13 日常
「あ、おかえりなさーい!」
保育園にいくと、元気な声が飛んできた。
「華ちゃん、お迎えです!」
玄関に立っていた保育士が、中で子どもたちを見ている人に声をかける。その元気なやり取りには、いつも元気をもらっていた。
「華ちゃんママ、今日はお絵かきをしました。上手に描けているので、見てあげてくださいね」
たった一言でも、保育園での娘の様子を教えてくれるのは、嬉しい。最初は連絡帳に詳しく書いてあるだけで満足していたのに、欲張りになったものだ。
「わかりました」
そう返事をすると、
「ママぁ!」
部屋の奥から華が走ってきた。
「華、走っちゃダメだよ。危ないからね」
「ごめんなさぁい」
少ししゅんとなりながら、
「あのね、あのね」
次には一気に興奮を爆発させて。簡単には収まらないだろうが、
「落ち着いて、華。お靴はどこかな」
お迎えでごったがえすロビーで時間は取れない。
「こっちだよ!」
華は靴箱から靴を取り出し、室内履きを入れる。ここで手伝うと、嫌がって時間を取ってしまう。少し時間はかかるが、華に任せてしまう方がスムーズだ。
「できた!」
ようやく靴を履き終えた華が立ち上がる。
「ありがとうございました」
「せんせー、さよーなら!」
保育園を後にした。
「あのね、きょうね、ほいくえんでね」
帰り道、華は大はしゃぎでいろいろ報告してくれる。
友達と遊んだこと。友達の喧嘩を仲裁したこと。お絵かきをしたことに、外で遊んだことも。
「楽しかったんだね」とか「頑張ったね」とか。そんな言葉で相槌を打ちながら、娘の話を聞いた。
途中でスーパーに寄り、食材を買っていく。
「おかし!」
最後にお菓子コーナーに寄ると、華は嬉しそうに飛び出した。
「1個だけだからね」
そう言い聞かせておいたのに、持ってくるのは2つだったりする。
「ママぁ……」
決められなかった2つを両手に、上目遣いで聞いてくる。
自分がかわいいとわかってやっているのだろうか、とたまに思う。でも、ここで折れてはいけない。
「どっちにするか決まった?」
できるだけ毅然とした態度で。
「じゃあ……こっち、またこんどね」
少し時間を置けば、ちゃんと整理できる子。
「偉いね、華。ちゃんとお約束守れたね」
「はな、いいこよ」
「本当だ。いい子だね」
褒めてあげると、嬉しそうに満面の笑みをこぼして。頭を撫でて、会計を済ませた。
「ママ、おかしたべてもいい?」
「いいよ」
帰り道は少し長い。お腹が空いている中歩かせたくはないため、スーパーの前の公園で休憩がてらお菓子タイム。
「ちゃんと座ってからだよ」
「うん!」
ベンチに座らせて、結衣も隣に座る。
「ママ、あけて」
お菓子の封を開けてあげると、華は嬉しそうにかぶりついた。
「おいしいねぇ」
「そうだね」
ひとときの、静かな時間。お菓子を食べる間だけ訪れるこの時間に、結衣はそっと息をつく。
いつも元気で騒がしい華が、この時だけは静かになる。お菓子をゆっくりと味わう姿は、まるでグルメ評論家のようで。
「たべた!」
やがて、元気な声が戻ってくる。
「じゃあ、もう少し頑張って歩ける?」
「うん! がんばるよぉ!」
「いい子。頑張ろうか」
片手に買い物袋。もう片方で娘の手を取り。日が沈みかける道を、並んで歩いた。
「華、ご飯できたよ。お片付けして」
「もうちょっと!」
この言葉だけでは動かない。それでも、結衣は知っている。
コツ、コツ、と秒針が鳴る。そして、19時ぴったり。華がハッと手を止める。小さなお腹の音が聞こえた。
「ごはん!」
体内時計がしっかりしすぎていて、おもしろい。
「お片付けしてからだよ」
そう声をかけて、ようやくテーブルに並べ始める。すると、ちょうど並べ終わった頃に、片付けを終えた華が、駆け寄ってきた。
「おてて、洗った?」
「きれぇ!」
「嘘はダメだよ。洗っておいで」
おもちゃ箱から直行してきたのだから、洗っているはずがない。華は楽しそうに手を洗いに行く。
「ママ! きれぇ、なった!」
「おかえり」
