16 相談
「おかえりなさーい!」
仕事帰り、保育園に迎えに行くと、いつものように元気な保育士の声に迎えられた。
「華ちゃん、準備してるので少し待っててくださいね」
「はい」
華を待つ間、
「あ、真柴さん」
華の担任が駆け寄ってきた。
「ちょっとお時間ありますか?」
「はい、大丈夫です」
そう言って、保育士は一枚の絵を出してくる。それは、人の顔がぐちゃぐちゃに塗りつぶされた絵だった。
「……もしかして、華が?」
「はい……。すみません。私が邪魔をしてしまったみたいで」
そして、保育士はその時の状況を少し教えてくれた。
クレヨンでお絵かきに勤しむ華に、保育士が歩み寄る。
「華ちゃん、またお絵かきしてるの?」
その瞬間、華は絵を覆うようにばっと体で隠した。
「あ、見ちゃダメだった? ごめんね。先生、離れておくね」
保育士が距離を置くと、華はまたクレヨンを持つ。すると、他の子たちが華に駆け寄った。
「あ! あたしもおえかきするー!」
「はなちゃん、くれよん、かして!」
同い年の子たちの前で、華は絵を隠さなかった。でも、そのうちのひとりが、
「それ、はなちゃんのパパ?」
そう聞いた途端、華は持っていた赤いクレヨンで塗りつぶした。
「パパじゃないもん」
「華ちゃん、どうしたの?」
それを見て、保育士が止めに入る。
「パパじゃないの!」
赤いクレヨンを強く握りしめたまま、華はぽろぽろと涙をこぼした。
「……そうですか」
一連の話を聞いた結衣は、なんとなく、この絵が信長を描いているのだろうとわかった。
華は混乱している。2人を同時にパパだよと紹介されたようなもの。
直感的に信長が父親だと認識したものの、それを結論付ける理由は説明できなくて。さらに結衣からの説明もなくて。
それに、もう1人の候補は、信長に会う前に父親代わりにして慕っていた人。父親だと思っていた人が父親ではなくて、でももう1人も父親ではないかもしれなくて。
混乱しても仕方がない状況だと、ようやくわかった。
「ご家庭の事情もあると思いますし、一度、ゆっくりお話を聞いてあげてください。華ちゃん、きっと思ってることがいっぱいあるんだと思います」
「わかりました」
結衣だって、苦しい。でもそれは、華の苦しみに比べれば、なんてことはない。
早く答えを出さなければ。焦る気持ちは、どうしようもなかった。
「はなちゃん、あそぼー!」
その日、結衣は華を連れて佐伯家を訪れた。
「ひーくん、はーくん」
華もようやく佐伯家の兄弟のことを覚えたようで、2人に手を引かれておもちゃの中に入っていく。
「はると、ひなた、女の子は優しく触らなきゃダメだからね」
「はーい!」
直が息子たちに注意をし、
「さ、入って、入って。今日は旦那いないから、遠慮しないでね」
と結衣を招き入れる。
いつも遠慮しているわけではない。結衣が直と話している時は、ちゃんと子どもたちを見ていてくれるから。
でも、やっぱりそう言われると、少しだけ安心する。
「珍しいじゃん。結衣ちゃんの方から、会いたいって言ってくれるなんて」
「……少し、話を聞いてほしくて」
結衣の表情は暗かった。
華が見ているところでは極力出さないようにしているものの、最近の結衣は悩みすぎてどうしようもできなくなっていた。
「どうしたの?」
かわいらしいティーカップに入れられた、透き通るような鮮やかな色。ハーブティーの匂いが優しく香る。
「華の父親に、会ったんです」
「えっ」
直が小さな声をあげた。
「あぁ……、いや、大丈夫。続けて」
結衣がまともに話したことはなかったため、死んでいるかもう会えない人だと思っていたのだろう。
「4年ぶりなんです。華を妊娠したことも、話せなくて。久しぶりに彼に会って……」
「4年も、連絡もできなかったってこと?」
「はい」
「うっわ。ないわ」
呆れるような直の声に、ズキンと胸が痛む。
「4年間も恋人を放っておける人なんて、ありえない。別れて正解だよ。……って、別れたんだっけ?」
「あ、いえ。えっと……はっきり別れたわけではありません」
どう説明すればいいか、わからなかった。戦国時代から突然現代に戻ってきて会えなくなった、なんて。
「自然消滅ってことか」
