第71話 おじさんと、平和な日常(ガチ)
俺――湊啓介は、上野にある自宅マンションのソファに深く体重を預けていた。
手にした冷たい缶ビールから、プルタブを起こす。
プシュッ――。
静かなリビングに、小気味良い金属音が弾けた。
缶の口から溢れ出した白い泡へ、ゆっくりと唇を寄せる。鋭い炭酸の刺激と麦の香りが、ひび割れた喉の粘膜を焼きながら、胃の腑へと落ちていった。
「……くぅ〜っ。やっぱり、昼間から飲むビールは最高だな」
富士山の樹海ダンジョンを呑み込んだ大規模スタンピードから、すでに数日が経過している。俺は今、堂々と休暇を満喫していた。
『マスター、いつまでぐうたらしておくんですか? 少しは生産的な活動を――』
不意に声がして、視界の端にホログラムの少女が浮かび上がる。サポートAIのナビ子だ。彼女は呆れたように、小さな腰に手を当てていた。
俺は黙って、手元の黄金色の缶を彼女へ軽く掲げてみせる。
「そりゃあお前、あんな異世界の地獄で休みなしで働き続けたんだぞ。納得いくまで休むに決まってるだろ」
実際のところ、俺の精神はあの死闘から、茹ですぎたうどんのようにだらしなく弛緩しきっている。そのくらい異世界に放り出されてからの日々は、致死量の刺激に満ちていた。
そういえば、猪狩家で目を覚ました舟木さんは、帰り際までひたすら混乱の渦中にいた。
死んだはずの男が生きており、あまつさえ異世界帰りだという事実。しかもその先には、三年前に殉職したはずの猪狩先輩まで生存していたのだ。
極めつけは、死にかけの彼女を救った銀髪の超絶美女が、異世界の高ランク探索者だという真実である。
脳の処理能力を超えるのも無理はない。俺だって逆の立場なら、「キメちゃいけない薬でもキメてんのか?」と真顔で通報している。
それでも最終的に、彼女は深い深いため息一つですべてを腹に収めてくれた。
俺たちは彼女を慰労会という名の暴食パーティーに巻き込み、高級寿司やらピザやらをたらふく詰め込んだ。その後、ナビ子の転移魔法で山梨の実家付近までこっそり送り届けたのだ。
別れ際、連絡先を交換した舟木さんは、律儀に頭を下げて言った。
『近いうち、また東京に戻るつもりですので。ぜひまた詳しく話を聞かせてください』
俺はもう一口、冷えた液体を喉の奥へ流し込む。
平日昼間のビール。これぞ労働者の至高の贅沢。
とはいえ、俺がこうして不用意に外へ出られず、引きこもっているのには、単なる疲労回復とは別の厄介な事情があった。
俺は視線を前方へ向ける。
大型テレビの前に、女が一人座っていた。
流れ落ちるような銀糸の髪に、透き通るような白磁の肌。世界を平伏させるに足る圧倒的な美貌を持つ、規格外の超越者。異世界の女帝と呼ばれていた、エレオノーラだ。
しかし、その神話級の容姿は現在、俺のお下がりであるダボダボのえんじ色ジャージに包まれている。彼女はポテトチップスの袋を片手に、テレビ画面へ向かって声を荒らげていた。
「あーっ! 必殺技を使ったからって油断しない! 学習しなさいよ!」
俺はソファから彼女へ声をかける。
「おい、エレン。ポテチ食った油手でそのままジャージを拭くな」
「あら、ごめんなさい。あなたの真似をしちゃったみたい」
エレンは悪びれもせず振り返る。手にした空のペットボトルをこちらへ差し出し、鮮血のように赤い瞳で上目遣いに俺を捉えた。
「……ねぇミナト。コーラのおかわり、お願いしてもいいかしら?」
元の顔の造形が完璧すぎるせいで、無自覚な破壊力が網膜を焼く。
異世界で一国を統べていた圧倒的な威厳は、現代日本のテレビ番組とジャンクフードの暴力的な旨味の前に、脆くも崩れ去っていた。
