第60話 おじさん、鍵になる
「俺が鍵だって?」
『はい、マスターは、エレオノーラが天鋼級に至るための突破口になり得ます』
視界の正面で、無数の光の粒子が収束する。
それらは瞬きする間に、小柄な少女の輪郭を結んだ。
俺の肩ほどの高さに浮かぶ、ナビ子のホログラムだ。
半透明の白いワンピースは残像のように揺らめき、銀色のショートボブが虹の縁を引く。
淡い金の瞳の奥、微細なコードが滝のように流れ落ちるのを見届け、彼女は静かに頷いた。
『そもそもマスターは、ランクアップに明確な「壁」が存在することをご存知でしょうか?』
「あぁ、才能がない奴はどれだけ頑張っても白金級になれないとか、前に教えてくれたよな」
『あれは、実は正確ではないのです』
ナビ子が、ちっち、と人差し指を振る。
『実を言うと、Lv.499――つまり白金級までは、経験値を集めさえすれば、システム的な制限なく誰でもランクアップできるのです。単に必要経験値が指数関数的に増えるため、凡人の寿命や精神力では届かないだけで』
「へぇ……そうなのか。じゃあ、それ以降は?」
『そこから先は、システムが設けた明確な『壁』が存在します』
ナビ子の説明によると、こうだ。
Lv.500、秘銀級の壁は『種族限界』。人の身を捨てるほどの強烈なエゴと、それに伴う肉体の再構築が必要となる。
Lv.800、赫金級の壁は『理』。世界に自分のルールを押し付ける『固有領域』の確立が必要。
『そして、Lv.1000、天鋼級の壁。この壁の名は『因果』とでも言いましょうか』
「因果?」
『はい。単に強いだけでは至れません。システムに対し、「自分は世界にとって代替不可能な象徴である」と認めさせる必要があります』
ナビ子が言葉を継ぐ。
『例えば、低レベルで格上の怪物を倒すジャイアントキリングや、大規模スタンピードを終息させるといった『神話的偉業』。そういった実績によってシステムに『英雄』として登録されることで、初めて壁が開かれます』
「エレオノーラが足踏みしてるのは、強さはあってもそういう『物語』が足りてないからか」
『その通りです。彼女はあくまでシステムの中で許された強者。世界を動かすほどの『運命力』が不足しているのです』
どれだけ剣を極めても、魔力を高めても、システムが「お前はここまでだ」と線を引けば、そこで終わり。
この世界の住人は、生まれながらにして見えない鳥籠の中にいるようなものなのかもしれない。
「前に聞いた時は、俺に壁はないって話だったよな?」
『はい。マスターには『自律進化』が付与されていますから』
彼女は、その華奢な胸を、大げさなほど誇らしげに反らせてみせる。
『このスキルは、システムによる判定をバイパスし、自己定義のみで成長する権限が与えられています。つまり、システムに認められる必要がなく、勝手に進化できるのです』
「そっか。……なぁ、じゃあみんなフルマニュアルで累積討伐数を確保して、自律進化を付与されればいいんじゃないか? そうすりゃ壁もなくなるんだろ?」
『……マスターは、探索者は全員死ねばいいとお考えで?』
淡い金の瞳。
その奥をさらさらと流れていたコードが、不意に凍りついたように途絶える。
無機質な光だけを宿した視線。それが眉間を射抜いた瞬間、喉の奥で言い訳が粘りついた。
首筋を伝う汗が急速に熱を奪い、指先から感覚が遠のいていく。
「いや、なんでだよ。そうはならんだろ」
『自分ができるからと言って、他人ができると思わないでください。現在のシステムは、安全に戦えるよう、長期間の最適化を経て提供されている究極の親切設計なのです。自律進化の資格を獲得できたのは、システム誕生以来、マスターを含めて四人しかいないということの異常さを理解してください』
ナビ子がさらに追い打ちをかけてくる。
『熟練のヨーガ行者は、自分の心臓の鼓動すらも意図的に制御できると言いますが、マスターは、それについてどう思います?』
「昔なら、そんなの無理だろって思ってただろうけど……」
『それよりもはるかに異常なことを、今マスターはやっているのだと認識してください』
……要するに、俺の完全手動操作の普及など、物理的に不可能だと言いたいのか。
反論を試みて唇を震わせる。
だが、絶対零度の視線を前に、言葉は音になる前に喉元で霧散した。
「……ま、まぁ、それはいいとして」
咳払いをひとつ、強引に話を戻す。
「運命力が足りないことが原因なら、俺にできることはないだろ?」
『いいえ、あります。『子機化』です』
「は? あれはダンジョン外での出力を上げるための機能だろ?」
子機化。
それは以前、村人たちのために導入したアドオン機能のことだ。俺を親機として接続することで、システム補正を持たない彼らでも、ダンジョン外で十全に戦えるようになる。
つい先日、村の男衆に付与したときの光景が、脳裏をよぎった。
だが、それがランクアップの壁とどう関係する?
