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「おかえりなさーい!」


 仕事帰り、保育園に迎えに行くと、いつものように元気な保育士の声に迎えられた。

「華ちゃん、準備してるので少し待っててくださいね」

「はい」


 華を待つ間、

「あ、真柴さん」

 華の担任が駆け寄ってきた。


「ちょっとお時間ありますか?」

「はい、大丈夫です」


 そう言って、保育士は一枚の絵を出してくる。それは、人の顔がぐちゃぐちゃに塗りつぶされた絵だった。


「……もしかして、華が?」

「はい……。すみません。私が邪魔をしてしまったみたいで」


 そして、保育士はその時の状況を少し教えてくれた。




 クレヨンでお絵かきに勤しむ華に、保育士が歩み寄る。

「華ちゃん、またお絵かきしてるの?」

 その瞬間、華は絵を覆うようにばっと体で隠した。


「あ、見ちゃダメだった? ごめんね。先生、離れておくね」


 保育士が距離を置くと、華はまたクレヨンを持つ。すると、他の子たちが華に駆け寄った。


「あ! あたしもおえかきするー!」

「はなちゃん、くれよん、かして!」


 同い年の子たちの前で、華は絵を隠さなかった。でも、そのうちのひとりが、


「それ、はなちゃんのパパ?」


 そう聞いた途端、華は持っていた赤いクレヨンで塗りつぶした。


「パパじゃないもん」

「華ちゃん、どうしたの?」


 それを見て、保育士が止めに入る。


「パパじゃないの!」


 赤いクレヨンを強く握りしめたまま、華はぽろぽろと涙をこぼした。




「……そうですか」


 一連の話を聞いた結衣は、なんとなく、この絵が信長を描いているのだろうとわかった。


 華は混乱している。2人を同時にパパだよと紹介されたようなもの。


 直感的に信長が父親だと認識したものの、それを結論付ける理由は説明できなくて。さらに結衣からの説明もなくて。


 それに、もう1人の候補は、信長に会う前に父親代わりにして慕っていた人。父親だと思っていた人が父親ではなくて、でももう1人も父親ではないかもしれなくて。


 混乱しても仕方がない状況だと、ようやくわかった。


「ご家庭の事情もあると思いますし、一度、ゆっくりお話を聞いてあげてください。華ちゃん、きっと思ってることがいっぱいあるんだと思います」

「わかりました」


 結衣だって、苦しい。でもそれは、華の苦しみに比べれば、なんてことはない。

 早く答えを出さなければ。焦る気持ちは、どうしようもなかった。




「はなちゃん、あそぼー!」

 その日、結衣は華を連れて佐伯家を訪れた。


「ひーくん、はーくん」


 華もようやく佐伯家の兄弟のことを覚えたようで、2人に手を引かれておもちゃの中に入っていく。


「はると、ひなた、女の子は優しく触らなきゃダメだからね」

「はーい!」


 直が息子たちに注意をし、

「さ、入って、入って。今日は旦那いないから、遠慮しないでね」

 と結衣を招き入れる。


 いつも遠慮しているわけではない。結衣が直と話している時は、ちゃんと子どもたちを見ていてくれるから。

 でも、やっぱりそう言われると、少しだけ安心する。


「珍しいじゃん。結衣ちゃんの方から、会いたいって言ってくれるなんて」

「……少し、話を聞いてほしくて」


 結衣の表情は暗かった。


 華が見ているところでは極力出さないようにしているものの、最近の結衣は悩みすぎてどうしようもできなくなっていた。


「どうしたの?」

 かわいらしいティーカップに入れられた、透き通るような鮮やかな色。ハーブティーの匂いが優しく香る。


「華の父親に、会ったんです」

「えっ」

 直が小さな声をあげた。


「あぁ……、いや、大丈夫。続けて」

 結衣がまともに話したことはなかったため、死んでいるかもう会えない人だと思っていたのだろう。


「4年ぶりなんです。華を妊娠したことも、話せなくて。久しぶりに彼に会って……」

「4年も、連絡もできなかったってこと?」

「はい」

「うっわ。ないわ」

 呆れるような直の声に、ズキンと胸が痛む。


「4年間も恋人を放っておける人なんて、ありえない。別れて正解だよ。……って、別れたんだっけ?」

「あ、いえ。えっと……はっきり別れたわけではありません」


 どう説明すればいいか、わからなかった。戦国時代から突然現代に戻ってきて会えなくなった、なんて。


