幕間 クラッシャー凛、黄金へ
講義のプリントを開いているのに、文字は水面みたいに揺れて読めない。
「うーん、やっぱり集中できないなぁ……」
吐いた息がプリントをわずかに持ち上げる。指先は、勝手に机の端を探っていた。
次に触れるのはペンじゃない。冷たい金属の輪郭だ。
机の隅に立てかけたバールへ、視線が吸い寄せられる。
「よし、探索に行こうっと」
◆
ダンジョン入口のゲート前は相変わらず賑わっていた。
これから探索に潜ろうという人たちは、やけに“強い形”をしている。
厚いブーツ。大きい鞄。装備の金属音。背中に背負う刃物の輪郭。
そこへ私は、ジャージの上から安いプロテクターを着て、バールを背負って来た。
視線が刺さる。面白がる視線も、値踏みの視線も、混ざっている。
「おや、渚さん」
名を呼ぶ声は落ち着いていて、騒がしい入口でも輪郭が崩れなかった。
振り向くと、お世話になっている先輩探索者が立っている。
艶のある黒髪をきっちりポニーテールに束ね、引き締まった体に黒基調の戦闘服。胸当てや籠手だけが、和装みたいに軽く噛み合っている。
穏やかな茶色の瞳が、背中のバールを一瞬だけなぞって、すぐ私の顔へ戻った。視線の切り替えが早い。
私がバールで探索をしているのを見かけて、「本当にそれでいくんですか?」と心配してくれたのが彼女だった。
以来、修理屋を紹介してくれたり、変な目で見られる私をさりげなく庇ってくれたり。おかげで、こうして挨拶できるくらいには顔馴染みになれている。
「あ!おはようございます」
「はい、おはようございます。今日で……えっと、今週五回目ではないですか?」
「はい」
「お節介かもしれませんが大学の方などは大丈夫なんでしょうか?」
「……単位は、取り直せますから」
言いながら、喉の奥が乾いた。
そう、単位なんていつでも取り直せる。
しかし、自分の中に燻るこの熱が、いつか失われてしまうんじゃないか、そう思うと講義に集中できないのだ。
「そうですか。……慣れてきたころが一番危険ですからね。命を最優先に探索してください」
「はい!」
私はゲートへ向かった。
背中のバールが、歩くたびに肩甲骨を叩く。重い。それが、いい。
軽かったら、また“奪われる側”に戻りそうだった。
◆
浅層は、音が多い。
水の滴る音。誰かの足音。遠くで鳴る金属の衝突音。モンスターの爪が石を掻く音。
息を吸うたび、湿った空気が鼻腔にまとわりつく。
最初の頃は、その全部が怖かった。
耳を塞ぎたくなるのに塞げない。肩が上がり、呼吸が薄くなる。視界が、きゅっと狭まる。
だから私は、最初に呼吸を数えた。
吸って、吐く。吐く方を長くする。
肺が少しずつ柔らかくなると、音の輪郭が整っていく。
曲がり角の先で、小型の魔物が動いた。
影が先に見える。次に、爪の音。最後に、形。
私はバールを前に出した。刃を立てるのではなく、棒として水平に構える。
――当たる。
最初の一撃は、驚くほど簡単に当たった。
システム補正。そう説明された“当たりやすさ”が、私の腕をわずかに導く。
自分の意志より先に、骨格が勝ち方を選ぶ感覚。
でも私は、そこで止めた。
当たるだけじゃ、足りない。
当たって終わるのは、殴り合いだ。私は殴り合いがしたいんじゃない。
バールの先を、喉ではなく肩へ寄せる。
支点を作る。押す。引く。捻る。
魔物の関節が、嫌な角度で、ずれる。
そこで初めて、相手の動きが止まった。
私は息を吐き、次の一撃を小さく入れる。
大きく振らない。大きく振ると、私は怖くなる。
小さく、確実に、壊す。
◆
数週間。
いや、体感ではもっと短い。
