第44話 おじさん、領主になる
「よ、ようこそおいでくださいました……!」
屋敷の扉はすでに大きく開け放たれており、その前には燕尾服を着た執事たちがズラリと整列している。
全員、顔面蒼白で直角に腰を折ったまま、微動だにしない。
地面に落ちる汗の音さえ聞こえてきそうな沈黙。
一体いつから、彼らはこうして頭を下げ続けていたのだろうか。
「お、お待ちしておりました! ささ、こちらへ!」
先頭にいた老執事が、震える手で屋敷の中へと案内する。
通されたのは、屋敷の中で最も豪華と思われる応接室だった。
磨き上げられた大理石の床。壁一面に飾られた絵画。
ふかふかのソファには、最高級の茶葉で淹れられた紅茶が湯気を立てている。
そして、その向かいに座る中年男性――バルガス男爵は、脂汗を滝のように流しながら、引きつった笑みを浮かべていた。
「こ、この度は、部下が大変失礼をいたしました……! 彼らには厳罰を与えますので、どうかご慈悲を……」
「いえ、別に怒ってはいませんよ。ただ、話がしたかっただけなので」
俺はカップを手に取り、香りを楽しむフリをしながら男爵を観察する。
小太りで、気弱そうな男だ。
典型的な「悪徳貴族」を想像していたが、どうも様子が違う。
部屋の調度品は確かに良いものだが、どこか古びており、手入れはされているが新調はされていない。
カーテンの端は少し擦り切れ、絨毯も踏み跡で色が薄くなっている。
壁の絵画も、よく見れば額縁の金箔が剥がれかけていた。
つまり――金がない。
「あの、恐れ入りますが……貴方様のお名前を、伺ってもよろしいでしょうか? これほどの御仁を知らぬままというのは、あまりに不敬かと存じますので……」
「ああ、申し遅れました。私の名前は、ミナト。……『湊 啓介』といいます」
「ミナト……様、でございますか」
男爵は恐縮した様子で、何度も頷いている。
俺はカップをソーサーに戻し、カチャリという硬質な音を響かせた。
男爵の肩がビクリと跳ねる。
「単刀直入に聞きます。なぜ、あんな無茶な徴税を?」
「そ、それは……」
男爵はハンカチで額を拭い、ポツリポツリと語り始めた。
彼はここ数年、廃棄地域からの徴税を行っていなかったらしい。
「どうせ払えないだろう」という黙認。実質的な免税だ。
今回、徴税官を派遣したのは、最近になって廃棄地域のモンスターが減り、逆に活気が戻ってきたという報告を受けたからだという。
「金があるなら、少しは払ってもらわないと困るのです」
それが本音だった。
「徴発した領民を洗脳し、操り人形にしてダンジョンへ送っている件については? あれは流石に、領主の権限を逸脱しているのでは?」
「……すべては、彼らを死なせないためです」
男爵は、急に真剣な目で俺を見た。
怯えの色が消え、そこには領主としての苦渋が滲んでいる。
「素人に自由意志を持たせれば、恐怖で足がすくみ、パニックを起こして全滅する。それが廃棄地域の現実です。……ですが、『思考制御』で恐怖を遮断し、行動を最適化してからは、生存率が劇的に向上しました」
「……つまり、死ぬよりマシだと?」
「ええ。人道に反しようとも、生きてさえいれば未来はある。私はそう信じています」
「未来、ですか」
俺は窓の外に広がる、整備された街並みを見た。
石畳の道路、整然と並ぶ家々、そして行き交う人々の笑顔。
そこには確かに「未来」がある。
だが、その安寧は、切り捨てられた者たちの犠牲の上に成り立っているのだ。
「廃棄地域に残っているのは、貴方が見捨てた子供と老人だけだ。あそこに、未来なんてありませんでしたよ」
「それは……おっしゃる通りです。しかし、我が男爵領にも余裕があるわけではないのです」
男爵は悔しそうに拳を握りしめた。
爪が掌に食い込むほど強く。
