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19 覚悟


 華がひとりで絵本を開く。結衣に背中を向けて。少し寂しそうな、元気のない背中。


 ページをめくる音が、静かな部屋に響く。文字を読んでいるのか、それとも絵だけを見ているのか。


 最近の元気のなさからだと、絵本を読んでいるように見せて実は気を紛らわせるためだったりする。


 小さなため息の音が聞こえてきそうで。胸が締め付けられるように感じながら、 結衣はそばの椅子から見守っていた。


 華の保育園バッグから取り出して以降、何度も見た連絡帳を開く。


『お友達がパパの話をしているのを聞いて、寂しくなってしまったようでした』

 保育士に抱っこをねだって落ち着かせてもらったらしい。パパだけど、パパじゃない。それが華を苦しめている。そうわかった。


 華は、なぜか信長を「パパ」だとわかっている。それはきっと、説明できない子どもの直感みたいなものだろう。


 反対に、岡崎のことは「おじちゃん」と呼んでいる。でも一時期は父親だと信じていたようで、一緒に遊んで笑い合うくらいに懐いていた。


 どちらが華にとって幸せだろう。華を幸せにしてくれるのは、どちらだろう。


「華」

 そっと呼ぶと、華は振り返った。その目は、まだ不安そうに揺れている。


「おいで」

 手を差し出すと、華は絵本を置いて、とととっと駆け寄ってきた。


 結衣が抱き上げて、膝に座らせる。すると、 小さな手で引き留めるみたいに、きゅっと結衣の服を掴む。少しだけ力がこもっているように見えた。


 どこにもいかないのに。華をひとりになんて、しないのに。


「ねぇ、華」

 腕の中で縮こまる華に、優しく呼びかける。


「パパに会いたい?」

 残酷だ。まだ指を吸っているような小さな子に、決定権を委ねようとするなんて。


 それでも、聞きたかった。華の気持ちを。


「……」


 華が少し顔を下げる。結衣の胸に押し当てるように、何度か動かして。


「……あのねぇ」

 そして、ぽつりとつぶやいた。


「おともだち、みんな、パパいるの」

 3歳になって気づいた、自分と他の子との違い。


「ちぃちゃんはね、パパがおむかえくるの」

 自分にはいない存在。遠い存在が、仲のいい友達にはいる。その差が、ひどく大きなものに見えて。


「なんで、はなだけ、パパいないの?」


 少し前、華に聞かれた。『パパはどんな人?』と。


 答えられる範囲で答えた。その時はわかったようなわからないような顔をして、でも納得したようにしばらく聞かなくなった。


「パパ、はながきらいなのかなぁ」

 その言葉に、ぎゅっと胸が押しつぶされる。


 なんでこんな小さな子に、そんな思いをさせてしまったんだろう。


 「父親の分まで」と愛情を注いできたはずなのに、足りなかったのか。


 父親がいない、という事実だけで、こんなにも娘を傷つけていたなんて。


 自分の選択が、華にこんな言葉を言わせてしまった。


 わかっている。結衣がどれだけ「父親の分まで」と思ったところで、子どもには関係ない。母親は母親、父親に代わりにはなれないのだ。


 目がじわりと熱くなるのを感じながら、かろうじて笑顔を作る。

「違うよ」

 せめて、娘の心が少しでも癒せるように。


「ママもパパも、華が大好きだよ」

 何の確証もない言葉。それでも、娘のために。


 その言葉を受けて、華がぽろっと涙をこぼす。


「ごめんね」

 謝ることしかできない。もう迷っている暇はなかった。




 決断の時が迫る。

 華を寝かしつけた後、結衣はリビングで正座していた。


 目の前には、あの家紋付きのタペストリー。これを外す時、結衣は過去と決別しなければいけない。

 お気に入りだった。ひとりぼっちで押しつぶされそうな時、これに支えられた。


 結衣の笑顔も、涙も、華が生まれた時も。この家紋が、見守ってくれた。


 お別れできるのだろうか。


 きっと、前よりはちゃんと別れられるだろう。なにしろ、別れの言葉を伝えられるのだから。

 ちゃんと「さようなら」を言えるのだから。


 その言葉を言えない別れを経験しているから、あれ以上の喪失感はないと思える。


「……いや、だなぁ……」


 それでも、心の中にあるのは、そんな言葉で。


 ここは現代。令和の時代。戦国時代のように、いつか死ぬかもしれない、なんて不安もなければ、戦に送り出す不安もない。


 それでも、武将の嫁という言葉は、重すぎて。


 こういうことなら、戦国時代でママ友ならぬ武将の妻同盟でも作っていればよかった。彼女たちの話を少しでも聞いていれば、安心して決断できたのかもしれない。


 信長に大切にされ、城から出ることさえもなかった結衣にとって、武将の妻というのは遠い存在だった。


 もし信長を選ぶなら、覚悟しなければならない。


 この時代に、彼が突然死ぬ、なんてことはないだろう。


 でも、いつか消えてしまうかもしれない。


 その時、結衣は生きていかなければいけない。たった一人で、華の人生を支えなければならない。


「……それは、怖いよ」


 たった一人で、ひとりの人間の人生を支える、なんていうのは、絶対に簡単なことじゃない。


 そう考えると、やっぱり安心できるのは岡崎の方で。


 安定した立場を持つ彼となら、安心してこの先一緒に歩むことができる。


 華の卒園式、入学式、小学校を経て、中学、高校と進んで、いつか家を出て自立していく時。そして、その先まで。


 岡崎となら、安心して進めるだろう。だって、彼は消える心配がないのだから。


 それでも、心に引っかかる、何か。


 もし自分が死んでしまった時、華はどうなるのだろう。その前に、もしくは華と2人きりになった時に、信長が消えてしまったら?


 華は、頼れる人を失ってしまう。そんな思いはさせたくない。


「……あ」

 声が漏れた。


 そうだ。結衣だって、いつ華のもとから去るか、わからないではないか。


 そりゃあ華をひとりにするつもりなんてない。華が自立してもういいよと手を離れる時まで、ずっとそばにいたいと思っている。


 でも、人は、いつか死ぬ。それが今日か、数日後か、数年後か、わからない。


 たとえば、突然病気で倒れるかもしれないし、事故に巻き込まれるかもしれない。

 死は、待ってくれない。どんなに嫌だと願っても、ある日突然やってくるもの。


「じゃあ、一緒だね」

 ふっ、と笑った。


 信長も、岡崎も、いつかいなくなるかもしれない恐怖は、変わらないもの。


 結衣がいなくなった時、華を支えられるのは、どちらだろう。結衣が華を任せたいと思えるのは、どちらだろう。


 同時に、彼がいなくなった時、結衣が後悔しないのはどちらだろう。一生懸命生きた、と思えるのは、どちらだろう。


 ようやく、スマホを手に取る。

 すっとメッセージを打ち込んで。


『明日、会えませんか?』

 最後に、トン、と送信ボタンを押した。




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