2 発覚
妊娠が発覚したのは、まだ就活中のことだった。最初に浮かんだ気持ちは、『産みたい』。
お腹の中に生きるこの子こそ、彼がいた証だと思った。
結衣が行方不明だった3年間は、空白のまま。誰にも言えず、タイムスリップが本当だったかもわからない。それでも、確信していた。この子は、彼の子だ、と。
この子を産むために。結衣はさっそく動き出した。
『はぁ? 妊娠?』
まず、実家に連絡した。
『あんた、結婚もしてないのに……』
母は呆れた声で。初めての妊娠で不安な娘の気持ちなんて、察してくれるはずがなかった。
『お父さんが、ご近所に知られたくないから帰ってくるなって』
頼れる人はいない。すぐにそう察した。
元々、家を出ることさえも否定的だった両親。一生懸命アルバイトして引っ越し資金を自分で用意したことで、両親が折れる形で上京が決まった。
それ以上を求めることなんて、できなかった。
「大丈夫。ママが守ってあげるからね」
お腹の中で育つ小さな命にそう語りかけ、結衣は決心する。それは、母として覚悟を決めた顔だった。
出産に関する給付金もあるし、貯蓄もなんとかなる。切り詰めていけば、やっていける。そう信じた。
いろんな自治体を調べ、どこが子どもを産みやすいかを考えた。
正直なことを言えば、彼を感じられる地域がよかった。あの時代とは何もかも違うだろうが、3年間を過ごしたあの地で。しかし、そこに引っ越すにはあまりにも非現実的で。
将来の目標ということにして、それは諦めた。
そういえば、と思い出した。
「あの事件って、いつだっけ」
彼が命を落とすことになる、日本史の中でも指折りの大事件。あれだけの事件なら、詳しく記されている本もあるのではないか。
今まで、彼のことは考えないようにしていた。夢か現実かさえもわからない彼の面影を追うのが、悲しかった。
しかし、子どもの存在は、彼女の心を支えてくれた。ひとつ、整理ができたのかもしれない。
「6月2日……」
それは、結衣がこの地に戻った日から約1年後の日付だった。
「怨恨……黒幕……。すごい」
彼を取り巻く環境は、やっぱり壮絶で。彼の死には、たくさんの謎が隠されているらしくて。その中で、結衣は見つけてしまった。
「あの人が、生きてた……?」
彼が、この事件で死んでいなかったかもしれないという説。それは、あまりにも夢のようで。
もし彼が、この日にタイムスリップしていたら? そこに実体がないのだから、遺体が見つからなかったという説明もできる。
「……どうしようか」
お腹に手を当て、口から流れ出た言葉は、どこか明るく弾んでいた。この子と、彼に会える未来があるかもしれない。
「あなたのパパに、会えるかな」
それは、彼女の希望になった。
つわりはつらかった。でも、乗り越えられた。彼を身近に感じたくて。彼の存在を感じていたくて。気づけば、あの見慣れた家紋が家中いたるところに飾られていた。
傍から見たらとんでもない歴女だな、なんて笑う。誰に言えなくても。この子にさえも、言えなくても。自分だけは、彼を知っている。彼の声。温もり。大きな手も、背中も。だから、生きていける。
昔の友人に連絡を取ってみた。たまたまつながっていたSNSで、妊娠したという投稿を見つけたから。
「やっほ~!」
彼女は、昔と変わらず笑っていて。
「久しぶりだね」
だから、結衣も笑った。
「まさか結衣も妊娠してるなんて思わなかったよ」
「こっちこそ。結婚してたんだね」
「2年前にね」
そんな他愛ない話を楽しんで。でも、結衣の目的は決まっていた。
「沙耶って、歴史得意だったよね」
「学生の時はね。もう忘れたよ」
彼女は、ケラケラ笑った。それもそうか。学生時代の勉強なんて、結衣もほとんど忘れているくらいだ。
「なに? 結衣は歴女になったの?」
「あ、いや、ちが……くなくはないけど……」
違う、と否定しようとして、なんとなく曖昧にした。この場合、歴女ということにした方が楽ではないか。
「なになに。誰が好きなん?」
まるで恋人の話でもするかのように、彼女は楽しそうに聞いて来た。
「……武将なんだけど」
ぼそっと呟いた言葉に、友人は「あー」と納得したように声を漏らす。
「ドラマやってたね」
結衣がここにいない3年間で戦国時代もののドラマがやっていたのか、彼女は案外すんなり受け入れた。
「武将って、どこにいると思う?」
「え、いないよ? 死んでるよ?」
当然のように答えられて、あ、しまったと思った。聞き方を間違ったようだ。
「いや、そうなんだけど……」
どう聞けばいいのだろう。彼の存在が感じられるところへ。
「あ、お墓ってこと?」
「そ、そうそう」
彼女が適当に勘違いしてくれたおかげで、結衣は話を合わせておく。
「いろんなところにあるんだよね。遺体が見つかってないらしくて。一番有名なのは、本能寺かな」
「本能寺の変のとこだよね」
それは知っている。ちょうど調べていた時にも出てきた。
「そうそう。あ、でも、昔と位置は変わってるらしいけど」
「え、そうなの?」
それは知らなかった。
「意外だね」
「え、何が?」
友人の目が優しく細められ、結衣はきょとんと首を傾げた。
「結衣が歴女になるなんて、思わなかった。歴史苦手だったじゃん」
「まぁ……いろいろあって。素敵な人だなって思っただけだよ」
「わからなくはない」
真面目な顔でそう言って、明るく笑った。
「歴史名所めぐりなら、一緒に行こうよ」
「うん、ぜひ」
彼のことを語れる人を見つけた。勇気を出して声をかけてみてよかった。
「お隣いいですか?」
それは、母親学級でのことだった。
「何か月ですか?」
隣に座った母親は、明るく元気な人で。
「8ヶ月です」
「あら、一緒」
ふわりと笑った笑顔は、優しかった。
「佐伯直です」
「あ、真柴結衣です。よろしくお願いします」
お互いに自己紹介を交わし、隣の席で講習を受ける。
「よかったらこの後、お茶いきませんか?」
親しみやすい人だと思った。ママ友は初めてだ。
結衣は女の子を出産した。辛い陣痛の中、彼女の視界には、確かに彼がいた。手を握り、励ましてくれる彼のおかげだった。




