1 タイムスリップ
「ねぇ、ママ。はなのぱぱは、どんなひと?」
きた。そう思った。
今までなんとなくはぐらかしてきたこと。幼い娘を誤魔化すことは簡単だった。
しかし、その娘ももう3歳。大きな黒い目で、真っ直ぐに母を見つめる。あの人に似た、意思の固さを思わせる眼差し。
もう誤魔化せない。娘には、それを知る権利がある。他のどんな人に言えなくても、娘にだけは。
「今からママが言うこと、ないしょにできる?」
結衣はそう確かめた。
人生の転機は18歳の時だった。高校卒業後、就職を機に上京。両親も頼れる親族も身近にいない中、ひとりで一生懸命生きてきた。
なんとか仕事に慣れてきた20歳の時。
それは、突然だった。仕事からの帰り道。気づくとそこは「尾張の国」だった。
もちろんその時は、そこがどこかなんてわからなかった。田舎よりももっと田舎、古い町に放り出されたような気持ちだった。
田畑と茅葺屋根の家々しかなくて。明らかに、結衣が知る時代ではなかった。
「ぬし、何をしておる」
ふと、頭上から声が落ちてきた。それが、彼との出会いだった。
彼は、猫のような人だった。警戒心が高く、簡単に人を信用しない。常に周囲を警戒し、ピリピリしていた。
でも、優しい人だったと思う。
「南蛮人か?」
「……日本人です」
彼女の持ち物に興味を示し、行くところがないと知ると屋敷に入れてくれた。
「布の少ない服だな」
「まぁ……そうかもしれないです」
言動ひとつひとつに注目されるのは落ち着かなかったけれど、好奇心旺盛な子どものような眼差しは嫌ではなかった。
「それは何という?」
「スマホです」
今思えば、彼はなぜ結衣を警戒しなかったのだろう。明らかに怪しいだろうに。警戒しても無駄だと、女ひとりくらいどうとでもできると思われていたのだろうか。
「結衣、安土に来てくれないか?」
「あづち?」
「ここには何もない。退屈だろう」
そう誘われたのは、出会って数日した頃だったと思う。突然だった。それまで、彼にはかわいがられていた。珍しい動物でも飼ったかのように、彼は結衣をそばに置いてくれた。
「新しい城を造らせている。おぬしが見たこともないような城が建つはずだ」
「見たいです」
結衣の返事に、彼は満足そうに笑った。
「結衣! うさぎを捕ったぞ!」
鷹狩りに行っては、獲物を得意げに持って帰ってくる。
「おいしいんですか?」
「あぁ、そちに食べさせたくてな」
思えば、この頃から、運命は決まっていたのだと思う。彼の心はわからないが、結衣は彼に惹かれはじめていた。
それが確信に変わったのは、戦場から帰ってきた彼の姿を見た時。
血に汚れた甲冑を脱いだ彼の背中は、どこか寂しそうで。思わず駆け寄り、その手を取った。
「わたしが」
その言葉は、意識せず口をついて流れ出た。
「わたしが、そばにいます」
裏切り、裏切られ。そんな世界で生きる彼を、支えたいと思った。
「そちは、犬のようだな」
彼の手が、結衣の白い頬に添えられる。土汚れも、返り血も、気にならない。ゴツゴツしていて、大きくて、温かくて。間違いなく、彼の手だった。
「卑しいということですか?」
「違う」
その意味を、彼は教えてくれなかった。彼の近くにいきたくて。もっとそばに、いたくて。
結衣は、彼の大きな体を精一杯包み込んだ。
当時の都、京都の町は、現代からすれば全然田舎だった。でもその日は、賑わっていて。
たくさんの馬が並んで歩くその様子を、結衣は見守っていた。派手な衣装を着た彼は、馬の上で真っ直ぐ前を見据えていて。
まるで、未来を見つめているかのようだった。戦ばかりの世の中に平和が訪れ、温かい日差しの下、彼と寄り添って暮らす。それは、結衣の願望だったのかもしれない。
彼が結衣に気づき、ふっと笑ってみせる。その笑みは、優しくて。結衣の方も、彼に笑みを返した。離れていても、これだけでよかった。
「誕生日?」
それは、出会ってからちょうど3年目のある日。結衣は、彼に聞いてみた。
「はい。わたしの故郷には、産まれた日を祝う習慣があって。プレゼント……贈り物をしたいので、教えてくれませんか?」
「知らん」
不機嫌そうな彼に、無理に聞くことはできなくて。少し落ち込んで、彼の隣に座る。すると、彼は結衣の手を取った。
「そちはいつなのだ?」
「わたしの誕生日ですか?」
そう言われて、指折り数えてみる。ここの来た年から誕生日なんて祝っていなかった。
「あ……」
そして、気づいた。
「今日です」
現代で使っていた暦と違うため正確ではないだろうが、少なくとも近くではあった。
それから数日後、彼は結衣を連れ出した。
「どこに行くんですか?」
彼に手を引かれながら、結衣は城から離れていく。目隠しをされ、そこがどこかもわからない。
彼の名前を呼ぶと、ぐんっと急に手が引かれる。思わず体勢を崩したところで、彼が受け止めてくれて。そのまま、後ろを向かされた。
目隠しを外された先には。
綺麗な光景が広がっていた。
「イルミネーション……」
「どうだ?」
城から城下町にいたるまで、たくさんの提灯と松明で闇の中に美しい城が浮かび上がっていた。
「これは?」
「結衣が言ったのだろう。生まれた日に贈り物をするのだと。少々遅れたが」
「……ありがとうございます」
感動の中、絞り出せた声は、たったそれだけ。彼が自分のために準備してくれたことが嬉しくて。
「これを結衣に見せたかった」
「わたしも、あなた様とこの景色を見られて幸せです」
これが、幸せの絶頂期だったのかもしれない。
この生活の終わりは、突然だった。
その夜、彼の背中を見つめながら、思った。この時間が、永遠に続けばいい。もう3年も帰っていない場所に、未練なんてなかった。彼のそばで一生を終えたい。そう思った。
彼の温もりを感じながら、眠りに落ちて。
目を覚ましたら、そこはもう、見慣れた天井だった。
「……あれ?」
柔らかなシーツ。静かな夜明けの気配。あの場所の、湿った土の匂いも、畳の匂いも、木々の匂いさえも、そこにはなくて。
彼の姿も、声も、匂いも、なにひとつ残っていなかった。
別れの言葉も、触れる指先もないまま、突然幕を下ろした物語。
まるで、すべてが夢だったかのように。
スマートフォンを確認すれば、3年の月日が流れていた。
もう一度寝て、起きれば。何度も試した。しかし、あの場所に戻ることはできなくて。
それがわかると、涙が溢れた。泣いて、泣いて、一日中泣いて、涙が枯れた。
もう彼はいない。たとえ夢だったとしても、あの瞬間、あの感情は、確かにあった。それだけが、結衣の支えになった。
3年間行方不明だったせいで、会社は自然と解雇扱いになっていた。また就活か、なんて現実的なことを考えたりもして。
そんな日々だった。
カレンダーを見つめる。日にちを数えて。生理が、遅れていた。




