞きますか?」
「うむ」
泣き止んだものの機嫌が悪い華をお菓子で落ち着かせて、信長は華を抱いたまま椅子に座る。
「して、何の話だ」
「……織田信長に進路相談って、なんか変な感じなんだけど」
「いつか慣れるよ」
戸惑う弟に、結衣は笑った。
「簡単に言うと、弟の進路に父が反対してるって話です」
結衣のざっくりとした説明に、
「家業は父から子へ受け継がれるものだ。父がそうせよと言うのなら、息子は継ぐべきだろう」
信長が当然のように答える。
「信長様の時代だと、そうかもしれませんね」
「令和は違うのか?」
家督相続とかいう時代だ。きっと、信長には理解できない感性に違いない。
「今の世の中では、進みたい道に進めるはずなんです。でも、父から子へって考えの人もいます。父と母がそのタイプで」
「そなたは、家督を継ぎたくはないのか?」
「あ、はい」
信長に聞かれた悠真が、緊張しながら返事をした。
「家督……って言えるほどのものじゃないし、二世政治家なんて、親の七光りとしか見られないじゃないですか。俺は、俺自身を見てくれるところがいいんです」
親の背中を見て、育ってきた。でも、親のようになりたいわけじゃない。それが、複雑な子ども心というもの。
「よくわからんな。儂は、父から家督を継いだ身だ」
なんとか理解しようとするも、信長には理解できないもの。それでも、悠真の考えを否定しなかった。
「信長様」
だから、結衣は、語った。
「たとえば、華が大きくなった時、信長様は華に今の会社を継いでほしいって思いますか?」
「華は女だ。家督を継ぐのは、婿になる者だろう」
「その場合、華は必然的に『社長の妻』という立場になりますよね。その立場を、華が望まないって言ったら、どうしますか?」
「……華が嫌がることは、させたくないな」
現代にきて数年。信長の思考は、現代のものにアップデートされていく。この時代になじんでいく信長の姿が、結衣は大好きだ。
「わたしも同じです」
結衣は笑った。
「華が望まない道は、きっと華を苦しめる。そう思うから。華には、自由でいてほしいんです」
「わかる気がする」
信長もそれに同意した。
「では、悠真は家督を継ぎたくないのだな」
「まぁ、そうですね。家督とかそんな大層なものじゃないですけど。俺は、俺の道を歩きたい。色眼鏡で見てほしくないんです」
「あいわかった」
そして、信長は頷いた。
「ならば、儂がそなたらの親御に言ってやろう。子の進む道は強制すべきではないとな」
また話が変わってきた。驚いた結衣は、
「信長様、落ち着いてください」
となだめる。
「うちの両親は、そんな言葉が通じるほど簡単な人たちじゃないんです。信長様が嫌な思いをするだけに決まっています」
結衣の両親のことで、彼をわずらわせたくはない。それが結衣の気持ちだった。
「では、どうするのだ?」
信長が首をかしげる。
「このままでは、何にもならんぞ。悠真が嫌な思いをするのではないか?」
彼の疑問はもっともだ。そして信長は、それを結衣がよしとしないことも、知っている。
「……わかりました」
だから、結衣は覚悟した。
「わたしが両親を説得します。悠真も、それでいい?」
「え、でも……。姉ちゃん、大丈夫?」
「勘当されてるわけじゃないし、話くらいは聞いてくれるんじゃないかな。これで縁を切るってことになるなら、わたしは困らないし」
話を聞いてくれる、なんて。そんな親じゃないのに。
でも、弟を苦しめるなんて、そんなことを許していいわけがない。
華の親である結衣だからこそ、結衣と悠真の親である両親に言える言葉がある。そう思った。




