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第06話 完全手動(フルマニュアル)おじさんは、人助けをする

 上野公園の夜気は、湿った土と排気ガスの臭いが混ざり合っている。

 その奥に口を開ける、巨大な地下空洞への入り口。

 上野 不忍池ダンジョン。


 顔見知りの協会職員に軽く会釈し、着慣れた作業服に着替えた俺はIDをタッチし、ゲートをくぐる。

 いつもなら、ここで軽い世間話の一つも挟むところだ。

 だが、今日は足を止める気になれない。


『マスター、心拍数が平常時より12%上昇しています。なんか怒ってますか?』


 視界の隅に浮かぶナビ子が、心配そうに覗き込んでくる。

 言われて初めて、自分の呼吸がわずかに浅くなっていることに気づいた。

 ……違うな。怒りだけじゃない。

 昨日の今日で、体が「戦闘」を求めている。アドレナリンの分泌量が、意識の制御を離れて微増しているのだ。

 俺は深呼吸を一つ。横隔膜を意識的に下げ、副交感神経を刺激して数値を強制的にフラットに戻す。


「……別に」


 短く返し、俺は浅層エリアへと続く大通路を歩き出した。

 壁面の発光苔が、青白く明滅している。

 前方から、スライムのぴちゃぴちゃという粘着音が聞こえてきた。

 いつもの「職場」だ。

 本来なら、この辺りで手頃なスライムを見繕い、核を摘出して小遣い稼ぎを始めるところだが。


 だが、俺はそのエリアを素通りした。


『マスター、スライムさんたちは無視ですか? あそこのブルー・スライム、核がプルプルで美味しそうなのに』


「今はそれどころじゃないだろ」


『ですよねぇ。崩落地点のエネルギー反応、微弱ですが継続してますし』


 ナビ子の戯れ言を聞き流し、俺はさらに奥へ。

 中層へと続く、急勾配の階段を下りていく。


 ナビ子によるとダンジョンの崩落は、単なる自然現象じゃない。

 構造自体の書き換えが行われているらしいのだ。

 通常、それはもっと深い階層、あるいは未踏破領域で起きる。

 中層で起きることは、異常事態。


 なら、その影には「イレギュラー」が潜んでいる。

 3年前のあの日と同じように。


(……いるのか?)


