10 再会
「結衣……?」
それは、低く、優しい声だった。
ハッと振り返った先で。
幻聴かと思った。望んで、望んで。神様がくれた最後のお別れの言葉だと。
そこには、彼がいた。
洋服だった。結衣が知っている姿じゃない。彼に似ている別人、という可能性だってあった。でも、全身が、心が、間違いない、彼だと主張する。
「また、泣いておるのか?」
「……っ」
その瞬間、結衣は駆け出していた。
周りの目なんて、気にしている余裕はなかった。荷物が邪魔で、放り投げた。ただ一心に、彼のもとへ。
「信長様……っ」
とたん、彼の匂いに包まれた。しっかりと包み込んでくれる力強い温もりは、あの頃と変わらなくて。
「そなたは泣き虫だ」
そう言った信長の声が、どこか鼻にかかっているような気がして。耳のそばで、かすかに鼻をすする音がした。
「信長様、……信長様……!」
「そう呼ばずとも、儂はここにおる」
声が、優しくて。じんわり響く低い声が、耳に心地よくて。あの頃と変わらない感覚に、さらに涙が溢れる。
もう離さない、離れたくないと、彼の洋服にしがみつく。その手にこもる力は、案外強くて。
「結衣、顔をあげよ」
信長の手で、すっと顔があげられる。目の前に、彼の顔があった。
「……見ないで、ください」
泣きすぎた。会う前も、会った後も。きっとボロボロだろう。
「少し、大人びたか」
信長の目が、細められて。そのまなざしは、優しかった。
「だが、間違いない。結衣の顔だ」
頬に触れる信長の手は、ゴツゴツとしていて。弓や刀を使う彼らしい手は、やっぱりあの頃と変わらない。
結衣は、信長の洋服からそっと手を離し、彼の頬を包み込む。
「……信長様は、お変わりありませんね」
「それはそうであろう」
信長が笑った。あの頃と変わらず。その態度に、どこかで安心する。彼はここにいる。
「信長さん、そろそろ」
その時、見知らぬ声が聞こえた。その声は、信長の名前を呼んでいて。不思議に思って、声のした方を振り向く。
「なんだ、メガネ。これは、感動の再会というところだろう。気が利かんな」
「邪魔はしてませんよ。ちゃんとたっぷり時間を作りましたから」
眼鏡をかけた男性は、にっこり笑っていて。
「それと、僕の名前はメガネではなく、モリモトです。モリモトアラン」
「わかっておる」
信長のややうんざりした声は、家臣たちに詰め寄られていた時と同じもの。
「信長様、この方は……」
「儂の家臣だ」
「秘書ですね、一応」
彼は、結衣の荷物を持っていた。
「わ……すいません。バッグ……」
「いえいえ。どうぞ」
慌てて荷物を受け取る。すると、信長から抱き寄せられた。
「メガネ、儂の女だぞ」
「わかってますって。別に取る気はありませんから」
このモリモトという男。信長と親しそう。それに、秘書と言っていた。しかし、どうにも頭が整理できない。
「信長様」
混乱する頭をどうにかしたくて、信長を見上げる。
「どうしてこちらにいらっしゃるのですか?」
「知らん」
返ってきたのは、あまりにも冷たい答えだった。少ししょんぼり落ち込んでみると、
「ゆ、結衣。悪かった。つまり……その……」
これもまた、あの頃と変わらない。結衣はそれをわかっていた。信長の言葉が足りないのは、今に始まったことじゃない。
「それも含めて」
モリモトがポン、と両手を打った。
「少し、お時間いただけませんか?」
その言葉は、結衣に向けられていた。
モリモトが運転する車で移動した先は、小さな事務所のような部屋だった。
「おかえりなさい、社長」
そこには、仕事中らしい数人の男女がいて。
「うむ。今帰ったぞ」
信長はその中をすたすたと歩いていく。
「お、お邪魔します……」
結衣は慌ててその後をついていった。興味深そうな視線が痛い。
奥の応接間のような個室に入ると、そこには誰もいなかった。思わずホッと息が漏れる。
「結衣、何をしておる。座らんか」
「あ、はい」
慌てて信長が座る向かいのソファに座ろうとして。
「結衣」
信長は、自分の隣をトントンと叩いた。
「はい……」
何かと結衣をそばに置きたがるのは、変わっていないのか。重臣たちが集まる会議にまで同席させられた時は、さすがに居心地が悪かったっけ、などと思い出す。
