第53話 計算外の恐怖
エレオノーラの転移魔法で一瞬にして移動した先は、見覚えのある峡谷――廃棄地域だ。
乾いた風が吹き抜ける無人の荒野。ここなら、どれだけ暴れても誰にも迷惑はかからない。
「……ふぅ」
肺の中の淀んだ空気をすべて吐き出し、荒野の乾いた風を吸い込む。
本来なら、ダンジョンの外へ出た瞬間に感じるはずの「出力低下」がない。
自律進化のおかげだ。
(……これなら、勝算はあるか?)
問いかけると、脳内でナビ子の冷静な声が響いた。
『慢心は禁物です、マスター。確かに前回より成長していますが、基礎となるエネルギー総量には、依然として埋めがたい差があります。短期決戦でなければジリ貧ですよ』
(そうか。じゃあ最初からフルパワーで行くか)
口の端を吊り上げ、バールのグリップを強く握り直す。
同時に、腹の底に押し込めていた熱を一気に解放した。
肋骨を内側から叩く心臓の拍動が、周囲の空気を震わせる。
俺を中心に不可視の波紋が広がり、足元の砂礫が重力から解き放たれたように浮き上がった。
魔力だけじゃない。意思そのものが質量を持って、周囲の空間を侵食していく感覚。
「……へぇ」
十メートル先。
エレオノーラが、興味深そうに目を細めた。
その背後には、六基の魔導兵装が扇状に展開されている。
ダンジョンの外に出たことで、彼女の出力は十分の一以下まで落ちているはずだ。
だが、肌を刺すプレッシャーは一向に軽くなっていない。
魔力の総量が減っても、その中心にある芯のようなものが一切揺らいでいないのだ。希釈されてなお、触れれば即死すると本能が警鐘を鳴らす、純度の高い殺意。
皮膚の産毛が微弱な電流を受けたように逆立ち、空気が鉛のように重くのしかかる。
これが、赫金級上位。
世界最高峰の探索者が放つ、混じりけのない“格”の圧力。
「準備はできましたか? 舐めてたら怪我しますよ」
「……生意気な口ね。その減らず口ごと消し炭にしてあげるわ。あぁ、安心して死んでも生き返らせてあげる」
赤い瞳の奥、嗜虐の炎が揺らめきながら灯る。
白魚のような指先が、指揮者のように優雅に持ち上げられた。
それが、開戦の合図だった。
◇
初手は、光の雨。
上空に展開された無数の魔法陣が、一斉に輝きを放つ。
降り注ぐ熱線。回避行動など取る隙間もない、視界すべてを白く塗り潰す飽和攻撃。
――だが、隙間はある。
さっき、先輩との戦いで見せられたばかりだ。
あの時は山を消し飛ばす極大魔法だったが、今は規模が十分の一以下に落ちている。
弾幕の密度も、熱量も、今の俺なら「視える」。
一歩、前へ。
迫る光の奔流に対して、身体を垂直ではなく、水平に滑り込ませる。
熱の舌が頬を舐め上げ、髪が炭化して焦げる臭いが鼻をつく。
だが、エレオノーラの手は止まらない。
光の雨を抜けた瞬間、死角から不可視の魔力刃が襲いかかった。
三つ、いや四つ。
回避すれば足が止まる。
左肩を前に出し、魔力コーティングした筋肉で刃を受け止めた。
肉が裂ける音。鮮血が舞う。だが、骨という防壁までは届かせない。
「っ……!」
焼けるような痛みを推進力に変えて、加速する。
足元の岩を砕き、その反作用でさらに前へ。
「あら?」
エレオノーラの表情に、わずかな驚きが浮かぶ。
彼女の指が再び動いた。
今度は防御壁。透明な障壁が、俺の進路を塞ぐように三重に展開される。
止まらない。
バールを逆手に持ち替え、障壁の「継ぎ目」――魔力構成がもっとも薄い一点を、渾身の力で叩いた。
耳障りな金属音が鼓膜を裂く。
衝撃が手首を駆け上がり、骨がきしむ音が内耳を打つ。
血管が破裂しそうな負荷。
だが、障壁にはヒビが入った。
一枚、二枚、三枚――すべてを貫通し、ガラス細工のように粉砕する。
破片が陽光を反射して舞う中を、さらに加速した。
(俺の動きは、速いわけじゃない)
身体能力で言えば、俺は依然として彼女に劣る。
魔力量も、火力の桁も違う。
頼みの綱は、「認識」の速度だけ。
ナビ子のサポートによる超高速演算と、俺自身の経験則。
二つの並列思考が、脳漿を沸騰させるほどの熱を発しながら、エレオノーラの「思考の先」を読み取る。
彼女が魔法を構築する0.1秒前。
その予備動作――視線の動き、指の角度、魔力の揺らぎ――を捉え、先回りして動く。
一瞬でも読み違えれば即死だ。鼻腔から鉄錆の匂いが溢れ出す。だが、拭う刹那さえ惜しい。
「ちょこまかと……!」
エレオノーラの声に、苛立ちが混じる。
六基の兵装が、扇の要を閉じるように一斉に俺を向く。
放たれたのは追尾性能を持った魔力弾だ。
すべてを躱すのは不可能。