 俺は作業服のポケットに入れた手を、強く握りしめた。

 指先が、冷たく湿っている。

 さっきの路地裏の感触が蘇る。

 生身の人間を消した感触と、これから狩るモンスターへの殺意。

 その境界線が、自分の中でひどく曖昧になっている気がして、怖気が走る。


 もし、あいつが。

 先輩を喰らった「境界を蝕む魔蟲きょうかいをむしばむまむし」が、また現れたのだとしたら。


「……掃除だ」


 吐き捨てるように呟く。

 これは復讐じゃない。

 ただの、危険因子の排除だ。ゴミ掃除の延長戦だ。

 そう自分に言い聞かせないと、胸の奥で煮えたぎるドス黒い何かが、理性を焼き尽くしそうだった。


          ◇


 中層エリア「腐食の回廊コロージョン・コリドー」。

 その名の通り、酸性のカビが壁を覆い尽くす、陰湿な迷路。

 鼻をつく刺激臭。

 換気システムが死んでいるのか、空気が澱んでいる。


 不意に、風に乗って鉄錆のような臭いが流れてきた。

 血だ。

 それも、モンスターのものではない。人間の、生臭い血の臭い。


『マスター、戦闘音を確認。……どうやら撤退戦をしているようです』


「……チッ」


 盛大な舌打ちが漏れる。

 嫌な予感ほど、よく当たる。

 俺は足音を殺し、慎重に角を曲がった。


 そこは、袋小路になった広場だった。

 壁際に追い詰められているのは、男女四人のパーティ。

 見覚えがある。昨日、16層に到達するとゲート前ではしゃいでいた連中だ。


 だが、今の彼らに当時の覇気はない。

 光を反射させていた銀色のフルプレートアーマーは汚れ、盾は機能を果たせるのか疑問なほどひしゃげ、肩からは大量に出血している。

 魔法使いの女はMPが尽きたのか、青ざめた顔で杖を握りしめて震えていた。

 残りの二人も似たり寄ったりだ。

 目には、濃密な死への恐怖が張り付いている。


 彼らを取り囲んでいるのは、三体の巨躯。

 豚の頭に、丸太のような腕。

 オークだ。

 だが、通常の個体とは違う。

 皮膚がどす黒く変色し、全身からオレンジ色の瘴気を立ち上らせている。

 筋肉が異常に膨張し、皮膚を突き破って骨が露出していた。

 涎を垂らした口は、常に何かを貪ろうとするように開きっぱなしだ。


暴食(グラトニー)異常個体(イレギュラー)……! しかも三体同時!? 推定レベル、各150前後です!』


 ナビ子が警告を発する。

 変異個体(イレギュラー)。人間の悪徳、負の概念に由来すると言われるモンスターの変異。

 オークは元々食欲旺盛な種族だが、この七つの大罪由来、オレンジの瘴気を放つ「暴食」の変異が起きたタイプは特に危険だ。

 接近するだけで探索者のMPやスタミナが異常に消費され、長時間戦闘が困難になる。

 システム補正に頼り切った中級探索者が、最も命を落としやすい相手の一つ。


「う、あぁ……くるな……!」


 剣士の男が、掠れた悲鳴を上げる。

 オークの一体が、巨大な棍棒を振り上げた。

 単純な、だが回避不能な暴力の塊。

 ガードごと叩き潰す気だ。

 その目。

 ただの食欲じゃない。もっと粘着質な、人間の「絶望」そのものを味わおうとするような、知性を帯びた卑しい瞳。


 見捨てる理由は、いくらでもあった。

 まず、大して彼らのことを知らない。昨日、ゲートの前で騒いでた才能ある若者ということくらい。

 彼らは俺のことを、認識すらしてないだろう。地味な作業服に鉄パイプ、どこからどう見ても現場の下見に来た工務店のおっさんだったからな。

 イレギュラー三体。レベル150程度の格下とはいえ、ソロで挑むのに、リスクがないわけじゃない。


 探索者は自己責任が原則。ここで見捨ててもなんの罪もならない。

 回れ右して、協会に報告すれば、十分「正解」だ。


「……ただまぁ、今日は崩落現場を見に行く予定だからな。ついでに、この辺りも確認しとくか」


 誰に言い訳するわけでもないのに、頭の中で勝手に理由を並べ立てる。

 聞く相手もいない。それでも、自分に納得させようとするように、理屈をこねる。


 深く、重い溜息をついた。

 肺の中の空気を全部入れ替えるような、長い溜息。


 無造作に歩み寄り、声をかける。


「おい。助けは要るか?」


 場違いなほど平坦な声。

 オークが動きを止め、ギョロリとした充血した目でこちらを向く。

 若手たちも、呆然と俺を見た。


 彼らの視線が、俺の服装――ヨレヨレの作業服と、手に持った黒い棒きれに注がれる。

 絶望の色が、さらに濃くなった。

 助けが来たと思ったら、迷い込んだ工事現場のおっさんだった。そう思ったに違いない。


「……っ! あ、あんた……!?」


 剣士の男が叫ぶ。


「逃げろ! おっさんじゃ無理だ!」


 自分の命も危ういのに、他人を気遣う余裕があるとはな。

 見所のある奴だ。


「た、頼む! 死にたくねぇ……!」


 別の男が叫ぶ。

 プライドも何もない、剥き出しの生存本能。

 それでいい。変に強がられるより、よっぽどマシだ。


「了解。じゃあ、引き付けておくから適当に逃げてくれ。こう見えても黄金級(ゴールド)だから、心配はいらない。守りながら戦う方がキツイ」


 手に持った黒ずんだ鉄の棒を、改めて握り直す。

 ホームセンターで売っているような、何の変哲もないバール。

 だが、その素材はダンジョン産の「黒鉄くろがね」を鍛え上げた特注品だ。


 俺はそれを片手でクルクルと回し、遠心力を確かめるようにブンッ! と空を切らせた。

 大げさなハッタリだ。

 だが、それくらいのパフォーマンスは必要だろう。


「ソロで黄金……級……?」

「嘘だろ、スキルの光も出てないのに……」


 若手たちが困惑している。

 構うもんか。


 ずしり、と手に馴染む重み。

 俺はそれを片手でぶら下げ、オークたちの前へと進み出る。


『マスター! 弱点属性の解析を急ぎます!』


 ナビ子が慌ててウィンドウを展開しようとする。


「要らん」


『え?』


「クソ虫を殺す前の、手慣らしだ」


 俺は地を蹴った。

 スキルによる加速ではない。

 重心移動と筋力のみによる、純粋なダッシュ。


 オークが反応する。

 棍棒が唸りを上げて振り下ろされた。

 風圧だけで顔の皮が歪むほどの衝撃。

 直撃すれば、ミンチになる。


 ――システム補正があれば、「回避スキル」が発動し、体が勝手に避けてくれただろう。

 だが、俺にそんな便利な機能はない。


 俺にあるのは、目と、足と、経験だけ。


 視界の中、オークの筋肉が赤く脈打つのが見える。

 上腕二頭筋の収縮。肩の回転角。棍棒のベクトル。

 脳内で、攻撃の軌道予測線ラインが赤く描画される。

 

 着弾点は、ここ。

 範囲は、半径一・五メートル。

 

 半歩、左へ。

 最小限の動きで、予測円の外へ出る。


 ゴォォォッ!


