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15 不機嫌


「華ちゃん、今日はご機嫌ななめかな」

 翌週、結衣と華の家を訪れたのは、岡崎だった。


「やー」

 差し出された手を避け、華はぬいぐるみを抱いて部屋の隅で丸くなる。


 信長から行けないと連絡が来たのは数日前。それを聞いた華は、手が付けられないくらい泣いた。それから拗ねたように毎日を過ごした。


 娘に少しでも元気になってもらおうと、結衣は岡崎を呼んだ。「おじちゃんとあそびたい」と何度も言っていたから、覚えているはず。そう思ったのだが、簡単ではなくて。


 子ども騙しが通じなくなってきた。そう感じた。


「すみません、岡崎さん……」

 せっかく休日に来てくれたのに。結衣が謝ると、

「いやいや、大丈夫だよ」

 岡崎は変わらず穏やかに微笑んだ。


「華ちゃん、気が向いたらまた遊ぼうね」

 小さく丸まった背中にそう伝えて、岡崎は華から離れた。


「せっかく来ていただいたのに……」

「遊びたくない時もあるだろうし、仕方ないよ。僕は大丈夫だから。真柴さんにも会えたしね」

 その言葉に、思わずドキリとしてしまった。


 結衣が華の父親である信長と再会したことを、岡崎は知らない。

 言えるはずがなかった。


 岡崎は、結衣に好意を抱いている。華のことも考えて、父親になってくれると言われたこともある。

 だからこそ、父親が現れたからもう必要ありません、なんて言葉、言えるわけがないではないか。


「僕の実家、毎年夏に必ず家族で海に行ってたんだ」

 コーヒーを飲みながら、岡崎がポツリとこぼす。


「父親が、そういうレジャーとか好きな人でさ。浮き輪を引っ張ってくれたり、ビーチバレーしたりして。海の家でかき氷を買ってくれた時は、嬉しかったなぁ」


 そう語る彼の顔には、懐かしさと、ほんの少しの寂しさ。過ぎた時間を思い出しているかのような表情だった。


「すごく、いい思い出ですね」

 結衣は素直にそう言った。でも、心の中にあるのは、冷たい波。


 自分には、そんな記憶がない。仕事で忙しい厳格な父と、それを支える母。


 父の無言の圧力や、そんな父に失望させないために子どもたちをしつけする母の言葉に、傷つくこともあった。


 旅行に行ったことはある。でも、それは父の仕事の延長。笑い声も、安心感も、そこにはなかった。


「……うちは、そういうの、あんまりなかったので」

 そうこぼした言葉に、寂しさが滲む。

「そっか」


 それを聞いた岡崎の声は、静かではあったものの、沈んではなかった。

「これからは、そういうの、たくさんしようね」

 当たり前のように、岡崎はそう言った。


 優しくて、穏やかで、理想的で。でも……。


 だからこそ、結衣の胸の奥で、何かがきしむ音がする。


 こんな風に、すぐに未来を信じられる人もいる。でも、結衣は違う。

 岡崎の優しさが、暖かさが、今の結衣には、少しだけつらい。

 ふと、華を見る。


「……!」

 こちらを見ていたらしい華が、慌てて頭を下げて膝に顔を埋める。


 華の父親にするなら、きっと岡崎のような人がいいだろう。

 でも、信長は、いい父親ではなかっただろうか。結衣が思っている以上に、彼は父親としてちゃんとしていた。


 お気に入りのぬいぐるみとブランケットを抱いて、拗ねる娘。

 娘のために、何ができるだろう。どちらが正しいか、きちんと選ばなければいけない。


 顔を上げない娘から、責められているようで。娘の小さく丸まった姿が、結衣の胸に小さく爪を立てた。


「そうだ。真柴さんに見せたいものがあって」

 そう言って、岡崎がバッグを手繰り寄せる。その拍子に倒れたバッグから、たくさんの資料が落ちてきた。


「あ……拾います」

「あ、いや」


 ふと、その一枚を手に取った時。

 それは、戸建住宅のチラシだった。


「……恥ずかしいな」

 岡崎の声が落ちてきた。