「まぁ……。突然会えなくなって、連絡もできなくなって。華のことを、彼に伝えられなかったんです」
これくらいなら変に思われないだろう、というところを説明しておく。
「……辛かったね」
優しく吐き出された言葉が、じわりと胸にしみる。
「連絡も取れずに、ひとりで育てるのって。わかるよ。旦那がいても、完全に理解してくれるわけじゃないし。妊娠、出産、育児って、つらいんだよ」
もちろん辛いだけじゃない。子どもの成長が手に取るようにわかって嬉しい時もある。
でも、辛い時だって、ある。それをわかってくれる人が、ここにいた。
「それで、4年後の今、急に戻ってきたってこと?」
「はい」
「4年間のこと、彼は話してくれたの?」
「詳しくは、まだ……」
信長から聞いたのは、3年前に会社を設立したことくらい。それ以上の説明はなかった。
「じゃあ、なしだね。好き勝手してた可能性もあるってことでしょ。どんな理由があっても、自分の子を育ててる女を放っておいていいなんて、許されないよ」
直の言葉は強い。でも、それだけ結衣のことを考えてくれている。それがわかっているから、不思議と嫌な感じはしなかった。
「職場の人にプロポーズされたんです」
「え?」
それに、直はまた驚く。
「彼と再会する前でした。プロポーズというか、正式なのはまだなんですけど、考えておいてほしい、みたいな」
「それ、結衣ちゃんはどう答えたの?」
「保留にしました」
結衣の返事に、直は少し安心したようで。
「どっちが華にとっていい父親なのか、わからないんです。最近、そればっかり考えていて……」
瞼がじわりと熱を持つ。ダメだ。泣くな。今の自分に、華を苦しめている自分に、泣く資格なんてない。
「華ちゃんは、何か言ってるの?」
「たぶん、混乱してます。実の父親と初めて会った時に『パパですか』って聞いてたんですけど、その前までは職場の人を父親だと認識してたみたいで」
「……なるほどねぇ」
それらを聞いた直から、ふう、と長いため息がこぼされる。
「結衣ちゃんは、どっちがいいの?」
「わたしのことはいいんです。華が幸せになれる人なら」
「うん、知ってる。でも、それだけじゃ判断できないんでしょ? だったら他のことも視野にいれてみてもいいんじゃない?」
直の言葉に、結衣は納得した。ただ背中を押されたかっただけかもしれない、と思うほどに、単純だった。
「彼……華の実父のことは、好きだと思います。子どもっぽいと思うかもしれませんけど。でも、不安なんです。またいつか、会えなくなってしまうかもしれないって」
「確かにね。前科があると、不安にもなるか」
「そう考えると、職場の先輩の方がいいのはわかってます。華のことを考えてくれるし、彼が理想とする家族像は、わたしにとっても理想的なんです」
晴れた日は外で遊んで、雨の日には家の中で静かに過ごして。結衣が知らない当たり前の家族を、岡崎は知っている。
「わたしはさ」
直が語り出した。
「母親になったら女じゃなくなるとか、女を捨てて母親になれとか、言われるけど、別に母親が女でもいいと思うんだよね」
「……どういう意味ですか?」
「母親でも、恋していいってこと」
その言葉に、結衣はドキリとした。
「だって、結衣ちゃんの場合、ちゃんと華ちゃんがいるもん。母親じゃなかった時の恋とはまた違うでしょ。どっちも華ちゃんのことを考えてくれるから、迷ってるんでしょ。どっちかが華ちゃんのことを無視してるんだったら、結衣ちゃんは悩んだりしないだろうし」
「そ、それは、もちろん」
華をないがしろにする人なんて、そもそも選ばない。絶対にありえないと断言できる。
「だからさ、結衣ちゃんが好きな方を選んでいいんだよ」
その言葉は、不思議と結衣の心を軽くしてくれた。
「結衣ちゃんが笑顔になれる方。それが、華ちゃんにとってもきっといいパパだよ。母親が笑ってるのって、子どもにとっても一番安心することだから」
笑顔になれる方。楽しく過ごせる方。それは大前提としながらも、自分自身のことは入っていなかった。あくまで華が、という前提だった。
だからこそ、直の視点は新しかったのかもしれない。
結衣が笑顔になれる方は、どちらだろう。