ゲート前での視線の種類が変わっていった。
装備が変わったわけじゃない。顔つきも、多分そんなに変わっていない。
変わったのは、帰ってくる回数と、持って帰る素材の重さだ。
換金所に並べる素材は、最初は掌に収まる程度だった。
しかし、徐々に大きな袋が必要になり、ついにはレベル100を突破して、インベントリが使えるようになった。
通常、レベル100を超えるのは3年以上かかると言われている。
しかし、私は圧倒的な速度で黒鉄級から白銀級を駆け抜けていった。
きっかけは、事故みたいなものだった。
ある日、浅層の探索中、私は見てはいけないものを見た。
天井の脆い岩盤に張り付いていた、見たこともない大きさの薄灰色をした蜘蛛。
一目見た瞬間、胃の底が上に押し上げられた。
足元の石が、急に遠くなる。膝の関節が、重りを付けられたみたいに固まる。
呼吸が、途中で止まった。吸い込んだ空気が、肺の奥で詰まって出てこない。
大きい。浅層で見る蜘蛛の、三倍はある。脚の関節が、人間の腕みたいに太い。
薄灰色の甲殻が、発光苔の青白い光を拾って、ところどころ紫がかって見える。金属みたいな光沢。
後で調べたら、中層にいるはずのモンスター。それも、特徴的な薄灰色は「孤独」に由来する変異種の証だったらしい。
気づかれる前に逃げよう。今すぐ、逃げなきゃ。
そう思ったものの、足が動かなかった。
命令は出ている。でも、筋肉が応えない。膝の裏が、糸で縛られたみたいに硬直している。
薄灰の脚が、ぴたりと止まった。
次の瞬間、甲殻の影がこちらへ向く。
飛び掛かられたら、距離が潰れる。
近寄られるのが、いやだった。
私は無我夢中でバールを投げつけた。
狙ったのは蜘蛛じゃない。頭上にあった、岩盤の根元の割れ目だ。
投げたバールの爪が、割れ目に食い込む。
金属が、岩に食い込む音。次の瞬間、割れ目が広がる。
天井の岩盤が、轟音と共に崩れ落ちた。
巨大な石塊が、空中の蜘蛛を直撃する。
甲殻が砕け、悲鳴のような音を上げて蜘蛛が潰される。
崩落の衝撃で、バールが落ちてきた。私はそれを拾い、動かなくなった蜘蛛の頭に、震える手で確認の一撃を入れた。
その直後だ。
身体の奥が、沸騰したみたいに熱くなったのは。
レベルアップ。
それも、一つや二つじゃない。格上の変異種を単独で、それもレベル差がある状態で倒したことによる、異常な経験値の流入。
ズシリと重かったバールは、木の棒みたいに軽い。
見えなかった敵の予備動作が、スローモーションに見える。
幸運だった。
でも、笑えない。
自分の器じゃない熱が、勝手に体の奥へ注ぎ込まれていく感覚。
それが、私の“進み方”を歪めて加速させた。
◆
ある日、いつものようにゲートへ向かうと、黒いレンズが先にこちらを向いた。
次に、カメラを持った男たちが輪を狭めてくる。
笑い声が混ざる。路地裏の男たちのそれと、音の質が似ていた。
「はいどうもー! 本日は、不忍池ダンジョンに潜る“バール女”を取材しに来てまーす!」
「カズ君、丁度いいところに居たよ!」
「ウケる。俺らやっぱりついてるな、絶対再生回るだろ」
私の背中が、勝手に強張る。
「なんですか、あなたたち」
声が、少しだけ上ずった。
背中の強張りが、肩甲骨の間を広げていく。呼吸が浅くなる。
笑い声が、路地裏の男たちのそれと重なる。
――逃げる。
そう思った瞬間、記憶が戻ってきた。
あの日、路地裏で。私を襲った男たちを、一撃で倒したあの人。
「カス」と吐き捨てて、何の見返りも求めず去っていった、バールの男。
あの人は、怖がらなかった。
怖がらなかったから、強かった。