「結衣さん、お時間をいただき、ありがとうございます」
「い、いえ……」
「改めて」
モリモトが名刺を取り出す。
「株式会社楽市の社長秘書、森本亜蘭といいます」
なんとなく、戦国時代で彼の小姓だった少年を想起させる名前。本名だろうか。
「一応、本名です」
結衣の心を読み取ったように、森本が笑った。思わず口に出ていたかと手を当てる。
「信長さんと一緒にいると、よく言われるので」
なるほど。過去の経験からそう言っただけだったのか。
「信長さん、ちゃんと説明してあげてください。結衣さん、混乱していらっしゃるでしょうから」
「ふむ……。どこから説明すればいいのだ?」
信長が真面目に考え込む。
「わたしからお聞きしてもいいですか?」
だから、結衣の方から口を開いた。
「信長様は、どうして現代にいらっしゃるのですか?」
「なぜかと問われると答えられんな。本能寺におったのだが、いつの間にか寺の中で寝ていたらしい」
よくわからない。足りない言葉を補おうと、必死に頭を働かせるのに。情報が足りなすぎて全く予測できない。
「その時のことは、自分からお話しましょうか」
その時、森本が名乗りを上げてくれた。
「3年前ですね。自分が本能寺を訪れた時に、信長さんが倒れていたんです。信長公廟の中に」
「……さん、ねん……」
ちょうど、結衣が娘を連れて京都を訪れたのも、3年前。入れ違いだったのだろうか。
「それからのことは話せるぞ。蘭とともに、会社をたちあげた。文化財の保護や復元に関する会社だ。時には観光地の企画プロデュースもしているがな」
少しだけわかってきた。信長は、ふとした瞬間に現代に飛ばされ、ここで生きるために頑張ってきたのだろう。かつて戦国時代に飛ばされた結衣のように。
「一応、聞きますが……」
結衣が森本を見る。
「森本さんは、彼が本物の信長様だって、思っていますか?」
その答えによっては、結衣の態度も変わる。本物だとするなら、彼にとって現代人の結衣との関係は異様に映るだろう。
「最初は疑いましたよ。でも、さすがにもう疑っていません。3年も一緒にいれば、いろんな話を聞きますから」
「……じゃあ……」
結衣は、どうすればいいのだろう。本物の信長と親し気にする現代人なんて。説明できない。
「結衣さんのことも、信長さんから聞いていますよ」
「……え?」
それは、意外な言葉だった。
「結衣という名前、出会った時に洋服を着ていたこと、スマホを持っていたこと。それを聞いて、きっと結衣さんもタイムスリップした人だって、僕はそう思っていましたけど」
「そうです」
よかった。説明する必要は省けた。急に現代から戦国時代に行った、なんて、簡単に信じてもらえる話ではないだろう。
「結衣」
その時、信長がそっと結衣を抱き寄せる。
「会いたかった」
「……わたしもです」
力強い温もりに、安心する。彼はここにいるのだと感じられて。
「ずっと、あなた様を待っていました」
それは、ずっと伝えたかった言葉。さよならよりも、言いたかった言葉。
「結衣は、何をしておるのだ?」
信長が優しい声で聞いてくる。
「……ぁ」
その時、脳裏に娘の顔がよぎった。
「……わたし、帰らなきゃ」
忘れていた。全く考えられていなかった。それが、おそろしくて。
「ごめんなさい。わたし、帰らなきゃ」
「結衣?」
「すみません、信長様。わたし……」
娘を忘れるなんて、最低だ。母親として、ひとりの人間として。最低で、最悪で。母親失格だ。
「結衣、落ち着け」
その時、その声がいやにはっきり聞こえた。気づくと、信長の手が頬に当てられていて。
「……申し訳ありません、信長様」
驚きながらも、結衣を尊重してくれるその目を、じっと見つめる。
「わかった」
その目に、信長も何かを感じ取ったようで。
「だが、連絡先を交換してほしい」
「わかりました」
「車、回してきます」
森本が部屋を出ていく。信長はスマホをすいすいと操作していて。でも、その姿は、ごく自然だった。
「結衣」
無事に連絡先を交換し、信長は結衣を抱きしめる。
「落ち着いたら、連絡しろ」
「……はい」
再会を約束して。またきっと会えることを信じて。
結衣の、過去をめぐる旅は終わった。