「気が早いかなって思ったんだ。でも、想像してるだけで幸せっていうか……。どんな家なら、2人が気に入るかなとか、考えるんだ」


 そうだ。岡崎はきっと一人暮らし用の賃貸だろうし、結衣の家も家族3人で暮らすには狭すぎる賃貸。彼は、そんなことまで考えてくれているのか。


「庭付きの方が外遊びとかバーベキューとかできていいよね、とか、キッチンは広い方が2人で立てるかなとか。僕が勝手に想像して遊んでるだけだから」


 こうした具体的な想像は、彼の覚悟を伺える。結婚してすぐ、3歳児の父親になるということ。それは、生半可な気持ちでは受け入れられないはずだ。


「あ、返事を急かすつもりはないからね。華ちゃんのこととか、他にもいろいろ、考えることはたくさんあるだろうし」


 苦しかった。彼は、ちゃんとわかったうえで、結衣の返事を待ってくれているのに。

 それが、余計に結衣を追いつめていく。優しさが、重い。


 迷いの中にある結衣にとって、それは救いであると同時に、逃げ場のない現実だった。

 信長と岡崎の間で揺れ、どちらにも答えられないまま、華を混乱させている。最悪だ。


「……ごめんなさい」

 その言葉は、涙とともに零れ落ちた。


 手を濡らした涙が、指をつたって床に落ちる。音はないはずなのに、ぽと、と小さな音をたてたような気がした。


 しばらくの静寂の後、岡崎がそっと結衣の手を取った。

「大丈夫。待つって言ったのは僕だし、真柴さんの整理ができるまで、いくらでも待つ気でいるから」


 弱々しい結衣の声に答えた声は、しっかりと芯が通っていて。


 その言葉の通り、彼は待つのだろう。そういう人だと、結衣はわかっている。そして同時に、諦める気はないのだと悟った。


 岡崎も信長も、引く人じゃない。だから、結衣が決めなければいけないのだ。

 もう少し。もう少しだけ。考えさせてほしい。その願いは、心の中から出てこなかった。


「あ、そうだ。これ」

 そして、岡崎は一枚の広告を差し出した。


「……お菓子作り体験?」

「そう。駅前で配ってたんだ。華ちゃんは興味あるかなって思いながらもらったんだけど、いる?」

「あ、ありがとうございます……」


 断ることもできず、結衣はそれを受け取った。


「うまくいったら、僕にも食べさせてね」

 それは、本気か冗談か。少しだけ張りつめていた空気が緩む。


「甘いもの、好きなんですか?」

 そのおかげか、そんな言葉が流れ出た。


「好きだよ。洋菓子でも和菓子でも。真柴さんと華ちゃんが作ったお菓子なら、いくらでも食べたいかな」

 どこかおどけたような声に、結衣は思わず、ふっ、と吹き出す。


 それを見た岡崎が、ホッとしたように目を細めたことになんて気づかず。

 そして、それを華が見ていたことに、気づいていなかった。




「じゃあ、今日はありがとう」

 しばらくして、岡崎は帰るといった。自分がいると、華がリラックスできないだろうから、と。


「すみません。華、頑固で」

「大丈夫。華ちゃん、今度会ったらまた遊ぼうね」


 相変わらず部屋の隅から動かない華に軽く手を振って、岡崎は帰っていく。

 ようやく、結衣は一息ついた。


「華」

 そして、膝に顔を埋める娘に、そっと語りかける。


「岡崎さん、寂しがってたよ」

 抱き上げて膝に座らせると、華は結衣の服を掴んだ。ずっと待っていた、と言わんばかりの行動に、切なくなる。


 結衣に近づかなかったのは、きっと岡崎がそばにいたから。そこまでして、岡崎を嫌いになってしまったのだろうか。


「ママ」

「ん? なぁに?」

 小さな声に、そっと答える。


「パパ、きらい?」

「え?」


 思わず聞き返してしまった。


「どうしてそんなこと言うの?」

「……んー」


 それ以上、華は口を開かなかった。結衣の胸に顔を押し付けているため、表情もわからず。


 子どもの語彙力では、これ以上の説明はできないのだろうか。どうしてそう思ったのか、聞きたかったのに。



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