 鼻先数センチを、死の塊が通過していく。

 風圧で髪が乱れる。

 当たらないなら、ただの風だ。


『ヒッ!? ま、マスター!? 解析! 弱点は右膝の靭帯と、左脇腹の……!』


 ナビ子が早口で情報をまくし立てる。


「遅せぇよ、ナビ子。ま、お前のアルゴリズムはシステム準拠だからな」


 システムの解析より、俺の経験が弱点を導き出すほうが早い。


 ナビ子が解析を終えるころにはすでに、踏み込んでいた。

 振り下ろされた棍棒の上を駆け上がり、無防備になったオークの懐へ。


「見りゃわかる」


 暴食(グラトニー)イレギュラー特有の膨張した筋肉。

 その接合部。

 肥大化に骨格が追いついていない、歪な箇所。

 そこに、重心移動の運動エネルギーを全て乗せたバールを叩き込む。


 ゴッ、という鈍い音。

 硬い皮膚の上からでも、中の骨が砕ける感触が手に伝わる。


「ブギィィィッ!?」


 オークの巨体が、あり得ない方向に折れ曲がった膝から崩れ落ちた。


『え……? あ、あれ? 私の役割が……』


 ナビ子の間の抜けた声が聞こえる。

 悪いな。

 10年もスライムの核(数ミリの急所)をえぐり出し続けてきたんだ。

 こんなデカい的、外す方が難しい。


 残りは二体。

 倒れたオークを無視し、残りの二体へと視線を向ける。

 彼らは既に、俺を新たな獲物として認識していた。


 棍棒が二本、同時に振り下ろされる。

 左右から、挟み撃ちだ。

 連携している。やはり、ただの獣じゃない。


 後ろへ下がる。

 わざと、攻撃の衝撃がくるであろうギリギリを狙って。

 豚が棍棒を地面に叩きつけた衝撃が、地面からゾクゾクと全身に這い上がってくる。


「……っ!」


 若手の一人が、思わず声を漏らした。

 苦戦しているように見えているのかもしれない。

 彼らの目には、俺がスキルの光も纏わず、ただの棒きれで戦う無謀な人間に映っているはずだ。

 実際、攻撃を完全に回避しているわけではないからな。

 でもそれはあえて、だ。


 理由は簡単。

 オークの注意を完全に俺に集中させ、若者たちへの攻撃を止めさせるため。

 そして、逃げ道を確保するため。


 オークたちを壁際へと誘導し、袋小路の出口側に逃げ道を作った。


 棍棒がまた振り下ろされる。

 俺はそれを、最小限の動きでかわす。

 慣性を無視したような急停止と急加速。関節の悲鳴を魔力強化で無理やりねじ伏せる、マニュアル特有の挙動。


「さ、もう行けるだろ?」


 小声で、若者たちに告げる。

 一瞬、戸惑った様子を見せたが、すぐに理解したらしい。

 剣士の男が、仲間たちに手を振る。


「……すまない! 後で必ず、礼を!」


 剣士の男が仲間たちに手を振る。


「あんた、一体何者なんだ……!?」



 俺を残して出口へと走り出す。

 一体が、彼らを追おうと体を向ける。


 だが、その瞬間。

 俺がバールを地面に叩きつけ、大きな音を立てた。


「おーい、豚、こっちだぞ」


 オークの注意が、完全に俺へと戻る。

 二体とも、棍棒を構え直し、俺へと向き直った。

 その瞳に、明確な苛立ちと殺意が宿る。


 無事に逃げれたことを確認し、残りの二体と向き合う。


 さて、そろそろ本気を出そう。

 未来ある若者たちを救えたんだ、休日出勤した甲斐があったかもな。


 オークの一体が、棍棒を振り上げる。

 しかし、起こりを見切った瞬間に、すでに動いていた。

 重心を低く落とし、地面を蹴る。

 風を切る音。一瞬でオークの懐へと滑り込む。


 棍棒は空を切り、代わりにバールが、オークの喉元を貫く。

 硬い皮膚も、骨も、全てを貫通する一撃。

 豚のくせに、信じられないという表情で目が見開かれる。モンスターごときが人間みたいな表情をすんなよ。


 そのまま、体を回転させる。

 倒れかかる豚男(オーク)の体を支えに、もう一体へと跳ぶ。

 棍棒を振り下ろそうとしている途中で、バールが頭蓋骨を砕く。


 ゴッ、という鈍い音と共に、巨体が崩れ落ちた。


 ーーあと一体。


 最初に膝を壊したオークが、まだ地面で這い回っている。

 折れ曲がった膝では立てないが、棍棒を掴んだまま、突如現れた怨敵を睨みつけている。


 俺は静かに近づき、豚を屠る。

 戦闘が終わったことを確認し、バールを振り払い、血糊を落とす。

 肩で息をする必要もない。心拍数は、設定値通りだ。


 だが、違和感がある。


 オークの死体が、消えてない。


 通常、モンスターを倒すと、光の粒子となって霧散し、数秒で死体は消滅する。

 後に残るのはドロップ品だけ。

 システムが、死体を自動的に処理する仕組みだ。


 なのに、三体のオークの死体は、そのまま地面に横たわっている。

 血も、内臓も、全てが残されたまま。

 光の粒子なんて欠片もない。

 代わりに、鼻を突くのは胸が悪くなるような甘ったるい瘴気。

 まるで古びた排水管の底に溜まったヘドロのような、重く、粘りつく臭いだ。


 傷口からは、赤い血ではなく、ドス黒い泥のような液体が染み出している。


「どうしてだ?」


 眉をひそめ、死体を見つめる。

 これはバグか? それとも――システムの外側にある現象なのか。

 背筋に、冷たいものが走った。


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