第65話 おかえり、おじさん
広場での挨拶を終え、俺たちは家に戻った。
ノブを回し、扉を押し開ける。
軋んだ音と共に、ねっとりとした沈黙が流れ出した。
「すみません、戻りました」
「お、おう……。早かったな」
先輩の頬が不自然に引きつっている。視線は泳ぎ、どこか落ち着きがない。
対照的に、ソファのエレオノーラは優雅にカップを傾けていた。その涼やかな横顔には、勝ち誇ったような色が滲んでいる。
(ナビ子、俺がいない間に何かあったか?)
『いえ、特には。ただ、エレオノーラが「身も心もミナトに捧げた」という趣旨の発言をして、盛大に誤解を深めただけです』
(ナビ子、覚えておけ。世間ではそれを何かあったという)
誤解を解いている時間はない。
俺はため息を飲み込み、二人に声をかけた。
「それじゃあ、移動しましょうか」
『万象掌握』による強引な空間突破はまだ負荷が高い。ナビ子のサポートのもと、正規プロセスによる次元転移シークエンスを起動する。
視線で先輩とエレオノーラを捉え、それぞれをシステムに接続する。座標を先輩の自宅マンションへと固定した。
ふと、懸念がよぎる。
(ナビ子、これって防疫面とか大丈夫なのか?)
『問題ありません。転移プロセスにおいて、有害なウイルスや細菌、寄生虫などは全てフィルタリングされ、除去されます。通常の探索者の場合、システムが自動で行いますが、マスターたちの場合は私が責任を持ってクリーンアップします』
(システム万能すぎだろ)
『えぇ、使わないのは原始人かマスターくらいですよ』
相変わらず人の心がないナビ子の減らず口を聞き流しつつ、プロセスを進める。
準備完了。
足元から光の粒子が舞い上がり、視界を白く染め上げていく。
壁の向こう――家の外から、村人たちが地面に額を擦り付ける気配が伝わってきた。
「いきます」
世界が反転する。
内臓が浮き上がるような浮遊感。
――次の瞬間。
不快な重み――肌にまとわりつくような湿気が、全身を包み込んだ。
「……うお、なんか空気が重いな」
思わず声が漏れる。
重い瞼を持ち上げると、そこは見慣れた先輩の家のリビングだった。
カーテンの隙間から差し込む日差しは、どこか弱々しく、頼りない。
異世界に転移したときは、まだ残暑が肌を焼く夏の終わりだったはずだ。
だが、ふと目に入った壁のカレンダーが、無情な事実を突きつけてくる。
『10月』。
(10月中旬か……)
たった一ヶ月半。
日数にして五十日足らず。
だが、俺の魂には数年分の重みが刻まれている気がした。
クソ虫との死闘。
廃村寸前の村での開拓生活。
大地を揺らすスタンピードと、格上の魔物との殺し合い。
性格の悪い試練を乗り越え、秘銀級に至り、人間を辞めた。
そして気づけば、赫金級の女帝を配下に収めていた。
なんだこれは。
先輩が失踪し、機械のようにスライムを狩り続けていた三年間よりも遥かに重い。
まぁ、地球にも戻れたことだし、しばらくはゆっくりしよう。
ふと、これまでの出来事の数々、その発端を思い返す。
あの日、不意に現れた半透明の少女。
張本人でもあるナビ子は、変わらず淡い金色の瞳でこちらを見下ろし、すました顔でふわりと浮遊している。
『どうしましたか、マスター? 相棒のあまりの有能さに、改めて見惚れてしまいましたか?』
(いや? お前が来てから忙しいなって、つくづく実感してたとこだよ)
『嫌でしたか?』
ナビ子が小首を傾げる。
クリスタルが触れ合うような硬質な響きと、少女の甘さが同居する声。
嫌か、と問われれば。
恩人である先輩が生きていて、再会することができた。
探索者として、自分の限界を超える成長ができた。
守るべき村人たちや、帰りを待つ人たちが増えた。
(……いや。最高の相棒だなって、思っただけだ)
素直な心音を伝えると、ナビ子は一瞬きょとんとし、それからほんのりと頬を桜色に染めた。
『――永久保存。アカシックレコードの最重要情報セグメントに保管しました。バックアップも5箇所に分散して保存完了』
(おい、やめろ。なんか知らんけど、無駄遣いして良いモノじゃないだろ)
俺たちのやり取りなど露知らず、先輩は「帰ってきたぁ……!」と床に突っ伏している。カーペットの感触を確かめるように、頬を擦り付けていた。
エレオノーラは興味深そうに、部屋の中にあるテレビや、エアコンを眺めている。
『さて、マスター。一つ確認事項があります』
淡い金色の瞳の中に、高速で流れるコードの羅列が走る。
ナビ子がウィンドウを展開した。
『探索者ランキングのホーム設定ですが、異世界と地球、どちらにしますか?』
わずかにエコーがかかったような、電子的な合成音声で問われる。
(それって、どう違うんだ?)