両手を掲げて走ってきた娘を、椅子に座らせる。
「いただき、ます!」
「はい、どうぞ」
食前の言葉は保育園で覚えたのだと、自慢されたことがある。『ママ、いただきますってね、だいじなんだよ』と。
家庭で教えられないことを保育園で教えてくれるのは嬉しい。結衣ひとりでは、どうしても気づかないところもあるから。
結衣も椅子に座り、箸を持つ。でも、落ち着いて食事ができるわけではない。
「華、こぼしてるよ。ゆっくり食べてね」
食べることが大好きらしい華は、勢い余ってぼろぼろこぼす。
「野菜だけ避けちゃダメだよ。ちゃんと食べてね」
それに、好き嫌いも出てきた。子どもは苦味が苦手だというから、苦味が出ない食材や調理方法を心がけているのだが、それでも充分じゃないらしい。
「これ、やぁだ」
「じゃあ1個だけ。あとはママが食べるから。1個だけ我慢して食べられる?」
「んー……」
確か育児本では、無理して食べさせない方がいいと書かれていた。無理に食べるということで、食事が嫌いになってしまうから。
初めての育児。不安なことも多い。だから、育児本の通りに心がけた。
「ん!」
「あ、食べられたね。偉いね」
お茶で流し込みながら、華は得意げに笑う。
「おちゃ、おかわり、ください」
「はい」
落ち着いて食べられなくても、娘との時間はかけがえのないものだ。この時間を、大切にしたかった。
「きょうはね、これ!」
寝る前に、華が絵本を持ってくる。
「はい。じゃあ横になってください」
「はぁい!」
寝る前だというのに、相変わらず元気で。まだまだ眠気なんて感じられない様子にやや不安になりながら、絵本をひらく。
「むかし、むかし」
落ち着いた声で読み聞かせを始めると、
「ねぇ、ママぁ?」
華が声を上げた。
「どうしたの?」
いつもは黙って聞いているのに。
「はなね……」
「うん」
「おじちゃんと、あそびたい」
それは、子どもらしい願いだった。
「そっか。じゃあ今度、遊ぼうって言っておくね」
「うん!」
そうしてまた読み聞かせを続ける。やがて、あんなに元気だったのが嘘のように、静かな寝息をたてはじめる。
「おやすみ、華」
そっと声をかけ、結衣は布団から出た。
これからは、ひとりの落ち着いた時間。でも、することはある。
まずは、と華の保育園バッグから連絡帳を取り出す。保育士からの連絡事項や、華の保育園での様子を見て、返事を書かなければいけない。
『お外遊びでは滑り台で何度も遊んでいました。順番も守れていました』
そんな文章にはホッとして。
『お友達がお父さんの話をしているのを見て、寂しくなったみたいでした。スタッフが抱っこしていたら、落ち着きました』
その言葉に、ハッとした。
『おじちゃんと、あそびたい』
寝る前、大好きな絵本を途中で止めてまで、言いたかった言葉。
あれは、母に言うかどうか悩んで、ようやく口に出したものだったのだろうか。岡崎と、会ったこともない父親を重ねているのだろうか。
父親のいない子。そう言われないように。華が寂しくないように。結衣は一生懸命気を配ってきたのに。
そう簡単にはいかない現実に、もどかしくなる。
スマホを開けば、満面の笑みの娘の写真。フォルダには、岡崎と遊ぶ写真も入っていた。
いっそ、このまま、岡崎を父親だと思わせておいた方がいいのか。混乱はしないかもしれない。
でも、いつか実の父親じゃないとわかった時に、傷つくだろうか。
そして、信長は、どう思うだろうか。実の娘に父親と名乗ることもできず、結衣の一存で会わせないようにすることさえもできてしまう。
それはイヤだ、と思った。
せめて、一度だけでも。
娘と歩く彼の姿を見てみたい。それは、結衣のわがままか。
「……華」
口からこぼれたのは、娘の名前。
そう、全ては華のためなのだ。
華のために、どちらがいいか。そんなの、わかっている。わかっているのに、言うことを聞いてくれない。
メッセージアプリを開く。トン、とタップしたのは、ある人とのチャット欄だった。