俺は致命傷になる弾道だけを見極め、バールの平らな部分で側面を叩く。
爆発させずに軌道を逸らす。だが、弾かれた弾頭が頬をかすめ、皮膚を焼いていく。
――いける。
距離、あと十メートル。
エレオノーラの瞳が揺らいだ。
彼女の脳内で、「当たるはずの攻撃」が外れ、「防げるはずの防御」が破られていることへの困惑。
その思考のノイズこそが、俺が狙っていた最大の隙だ。
一歩。
踏み込んだ瞬間、鼓動の音が不自然なほど引き伸ばされた。
舞い散る砂礫が空中で静止し、光の粒子の軌道が一本の線として網膜に焼き付く。
太腿の筋肉が悲鳴を上げ、筋繊維が断裂する湿った音が内耳に響く。構うものか。
全神経、全魔力、全存在を、ただ一点の「勝利」へ叩き込む。
エレオノーラが反応するより速く、彼女の懐へ潜り込んだ。
無防備な喉元。
そこへ、バールの先端を突き出す。
殺すつもりでなければ届かない。
その切っ先が、白く細い首筋に触れようとした、その瞬間。
「――ひっ」
エレオノーラの喉が痙攣し、引きつった音が漏れる。
赤い瞳が見開かれ、初めてその奥に「怯え」の色が走る。
直後。
思考も技術も介在しない、純粋な拒絶が世界を塗り潰した。
「――嫌ッ!!」
爆発。
そう表現するしかなかった。
彼女の全身から、制御を失った魔力が津波となって噴き出したのだ。
熱ですらない。質量を持った衝撃波。
防御など意味をなさない。
「ぐ、ぁ……!?」
俺の体は、木の葉のように吹き飛ばされた。
地面を何度もバウンドし、岩盤に叩きつけられる。
背骨が軋み、肺の中の空気が強制的に排出された。
「かはっ……、ごホッ……」
土埃の中で、身を起こす。
全身が痛む。だが、骨は折れていない。とっさに魔力で膜を作ったおかげだ。
手の中を見る。
バールは――無事だ。衝撃の瞬間、とっさに魔力を流して強度を上げていたのが功を奏したらしい。これだけは、壊すわけにはいかない。
顔を上げる。
土煙の向こう、エレオノーラが腕を組んでこちらを見下ろしていた。
表情は、いつもの不遜な女帝そのものだ。
だが、その指先が――組んだ腕に食い込むほど強く握られていることに、本人は気づいていない。
「くそ。行けると思ったんだが……」
口の中に鉄の味が広がる。
完敗だ。
あの爆発は、彼女の防衛本能そのもの。
理屈も駆け引きも通用しない、圧倒的なエネルギーの質量差。
それに、もう身体が動かない。
奇襲失敗の代償は重く、オーバーヒートした筋肉が痙攣し、指一本動かすのも億劫だ。
これ以上、戦いを続けるのは物理的に不可能だった。
数分、いや数秒あれば回復して動けるようになるかもしれない。
だが、あの女帝様がそんな隙を見逃してくれるとは思えない。
次の一手は、手加減なしの全力全開が来るだろう。今の俺の「器」では、どうあがいても消し炭になる未来しか見えなかった。
◇
「……まぁ、悪くはなかったわ」
どれほどの沈黙があっただろうか。
エレオノーラが、平静を取り繕った声で言った。
だが、その声はわずかに上擦っている。
彼女は宙を滑るように近づいてくると、俺の目の前で止まった。
見下ろす赤い瞳。
そこにはもう、以前のような「路傍の石」を見る冷徹さはない。
あるのは、理解できないものを解剖しようとするような、粘着質な光。
「名前は、なんていうの?」
「……湊です。湊圭介」
「ミナト。……そう」
彼女は俺の名前を口の中で転がすように復唱した。
それから、俺の胸元――心臓のあたりに、そっと指先を伸ばす。
触れるか触れないかの距離。
指先から伝わる微かな震え。
「中々面白いわね、貴方」
唇が艶然と歪む。
それは獲物を見つけた猛獣のようでもあり、新しい玩具を見つけた子供のようでもあった。
背骨の髄液が、一瞬で凍結したような錯覚。冷気を直に浴びた時のような、生理的な拒絶反応だ。
質の悪いナニカにまとわりつかれたような感覚。
「覚えておくわ、ミナト。……またね」
エレオノーラは背を向け、浮上する。
去り際、彼女の背中の兵装が楽しげに揺れた気がした。
◇
彼女の姿が見えなくなるのを見計らって、俺はその場へ座り込んだ。
緊張が解けたせいではない。
手の震えが、止まらないのだ。
指先が痙攣し、バールを取り落としそうになる。
筋肉が熱を持ち、内側から焼かれるような感覚。
「……ガタが来てるな」
不意に、影が落ちた。
いつの間にか、先輩が隣に立っていた。
俺の震える手を見て、静かに告げる。
「強くなったな。相変わらず、気持ち悪い動きだったが」
「……うるさいですよ」
「まぁ、あれでも赫金級の上澄みにいる化け物だ。ステータスだけじゃなく、戦闘経験もお前の何十倍もある。今のお前が食らい付けただけで、すげぇよ」