『ホームに設定されていない側では、レベルアップやランク変動がリアルタイムで反映されません。次に向こうへ移動した際にまとめて更新されます。ホームに設定しておけば、どこにいても即時反映されます』
なるほど。
向こうでの活動も続けるつもりだが、生活の基盤はこっちに戻る。
(なら、地球でいいか)
『了解しました。設定を更新――完了』
ふと見ると、エレオノーラも虚空に向かって指を走らせていた。
ホームを変更する理由もないし、説明しなくても大丈夫だろう。
◇
都内某所、高級ホテルの最上階。
日本最強のパーティ『蒼天』のリーダーにして、『三柱』の一角。
《海神》の二つ名を持つ男――氷室 透は、視界に割り込んだシステム通知に眉根を寄せた。
「……また通知か?」
昨夜、突如として出現した正体不明の天鋼級。
その対応に追われ、徹夜明けの脳に鞭を打っている最中だ。
神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げ、画面を覗き込む。
そして、言葉を失った。
「……また、いきなり赫金級に到達しただと? 『六印魔姫』……? 昨日の剛神といい、どうなってるんだ?」
氷室の困惑など我関せずとばかりに、端末は無慈悲な事実を突きつけてくる。
その背後から、鈴を転がすような涼やかな声が鼓膜を叩いた。
「透さん、秘銀級にも一人、新規登録があったみたいですよ?」
振り返れば、紅白の巫女装束を現代風に着崩した美女――天宮 巫が、ソファに深く沈み込みながら告げる。
「あぁ……『原始人』だったか? そいつはレベル500台だし、別に変じゃないだろう。……それとも、何か天啓でもあったか?」
氷室が問うと、巫は曖昧に微笑み、首を横に振った。黒髪がさらりと流れる。
「いえ、そういうわけじゃないんですが……」
「なら、今は無視でいいだろう」
氷室は大きく肺の空気を吐き出し、スーツの襟を正した。
「……まぁ、一応政府には連絡しておくか」
一方、アメリカ――『自由の国』の探索者拠点。
《機械神》ジョン・スミスは、噛み砕いた葉巻を灰皿に叩きつけ、モニターを睨みつけていた。
「なんだこりゃ!? システムがイカれたんじゃねぇのか!?」
その横で、《超人》アダム・スタークが映画スターのような整った顔を引きつらせる。
「おいおい、冗談だろ? システムが壊れた? ……32年間、一度だってエラーなんて吐いたことないぜ? システムが間違っているわけないよ」
彼らはまだ知らない。
その震源地が極東の島国であることまでは。
だが、世界中のトップランカーたちの肌を、未知の異常事態への予感が粟立たせていた。
一方、その事実を知らされた各国の政府関係者たちの反応は、より深刻だった。
彼らにとって、天鋼級や赫金級はただの探索者ではない。
一人が動くだけで軍事バランスが崩壊し、小国程度なら数刻で地図から消せる『生きた戦略兵器』。
そんな怪物が、二体も同時に発生したのだ。
意味することは一つ。
世界の覇権構造そのものが、今日この日を持って変化したということだ。
◇
「ふぅ……」
肺いっぱいに空気を吸い込み、大きく伸びをする。
「あなた? 帰ったの?」
玄関の方から、女性の声が鼓膜を揺らす。
沙織さんだ。
隣で、先輩が弾かれたように立ち上がり、扉を開け放った。
「おぉ、ただいま。……客を連れてきたぞ」
先輩に促され、沙織さんがリビングに入ってくる。
俺の姿を認めた瞬間、彼女の瞳に光が宿った。
「湊さん! よかった……! 話は伺っていましたが、ご無事で本当によかったです」
「ご心配おかけしました。」
「いえ、主人のことも、助けていただいたみたいで」
「いえ、先輩がしてくれたことを考えれば、これくらい当然ですよ」
深々と頭を下げる。
と、沙織さんの視線が、俺の背後に佇む銀髪の美女に吸い寄せられた。
「あら、そちらの方は?」
エレオノーラだ。
ドレス姿の絶世の美女が、日本の一般家庭のリビングに立っているというシュールな光景。
先輩が気まずそうに頭をかいた。
「あー……その、俺が向こうで探索してて、死にそうになった時に世話になった奴でな。今はその……湊のパートナー? らしい」
語尾が疑問形なのは、先輩自身も納得していないからだろう。
俺は慌てて口を開く。
「いや、別にパートナーでは――」
「初めまして。エレオノーラと申します」
遮られた。
エレオノーラが一歩進み出る。
そして、流れるような動作で完璧なカーテシーを披露した。
「ミナトには、公私共にお世話になっております。以後、お見知り置きを」
その所作は、日本の大和撫子も裸足で逃げ出すほどに洗練されていた。
言葉遣いも、どこで覚えたのか完璧な敬語だ。
開いた口が塞がらない。
『どうやら、複製体が日本の一般的な礼儀作法と常識をインストールしたみたいですね。さすが私』
以前なら知っていても使うことはなかっただろう敬語を使っている。