「自然消滅ってことか」

「まぁ……。突然会えなくなって、連絡もできなくなって。華のことを、彼に伝えられなかったんです」


 これくらいなら変に思われないだろう、というところを説明しておく。

「……辛かったね」

 優しく吐き出された言葉が、じわりと胸にしみる。


「連絡も取れずに、ひとりで育てるのって。わかるよ。旦那がいても、完全に理解してくれるわけじゃないし。妊娠、出産、育児って、つらいんだよ」


 もちろん辛いだけじゃない。子どもの成長が手に取るようにわかって嬉しい時もある。

 でも、辛い時だって、ある。それをわかってくれる人が、ここにいた。


「それで、4年後の今、急に戻ってきたってこと?」

「はい」

「4年間のこと、彼は話してくれたの?」

「詳しくは、まだ……」


 信長から聞いたのは、3年前に会社を設立したことくらい。それ以上の説明はなかった。


「じゃあ、なしだね。好き勝手してた可能性もあるってことでしょ。どんな理由があっても、自分の子を育ててる女を放っておいていいなんて、許されないよ」


 直の言葉は強い。でも、それだけ結衣のことを考えてくれている。それがわかっているから、不思議と嫌な感じはしなかった。


「職場の人にプロポーズされたんです」

「え?」

 それに、直はまた驚く。


「彼と再会する前でした。プロポーズというか、正式なのはまだなんですけど、考えておいてほしい、みたいな」

「それ、結衣ちゃんはどう答えたの?」

「保留にしました」


 結衣の返事に、直は少し安心したようで。


「どっちが華にとっていい父親なのか、わからないんです。最近、そればっかり考えていて……」

 瞼がじわりと熱を持つ。ダメだ。泣くな。今の自分に、華を苦しめている自分に、泣く資格なんてない。


「華ちゃんは、何か言ってるの?」

「たぶん、混乱してます。実の父親と初めて会った時に『パパですか』って聞いてたんですけど、その前までは職場の人を父親だと認識してたみたいで」

「……なるほどねぇ」


 それらを聞いた直から、ふう、と長いため息がこぼされる。


「結衣ちゃんは、どっちがいいの?」

「わたしのことはいいんです。華が幸せになれる人なら」


「うん、知ってる。でも、それだけじゃ判断できないんでしょ? だったら他のことも視野にいれてみてもいいんじゃない?」


 直の言葉に、結衣は納得した。ただ背中を押されたかっただけかもしれない、と思うほどに、単純だった。


「彼……華の実父のことは、好きだと思います。子どもっぽいと思うかもしれませんけど。でも、不安なんです。またいつか、会えなくなってしまうかもしれないって」


「確かにね。前科があると、不安にもなるか」


「そう考えると、職場の先輩の方がいいのはわかってます。華のことを考えてくれるし、彼が理想とする家族像は、わたしにとっても理想的なんです」


 晴れた日は外で遊んで、雨の日には家の中で静かに過ごして。結衣が知らない当たり前の家族を、岡崎は知っている。

「わたしはさ」

 直が語り出した。


「母親になったら女じゃなくなるとか、女を捨てて母親になれとか、言われるけど、別に母親が女でもいいと思うんだよね」

「……どういう意味ですか?」


「母親でも、恋していいってこと」

 その言葉に、結衣はドキリとした。


「だって、結衣ちゃんの場合、ちゃんと華ちゃんがいるもん。母親じゃなかった時の恋とはまた違うでしょ。どっちも華ちゃんのことを考えてくれるから、迷ってるんでしょ。どっちかが華ちゃんのことを無視してるんだったら、結衣ちゃんは悩んだりしないだろうし」


「そ、それは、もちろん」

 華をないがしろにする人なんて、そもそも選ばない。絶対にありえないと断言できる。


「だからさ、結衣ちゃんが好きな方を選んでいいんだよ」

 その言葉は、不思議と結衣の心を軽くしてくれた。


「結衣ちゃんが笑顔になれる方。それが、華ちゃんにとってもきっといいパパだよ。母親が笑ってるのって、子どもにとっても一番安心することだから」


 笑顔になれる方。楽しく過ごせる方。それは大前提としながらも、自分自身のことは入っていなかった。あくまで華が、という前提だった。


 だからこそ、直の視点は新しかったのかもしれない。

 結衣が笑顔になれる方は、どちらだろう。



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