「……はい」
頭では分かっている。
善戦した。大金星だ。客観的に見れば称賛に値するだろう。
だが、胸の奥から湧き上がるのは、焼けつくような悔しさだけだ。
視界が滲む。
泣くつもりなんてないのに、熱いものが目の裏側を圧迫する。
「おい、泣くなよ。ったく……負けず嫌いなところは変わってねぇな」
頭に、大きく温かい掌が乗せられた。
先輩が、呆れたように、けれどどこか嬉しそうに俺の髪を乱暴にかき回す。
――久しぶりの感覚だった。
そういえば、俺はもともとこんな奴だった。
いい歳こいて、ガキのように一喜一憂して、泥だらけになって。
先輩がいなくなって、復讐に囚われて、淡々と作業をこなすだけの日々ですっかり忘れていたが――この焼けつくような熱こそが、俺の原動力だったはずだ。
「そういや、お前にアイテムのお礼をしてなかったな」
ふと、先輩が思い出したように言った。
「廃棄地域ならもらいましたけど」
「ありゃスタンピードの報酬だろ。レジェンダリーの代わりにはなんねぇよ。……武器やアイテムをやってもいいんだが、今のお前にはそれよりもっと良いモノがある」
「良いモノ?」
「あぁ。この国……いや、それより遥か昔に存在していた古代王朝から伝わる、専用の修練場だ」
先輩の視線が、峡谷のさらに奥、深い闇の方角へ向けられる。
「造ったのは、最低でも神紅鋼級の神格。……恐らく、身内を鍛えるために造ったものが残ってるんだ」
神格が作った、身内用の修練場。
その言葉だけで、武者震いが起きる。
レベル上限の解放。種族進化。そして、まだ見ぬ未知の領域。
そこに行けば、確実に強くなれる――そんな予感が、オーバーヒートした体を内側から突き動かす。
「――通称『神代の坩堝』」
先輩は不敵に笑い、俺の背中を良い音を立てて叩いた。
「そこでお前は、人間を辞めてこい」
◇
魔導帝国ゼノビア。
その皇城の最奥。
「っ……」
皇帝の居室に辿り着いた瞬間、エレオノーラの膝が床に音を立てて崩れ落ちた。
背後の魔導兵装が光を失い、宙に溶けるように消滅する。
呼吸が浅い。視界の端が明滅している。
指先がしびれるほどの魔力欠乏。
「はぁ……はぁ……、ギリギリ、じゃない……」
自嘲するような声が、広い部屋に反響する。
本当はギリギリですらなかった。
もしもあの時、ミナトの攻撃を受けていたら。
もしもあの時、全魔力を放出して拒絶していなければ。
今頃、この首は胴体とさよならをしていたかもしれない。
「……ありえないわ」
エレオノーラ・ゼノビアは魔導の天才だ。
魔神の血を濃く引き継ぎ、生まれた瞬間から「最強」を約束されていた。
魔力操作において、並ぶ者はいない。
匹敵する者は愚か、「凄い」と思える者すらいなかった。この二百年間、ただの一人も。
――なのに。
「あんな……デタラメな……」
思い出すだけで、指先が震える。
あの男の魔力操作は、二百年かけて磨き上げた魔導への冒涜であり――同時に、見たこともないほど流麗で、美しいものだった。
それでいて、戦い方はあまりにもデタラメだ。
こちらの計算をことごとく裏切り、魔法の「継ぎ目」を叩き、飽和攻撃の「隙間」を縫い、死角からの刃を「身体」で受け流したのだ。
たかが数十年しか生きていない人間が。
ステータスも、自分より遥かに劣る存在が。
どうしてあんなにも、鮮烈な「命」の輝きを放てるのか。
「……ふふ」
唇から、笑みがこぼれた。
抑えきれない歓喜が、枯渇したはずの魔力回路を熱く焦がしていく。
面白い。
あんなに面白い存在は見たことがない。
ヴィクターも規格外だったが、あれは最初から強かった。
けれどミナトは違う。
最初は指一本動かせない弱者。それが、いつの間にか喉元へ牙を突き立てるまでになった。
「……わかった。これが、神祖様が与えてくれた天啓って奴なのね」
あのデタラメな男から学べば。
あの男を解析し尽くせば。
超えられるかもしれない。
数百年間、眼前に立ちはだかっていた天鋼級の壁を。
「……待ってなさい、ミナト」
エレオノーラは立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
遥か彼方、廃棄地域の空を見つめる。
赤い瞳の奥で、昏い情熱の炎が揺らめいた。
「あなたは私のものよ。骨の髄までしゃぶり尽くして、私の糧にしてあげる」
世界でもっとも歪で、もっとも純粋な求愛の言葉が、誰もいない部屋に溶けていった。
おじさん、逃げてー!!!
いつも★★★★★評価での応援ありがとうございます。
まだの方はぜひともご評価お願いします。