数日前のスタンピード。そのニュース映像や現場の探索者たちの証言により、「規格外の魔法で事態を収拾したのが、銀髪の超絶美女だった」という情報が、すでにネットやメディアを駆け巡っている。
ただでさえ、一度見たら忘れられない容姿である。一歩でも外に出れば、どんな騒動に発展するか分かったものではない。
そういう事情も重なり、俺は堂々と引きこもるような休暇を満喫している。
幸い、資金だけは潤沢にあった。高級寿司だろうがピザだろうが、スマホ一つで大抵の物資は補給できる。
かといって、このまま異世界の女帝をソファで溶かし続けるのも、同居人として少々胃が痛む。
俺は手元の空になったアルミ缶をテーブルに置き、天井のシーリングライトを仰ぎ見た。
「……いやー、にしてもどうしようかな。これから」
三年間――。
あの日、猪狩先輩が原種ワームに呑み込まれてから、俺はどす黒い復讐心だけを胃の腑に抱え、狂ったようにダンジョンへ潜り続けてきた。
だが、先輩が無事に生還し家族の元へ帰還したことで、肩にのしかかっていた呪いのような重圧は綺麗に消え去っている。
異世界での死闘や、王家ダンジョンでの泥臭い修行。
その過程で、俺自身の奥底に「もっと強くなりたい」「未知の領域を踏み荒らしたい」という、純粋で子供じみた熱が燻っていることには、とうに気づいていた。
しかし、異世界の極限状態から解放された反動か。今はどうしても、あの血なまぐさい穴蔵へ足を向ける気になれない。
不意に、ナビ子の平坦な声が鼓膜を揺らした。
『マスター。もう、自分のためだけに探索してもいいんですよ?』
その言葉に、俺は自分の掌を見つめ直す。
「……自分のため、か」と、短くこぼした。
『定時退社・平穏第一』というこれまでの生き方と、胸の奥底で燻る未知への熱。二つの相反する衝動の間で、身の振り方を持て余しているのは事実だった。
慰労会で、今後の身の振り方を尋ねた際のことだ。先輩はビール片手にこう答えていた。
『うーん、独りで潜るとさすがに危険だしよ。せっかく家族と会えたのに大けがしてたらわけわからんだろ。俺はしばらく、家族と過ごすさ。基本は家族サービスで、たまに小遣い稼ぎで浅い層を潜るくらいにするよ』
その顔に浮かんでいたのは、一抹の寂しさと、どこか俺の未来に期待を託すような笑み。
あれは間違いなく、『お前が先に進むのを待ってるぞ』という無言のエールだった。
先輩の決断は正しい。失われた三年を取り戻すためにも、今は家族との時間を最優先すべきだ。
だからこそ、俺はこれから「一人で」未知の階層へ挑むことになる。
誰かのためじゃない。俺自身の乾きを満たすために。
その事実を前にすると、胸の奥を占めていた霧が晴れていくような、不思議な高揚感があった。
ただ、問題は一つ。
この完全にオフモードへ切り替わった身体を、どうやって再び死地の匂いに馴染ませるかだ。
ポンッ――という軽い電子音が鳴る。
目の前の空中に、ホログラムのナビ子が現れてふんぞり返った。その人工的な顔には、どこか勿体ぶったような、得意げな色が浮かんでいる。
『まったく……仕方ないですねぇ。そんなに暇を持て余しているなら、少しだけお勉強の時間にしましょうか』
「勉強? なんのだよ」
『マスター。ダンジョンってなんなのか、知りたくないですか?』
すみません!
一か月くらい別の用事に集中するつもりだったんですが、書きたくなったので書いちゃいました。
相変わらずストックはないですが、不定期ながら更新していくつもりです。
四月からはまた更新頻度を戻していく予定です。
それまではスローペース更新ですが、お付き合いくださると幸いです。




