18 過去の痛み
その日、結衣は仕事を休んだ。
数日前に信長から連絡が来たから。『会いに行く』という言葉だけ。
覚悟を決めた。だから、華は保育園に預けた。誰にも邪魔されたくなかった。
信長はひとりで結衣の家にやってきた。森本の案内もなく。
この現代社会に織田信長がなじむという、奇妙な違和感を覚える。それさえも、どこか遠い感覚で。
「お待ちしていました」
「うむ」
信長は神妙な面持ちだった。華がいないことに、少しだけ残念そうにしながら。
それでも何も言わず、信長は椅子に座った。そんな彼の前に、結衣は緑茶を置いて。そして、向かいの席に座った。
「お聞きしたいことがあります」
前置きもせず、さっそく本題に入る。
「信長様のこの4年間のお話を、聞きたいです」
その瞬間、信長の顔がわずかに歪んだ。
それは、不快か、それとも恐怖か。まるで、思い出したくない記憶を思い出すかのように。
「……結衣に話すものでもない」
「それでも、わたしが聞きたいのです」
信長の退路を断つように。結衣は真っ直ぐ彼を見た。
「では」
信長が、そっと手を伸ばす。
「儂の手を、握ってくれ」
どういう意味だろう。そう思いながら、結衣は彼の手を取る。わずかに震えていた。
「あの日のこと、儂はずっと後悔しておった」
そして、信長は語り出した。
「結衣に、出自を聞いた。どこから来たのかと」
「はい。未来から、と答えました」
戦国時代で過ごした最後の夜。暗闇の中、身を寄せあって、そんな話をした。
3年間、信長が一度も聞かなかったこと。気になっていただろうに。
ようやく来た、と結衣は隠さずに話した記憶がある。
「結衣がいなくなったのは、そのせいだと思った」
「……!」
信長が手を繋ぐことを求めた理由がわかった。
「時の理に触れたせいだと」
これから聞くのは、信長の過去。それもまた、時の理に触れるもの。
こわいのだ。また離れ離れになってしまうことが。
信長の不安が伝わって、彼の手を握る結衣の手にも力がこもる。
「聞かなければよかったと思った。出自など、どうでもよい。知らずともよいことだ」
「……はい」
突然離れ離れになったのは、彼も同じ。そして、彼もまた、不安になったのだろう。
「それから一度たりとも、結衣を忘れたことはない。本能寺で死を実感した時、ようやく結衣に会えると思ったくらいだ」
死が目の前に迫った時、彼はそんなことを考えていたのか。
「……だが、会えなかった」
信長の声に悲しみが混ざる。
「寺で目が覚め、蘭がここは本能寺だと言った。そして、今は令和だと」
結衣が、信長に伝えた言葉。『わたしは未来から、令和の時代から来た人間です』と。その言葉を、信長は覚えていたのだ。
「結衣を探したかった。だが、令和という言葉以外、手がかりはない。蘭に聞いても、結衣という名前だけでは探せないと言われた」
信長が現代に来てから出会った森本が、ずっとそばにいてくれたから。信長は、現実を受け止めることができたのだろう。
「……探したのですか?」
「当たり前であろう。結衣が消えた時から、探さなかったことはない。安土でも、本能寺でも。戦国の世でも、令和の世でも、ずっと探しておったわ」
信長の言葉で「探していた」と聞けた。それが、嬉しかった。
「だから、会社を立てた。会社が有名になれば、結衣が気づいてくれると思ったからだ」
「……遠回り、ですね」
「急がば回れと言うであろう。多少遠回りであった方が、結衣に早く会えると思ったのだ」
離れていた4年間。お互いに、お互いのことを思っていた。
いや、信長は、きっと結衣以上に、結衣のことを考えていたに違いない。
なぜなら、結衣には華がいたから。華が、信長への想いを、寂しい気持ちを、和らげてくれることもあったから。
結衣が華の世話に追われて寂しさを紛らわしている時も、信長は誰に癒されるでもなく、ただ結衣と会うために探し続けた。
それを思うと、心が苦しくなった。
「結衣」
信長の声に、ハッとする。視界が歪んでいた。その原因を、拭うことはできなかった。信長とつながっていたから。
「そなたは、儂とおると、よく泣くな」
歪んだ視界の先で、信長が寂しそうに笑っていた。
「考えたのだ」
信長が、そっと続ける。
「儂がおることで、結衣が泣くのなら、結衣が苦しい思いもするのなら、儂は戦国に帰ってもよいと思う」
「……っ」
嫌だ、と叫びそうになった。それでも、空いていた手で口を押さえ、かろうじて声を殺す。
「そう、思いたいのだがな」
信長の声が、やや歪んだ。
「結衣のそばにいたいと思ってしまう。結衣のそばで、華を見守っていたいと。儂のわがままだ」
わがままなんかじゃない。それは、わがままじゃないと、伝えたかった。
「……っ」
それでも、口から出るのは、声にならない息だけ。
「結衣、これだけは覚えておけ」
結衣の手を握る信長の手に、力がこもる。
「儂は、戦国には帰らん。だが、結衣のそばから消えることはできる」
思わず、ひゅっと喉が鳴った。
「儂がおらぬことで結衣と華が笑って暮らせるのなら、儂はこの先ずっと安土から出ないと約束する」
嫌だ。嫌だ。心の中で、感情が暴れ出す。
「……いや、です……っ」
ようやく、言葉になった。
「結衣」
「わたしだって、信長様と一緒にいたいです!」
暴れ出した感情は、止めようがなくて。
「でも……っ、怖い……っ!」
呼吸が浅くなる。肩が上下する。 涙とともに流れ出す感情たちを、一気に吐き出す。
「あなた様が……いつか、いなくなってしまうのではないかと……っ。消えてしまうのではないかと、怖いのです……!」
過去の偉人と、現代を生きる平凡な人間。交わるはずのなかった2人の未来は、あまりにも不確定だった。
「儂はここにおる」
「わたしだって、戦国に生きていました!」
信長の言葉を否定するつもりはないのに。勢いに任せた声は、強すぎて。
「でも、勝手に現代に戻された! またいつそれが起きるか、わからないではありませんか!」
時の流れが、信長を奪ってしまう時が、来るかもしれない。
別れの言葉さえ言えないあの瞬間、あの喪失感を、忘れることはできない。もしもう一度あれを経験したら。そう思うだけで、心の底から怖くなる。
「結衣」
その瞬間、信長がぐいっと結衣の手を引いた。信長の腕の中に包まれ、結衣はまた涙をあふれさせる。
「写真を撮ろう」
「……なんで……」
「結衣が戦国におった記録は残っておった。現代には、写真という便利なものがあるではないか。それで残しておこう。いつ離れてもいいように。また離れた時に、寂しくならないように」
信長が、現代に生きていた証を。ともに生きた証を。写真として、残しておこう。信長はそう言った。
「……いなくならないって、言ってください」
結衣は泣きながらそう言った。
「確証のないものは言えん」
「それでも!」
彼の言葉を遮って。
「……言ってください」
必死に、言葉を紡いで。
「それだけで、生きていけます……っ」
ほしいのは、約束だった。
「儂は、どこにもいかん」
結衣を抱きしめる力は、強くて。
「そなたがいろと言った場所に、いる」
それは、きっと結衣のそばではなくても、という意味だ。
この先を決められるのは、結衣だけだった。




