24 前準備
「おやすみ」
すっかり眠った娘にそっと声をかけ、結衣は寝室を出る。
窓から差し込む力強い日差しにややうんざりしながら、リビングに戻ると、信長はリビングで雑誌を開いていた。
すぐに結衣に気づき、
「華は寝たのか?」
と聞いてくる。
「はい。遊びたかったって言ってましたけど」
「うむ。子の元気がいいのは良いことだ」
「そうですね」
キッチンでお茶を2人分淹れ、信長のもとに持っていく。
「また見ていらっしゃるのですか?」
信長が見ている雑誌は、いわゆる結婚情報誌。結婚式を挙げることが決まってからだろうか。いろんな雑誌を集めている。
「うむ。先人たちの知恵は確かなものだからな」
彼もまた、そんな先人のうちのひとりだろうに。現代において、彼はきっと結衣よりも何も知らない人で。だからこそ、現代の知識を余すことなく取り入れようとしている。
「結衣、令和の世でも、やはり産みの親への挨拶をするものなのだろうか」
あ、と思った。一般的に、という答えを信長は求めている。でも、きっと信長はそれを順守しようとするだろう。
「そうと決まっているわけではありませんよ」
だから結衣は、嘘を吐いた。
「する人もいる、というだけです」
実際、家族との仲が悪く挨拶をしないという人も、いることにはいるだろう。だから、完全な嘘ではない。そう言い聞かせて。
「……結衣は、嘘が下手だな」
信長の顔は、悲しそうに笑っていた。彼の手が、すっと結衣の頬に伸びてくる。
「……信長様が、お上手なだけです」
結衣の感情を読み取るのに長けた人は、きっと彼以外いない。人の感情に敏感なのは、上に立つ者としての技術なのだろうか。
信長の手を取り、頬を寄せる。温もりが、心地よくて。この温もりを、手放したくなかった。
「結婚式をするのであろう?」
「はい」
「では、その前に、結衣の親御にも挨拶をしておきたい」
「必要ありません」
結衣の言葉に、迷いはなかった。信長の言葉を予想していたから。
「それが礼儀というものであろう」
「うちは大丈夫なんです」
あんな両親に、彼を会わせたくはなかった。
「大丈夫ではない。親に許しを得ずして、娘を娶ることなどできぬ」
彼らしい頑なな態度に、結衣は苦笑する。
「信長様、わたしの家は、そんなに堅苦しいものじゃないんです。式に招待する予定もありませんし、挨拶なんて必要ないんですよ」
「それでも」
信長の手に、力が入った。
「儂は、挨拶をせねば気が済まん」
これが、彼らしいということか。
「じゃあ話しますけど」
これ以上嘘は吐けない。だから、本当のことを伝えてみることにした。
「いま連絡を取っても、たぶん迷惑がられると思います」
「なぜだ? 娘の結婚は喜ばしいものだろう。迷惑などと」
「そういう家なんです。なんていうか……ちょっと事情がありまして」
彼の時代からすれば、娘の結婚を喜ばない家の方が珍しいのだろうか。
「父も母も、普通じゃないんです。わたしが家を出た時から、あの人たちにとって、わたしは家族ではありませんから。信長様や華を、傷つけたくないんです」
信長の手を、強く握って。この手の温もりと、離れたくなくて。
「儂は傷つかん。華が傷つかんように守るのも儂の役目だ」
彼の言葉は、相変わらず力強くて。甘えてしまいたくなるのを、ぐっとこらえる。
「そなたが儂と生きることも決めたのなら、儂は、そのすべてを引き受ける気だ」
結衣が選択したこと。それを、信長は尊重してくれる。
「電話でもいい。それで拒まれたら、その時にまた考える」
これ以上拒めば、自分が電話する、とまで言いそうだと思った。
「……わかりました。一応、電話だけしてみます」
どうせ断られる。目の前で断られるところを見れば、彼も納得してくれるだろう。
信長の手を離して立ち上がり、スマホを持つ。一応登録してある、実家の番号。
この番号に電話をかけるのは、妊娠がわかった時以来だった。
『はい』
母の声。
「もしもし。結衣です」
結衣の声が答える。
『……何か用かしら』
母の声は、冷たかった。
「彼が、実家に挨拶に行きたいと」
『必要ないわ』
用件だけ手短に伝えるつもりだった。でも母は、結衣の言葉を聞く気もないと、簡単に遮ってしまう。
『ご近所に見られでもしたらどうするの。お父さんも悠真も、大事な時期なのよ』
母が見ているのは、父と弟だけ。彼女が大切にする家族というものの中に、結衣はもういない。
「そうだと思ってました」
ふっと笑った口元が、少しだけ震えていた。
「その言葉が聞けてよかったです。失礼します」
やっぱり、母はこういう人間だ。それが確認できてよかった。
電話を切った結衣に、
「結衣」
と信長が声をかける。
「やっぱり、ダメでした」
振り返った結衣が、笑う。そんな彼女を、信長が抱き寄せた。
「すまなかった」
信長の声が、頭上から落ちてくる。
「そなたがそのような顔をするなら、無理強いするべきではなかった」
「……話せてよかったです。元気そう、ということだけはわかりましたから」
結衣が戦国時代に行っている間も、華を妊娠してからも、実家からの連絡はなかった。本当に他人と思われているのだと思う。
「儂が直接行って話しても良いが、結衣は嫌か?」
確認してくれる彼の言葉に、結衣は小さく頷いた。
「嫌です」
「なぜだ?」
ちゃんと理由を示さないと、彼は納得しない。
「先ほども言ったではありませんか。電話でも、直接話しても、何も変わらないんです。信長様が嫌な気持ちになるだけです。だから、わざわざ時間をかけて信長様が出向く必要はありません」
信長の手が、結衣の頭を撫でる。
「儂には、わかる」
わずかな静寂の後、信長がそっとつぶやいた。
「そなたは、家族を大切にしておるだろう」
「……」
その言葉に、何も言えなかった。
「そなたが大切にしておるものは、儂も大切にしたいと思って居る。結衣の親御も、儂にとっては家族だ。儂が間に入ることで、結衣が」
「信長様」
その言葉を、遮って。
「今のわたしの家族は、信長様と華です」
それは、本音を押し隠す言葉だったのだろうか。
「普通の家族に憧れていました。信長様は、その夢を叶えてくれた。信長様と華がいれば、わたしの家族は充分です」
その言葉に、信長は黙った。しんと静まり返るリビング。結衣は彼の言葉を待った。
「わかった」
この間に、信長は何を考えたのだろう。結衣にはわからない。彼のように、人の感情を読み取ることなんて、できないから。
「結衣がそう言うなら、儂はもう何も言わん。……だが、いつでも行く覚悟はある。そなたが望むことがあったら、言ってくれ」
「ありがとうございます」
わかってくれたことにお礼を言って。
結衣は、信長の腕の中でふっと微笑んだ。
彼がいてくれればいい。その気持ちに、嘘はない。
でも、やっぱり実家が気がかりで。実家に残してきた弟の存在が、頭の中をよぎった。