これも長年超えられなかった壁が壊れたことで、性格が丸くなったおかげなのだろうか。
沙織さんは一瞬目を丸くしたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。
「まぁ、ご丁寧な挨拶をありがとうございます。妻の沙織です。ふふ、湊さんにこんな素敵なパートナーがいらっしゃったなんて」
「い、いや、違いますって! あくまで協力関係というか……」
「まぁまぁ、立ち話もなんですし、座ってくださいな。すぐにお茶……いえ、ビールの方がいいかしら?」
沙織さんは嬉しそうにキッチンへと消えてしまった。
否定するタイミングを完全に逸した。
エレオノーラが、俺の方を見てニヤリと悪戯っぽく口角を上げる。
◇
かくして、昼下がりのホームパーティが幕を開けた。
テーブルには沙織さん手作りの料理が並び、グラスには黄金色の液体が注がれている。
結露したグラスの表面を指でなぞり、持ち上げる。
「かんぱーい!」
グラスが触れ合う軽やかな音が響く。
喉を駆け抜ける冷たい刺激と、鼻に抜ける麦の香り。
美味い。
やはり日本のビールは格別だ。
空調の効いた快適な室温、身体を包み込むふかふかのソファ、そして何より、いつ死ぬとも知れない緊張感からの解放。
これこそが、俺が求めていたものだ。
「うわー、すっごい綺麗な人! 湊おじさんの恋人?」
ジュースを飲んでいた翔太君が、目を輝かせてエレオノーラを見つめている。
満更でもなさそうな女帝。おい、否定しろ、否定。
「違うよ。ただの知り合いだからね」
待っていても否定する様子がないので、代わりに答える。
「そっか。でもすっごく仲良さそうだね!」
翔太君の無邪気な言葉に、エレオノーラが「ふふっ」と嬉しそうに喉を鳴らす。
誰だ、コイツ。
(ナビ子、アドオンで洗脳したりしてないよな?)
『マスターは私を何だと思ってるんですか? やるわけないでしょう』
和やかな時間が流れる中、俺はふと、大事なことを思い出した。
「そういえば翔太君。おじさんが言った通り、パパは天鋼級になってただろ?」
ニヤリと笑い、翔太君を見つめる。
しかし、反応がない。
時が止まったように、リビングに静寂が落ちていた。
視界の端では、エレオノーラだけが唐揚げを咀嚼し続けている。
「……え? 湊さん? 今、なんて?」
「え、ですから、天鋼級って」
沙織さんが、聞き間違いではないことを確認するように瞬きを繰り返す。
翔太君は「えっ」と口をぽかんと開けたまま固まった。
先輩の表情が引きつり、箸を持つ手が止まる。空気がぴんと張り詰めた。
「いや、まさか先輩、伝えてなかったんですか?」
沙織さんの首が、ギギギ、と油切れの機械のような音を立てて夫へと向く。
先輩が滝のような脂汗を流しながら目を逸らした。
「い、いやー……自慢みたいで言いにくいだろ? 何年も帰ってこずに迷惑かけてんのによぉ……」
「そういう大事なことは、ちゃんと報告・連絡・相談してくださいって、前にも言いましたよね!?」
沙織さんがふと何かを思い出したように、テーブルの上のリモコンを掴んだ。
「そうだ……ちょっと待っててください」
親指が電源ボタンを押し込む。
画面が明滅し、ワイドショーのコメンテーターが映し出された。
扇情的な音楽と共にテロップが踊っている。
『昨日、突如現れた謎の天鋼級探索者の正体とは——!?』
アナウンサーが興奮気味に捲し立てる声が、リビングに響く。
『――現在も、その正体は特定されておりません。政府関係者の発表によりますと、昨日未明、世界で11人目となる天鋼級探索者が誕生したとのことです。しかし、既存の赫金級などの上位ランカーからの昇格ではなく、突如としてランキングに出現したとの情報もあり、一部の専門家の間では「システムの不具合ではないか?」との声も上がっております』
「朝テレビをつけたらどこもこの話題ばかりで……あなたってこと?」
沙織さんの視線が、逃げ場を失った先輩を射抜く。
先輩は「うっ……」と呻き声を漏らし、視線を泳がせた。
しどろもどろに言い訳する先輩、状況を理解し無邪気に喜ぶ翔太君。
そして、それを肴にビールを煽るエレオノーラ。
騒がしくも温かい、日本の日常。
いやー、地球大好き。日本大好き。
だって、こんなに平和なんだもん。
――ギュイッ、ギュイッ、ギュイッ。
突如、リビングに神経を逆撫でするような不協和音が鳴り響いた。
それは、この国の人間なら誰もが知っている、日常崩壊の合図。
沙織さんのスマホから発せられる、緊急魔素速報の通知音だった。
おかえり、おじさん(激務)。
三章もクライマックスになってきました。
ブックマークや☆評価で背中を押してくださるあなたへ。
本当にありがとうございます。
この作品が続けられているのはあなたのおかげです。
評価をしていない人は、お好きなタイミングで構いません。
少しでも面白ければ評価を頂けると嬉しいです。
★は五個まで増やせます。