私は、背筋を伸ばした。
強張りが、少しずつ解けていく。代わりに、冷たいものが胸の奥に広がる。
「あ? なんだクソども」
声は、まだ少し震えている。
でも、震えを隠そうとしなかった。震えていても、言うことは言う。
男たちの笑顔が、一瞬だけ止まった。
「は? 今、なんて言った?」
「クソども、って言ったの。聞こえなかった?」
カメラを構えていた男が、眉を吊り上げた。
「おい、調子乗ってんじゃねーぞ。俺ら一応青銅級なのよ。わかる?まだ日の浅い君は黒鉄級でしょ? 逆らわない方が良いと思うけど?」
「はぁ、それで? どうでもいいから撮るのやめてもらえる?」
良かった。このバカたちは青銅級程度らしい。
それなら、距離を詰められても最悪は避けられる。そうやって自分を落ち着かせて、ゲートへ向かった。
「おい、ちょっと待てよ!」
「じゃあ許可が得られたということでついていこうと思いまーす!」
クソ男たちの声が、後ろから追いかけてくる。
でも、首の後ろを撫でるあの感触は、もう来ない。
ゲートをくぐる。
浅層の、いつもの湿った空気が鼻腔を満たす。
私は、いつも通り進んだ。
5層。6層。7層。
後ろから、男たちの声が聞こえる。
「おい、黒鉄級だろ? これ以上進むと危ないよ。俺ら助けられないかもよー?」
「調子に乗んなよ」
私は、無視した。
8層。9層。10層。
運がいいのか、悪いのか。
モンスターに、一度も遭遇しなかった。
「おい、ちょっと待てよ。モンスターに会わないからって調子に乗んなよ」
男の声が、少しだけ慌てている。
私は、そのまま11層へ進んだ。
――いた。
通路の向こうで、四足の魔物が動いた。
影が先に見える。次に、爪の音。最後に、形。
後ろで、男たちの足音が止まった。
「……ちょ、ちょっと待てよ」
「ここ、11層だよな? ヤバいよ、俺らじゃ無理だろ」
「おい、カズ君、戻ろう。戻ろうよ」
声が、震えている。
カメラを持つ手が、小刻みに揺れているのが、視界の端で見えた。
私は、魔物を見た。
次に、通路の先を見た。
魔物の動きを、一度だけ見る。足の運び。首の角度。次の一歩の方向。
――倒す必要はない。
そう判断した私は、魔物の視界の端を、滑るように抜ける。
足音を立てない。呼吸を止める。重心を低く。
通り過ぎる。
魔物は、私に気づかなかった。
代わりに、後ろで立ち尽くしている男たちに、注意が向いた。
「おい、ちょっと! 待ってよ!」
「助けて! 助けてくれよ!」
叫び声が、後ろから跳ねてくる。
私は、振り返らなかった。
12層へ。13層へ。
後ろの声は、もう聞こえない。
私は、一人で進んだ。
◆
しばらくして、レベル150。黄金級の壁を越えた。
中層の素材を納品していると、受付の女性が黄金級認定の書類と小さなバッジを差し出した。
笑顔の形が、どこか固い。
「渚さん……」
「はい」
声だけが、必要以上に明るい。
「黄金級の認定、出ました!」
紙を受け取ると、インクの匂いがした。
ただの紙なのに、それが妙に重い。
指先にバッジの冷たさを感じる。
嬉しいことのはずなのに、成長するほどにあの背中の遠さを感じてしまう。
胸の奥がぎゅっと縮むのを感じ、慌てて息を吐いた。
バールの女の子もなろう系主人公のような急激なレベルアップをしているようです。
受付の女性は「この子、なんでこんな短期間に黄金級になってるの?粗相したら死ぬかも?」
という感覚を持っているのでちょっと硬くなってます。
次から三章開始します(まだ何もかけてません)。
☆☆☆☆☆評価で背中を押してください。