『そちらではありません。全権限委譲の方です』
「経験値効率が良くなる機能がどうした?」
全権限委譲。
これも以前、村人たちにリスク込みで提案したオプションだった。
ナビ子に生殺与奪の権を握られる代わりに、本来システムに中抜きされている経験値を、直接流し込むことで成長速度を爆発的に上げるという荒業。
確かに凄い機能だが、それと「壁」の突破が結びつかない。
『経験値効率の向上は、全権限委譲によって可能になる「効用」の一つに過ぎません。本質は、私が対象のシステム領域を完全に掌握することです』
「で、フルアクセスだったら何ができるってんだ?」
『通常のアバターシステムが行う処理を全て代理実行できる権限。そのため、本来吸収して即座に反映されるはずの経験値を、一時的にストックしておくことができます』
ナビ子が、ふわりと両手を広げる。
呼応するように、その掌の上で、光の粒子が渦を巻いた。
奔流を堰き止め、ダムを築くかのような手つきだった。
『そして、一度に大量の経験値が流入するということは、それだけ強力なモンスターを浄化したということ。つまり――』
「つまり、大物殺しを成功させたってシステムの判定を誤認させるんだな」
先回りして答えると、ナビ子は不服そうに頬を膨らませた。
『……はい』
「拗ねんなよ」
『別に拗ねてませんけど。聡明なマスターのことですから、当然デメリットもお分かりですよね?』
金の瞳が、俺を試すように細められる。
大量の経験値を集めるのが大変ってことか?
だが、ここで答えるのは得策じゃない。素直に頼って、機嫌を直してもらうのが吉だ。
「分からねぇ。優秀なサポートにして、最高の相棒が教えてくれると助かるんだが」
『……ふふん、仕方ないですね』
チョロい。
ナビ子は機嫌を直し、人差し指を立てた。
『システムをごまかすために、通常ではありえない量の経験値をストックする必要があります。』
肺の奥から、小さく息が漏れた。
得心と、予想通りの徒労感。
システムを欺く「偽の偉業」の捏造には、相応の対価が求められる。
そして、それだけの経験値を稼ぐための時間と労力は、想像するだけで胃が重くなるほどだ。
……まぁでも、「どれだけ経験値を集めてもどうしようもない」よりは遥かにマシか。
少なくとも、努力すれば道は開ける。それは俺にとっても、エレオノーラにとっても希望だ。
「……なるほどな。教えてくれてありがとな」
『いえ、唯一無二の相棒である私の仕事ですから』
満足げな微笑みが返ってくる。
だが、胸の奥には未だ小さな棘が残っていた。
「でも、エレオノーラに自律進化のこととか伝えていいものか? 危険じゃないか?」
『大丈夫だと思います。マスターは常識がないため分からないと思いますが、この世界において高ランクの壁を超える手段を持っているということは、神にも等しい存在です。何にも代えがたい報酬になります』
「そうなのか? でも、フルアクセスで生殺与奪を握られるのって嫌じゃねぇか?」
『それはそうかもしれませんが、上を目指しているのにランクアップできないというのは、彼女のような手合いにとって死んでいるも同然です』
淡い金の瞳。そこに宿るのは、揺るぎない確信の色だ。
それがAIとしての予測演算が導き出した解なのか、あるいは彼女自身の「感情」なのか。
今の俺には判別がつかない。ただ、鼓膜を震わせたその声には、理屈を超えた熱量が確かに宿っていた。
『悪いようにはならないと思います。私のことを信じてください』
ここまで自信をもって言うんだし、大丈夫だろう。
エレオノーラが村に来たら、その時にちょっと提案してみるか。
まぁ、いつ来るかは分からんが。
方針は定まったが、神経は妙に冴えたままだ。
レベルの上昇に伴い、睡眠は生理的な必需品から嗜好品へと変貌を遂げつつある。
とはいえ、長年の習慣を捨てる理由にはならない。
こうした無駄こそが、俺をまだ「人間」の枠内に繋ぎ止める楔のように思えるからだ。
意識の奥底へ、イメージの手を伸ばす。
思考のスイッチを掴み、強制的に切断した。
視界の中で暗い天井の輪郭が滲み、次の瞬間、意識は深い泥のような眠りの底へと沈んでいった。
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