「子供だけならまだしも、知恵のある大人が入ればどうなるか……。徒党を組み、犯罪組織を作り、治安を脅かす火種になりかねない。……領民全体の共倒れを防ぐため、私は彼らを切り捨てるしかなかった。領主として、情に流されるわけにはいかなかったのです」
男爵が息を呑む。
図星なのだろう。
歪んでいる。
だが、彼なりの理屈は通っていた。
自分の手の届く範囲だけを、手段を選ばず守り切る。
それは冷酷だが、ある種の誠実さでもあった。
「……なるほど。貴方の言い分は分かりました。ですが――」
「は、はい!?」
「それにしても、徴税に来た兵士たちは随分と横暴でしたよ? 話を聞かず、子供を鉱山に送ろうとしていましたが」
「なっ……!? そ、そのような指示は出しておりません! 本当に金があるなら徴税してこいとは言いましたが……子供を鉱山へ送るなど!」
「……では、あれは兵士の独断だと?」
「い、いえ……あるいは、方便だったのかもしれません」
男爵は苦しげに顔を歪めた。
「子供だけを保護しようとすれば、残された大人たちの反発を招きます。……『徴発』という形をとらねば、連れ出すことすらできなかったのかもしれない……」
男爵は青ざめて俺に平伏した。
床に額をこすりつけるその姿に、貴族の矜持など欠片もない。
あるのはただ、責任を取ろうとする一人の男の背中だけだ。
「も、申し訳ございません! 現場にそこまでの裁量権を与えたつもりはありませんでしたが……すべては、私の指導不足です。責任は取ります」
保身に走らず、潔く頭を下げる姿。
どうやら、根っからの悪党というわけでもないらしい。
俺はため息を一つ吐き、少しだけ口調を戻した。
「……"今は"一旦理解しておきます。ですが、ホルム村の連中は、私の『資産』です。彼らを貴方の管理下に置くつもりはありません」
俺がぴしゃりと言うと、男爵は考え込むように俯いた。
そして、意を決したように顔を上げる。
「……では、こうしてはいかがでしょう」
「?」
「廃棄地域一帯を、貴方様の領土として譲渡いたします」
俺は目を丸くした。
「は? そんなこと、勝手に決めていいんですか?」
「陛下への報告は必要ですが……恐らく、貴方様ほどの探索者が治めてくださるなら、否とは仰らないでしょう。我々としても、管理しきれない土地を手放せるのは助かります」
男爵の目は本気だった。
厄介払いをしたいという打算と、この男なら守れるかもしれないという期待。
「……分かりました。前向きに検討しましょう」
「ありがとうございます! では、すぐに手続きを進めさせていただきます! 善は急げと申しますし、陛下への書簡も今すぐ……!」
男爵は弾かれたように立ち上がり、執事たちに矢継ぎ早に指示を出し始めた。
どうやら、本当に厄介払いをしたかったらしい。
俺が頷くと、男爵は安堵のため息を漏らし、椅子に深く沈み込んだ。
◇
それから、数日後。
聖王国ヴィクトリアの王都にて。
豪奢な玉座の上で、一人の男が退屈そうに胡座をかいていた。
身長190cmを超える巨躯。王冠とマントを身につけているが、その下は動きやすさを重視した特注の戦闘服だ。
ヴィクター王。突如現れた天鋼級探索者として、その圧倒的武力で内乱を鎮めた英雄。
彼が王位に就いてからたった二年。周辺の小国たちは「あんな化け物に睨まれてはたまらない」と雪崩を打って臣従し、この国は瞬く間に大陸屈指の強国へと膨れ上がった。
短く刈り込んだ黒髪に、健康的に日焼けした肌。意思の強さを宿した黒い瞳は、今はただの退屈に濁っている。
「よし、今回の滞在もこれくらいでいいか? さっさとダンジョンに行きてぇんだ」
「陛下、辺境伯領より追加の報告が届いております」
宰相が差し出した書簡を、ヴィクター王は面倒くさそうに受け取った。
「あぁ? こないだの『廃棄地域に高ランク探索者が出た』って話か?」
「はい。バルガス男爵からの正式な書簡が届いたとのこと。……例の正体不明の高ランク探索者とパイプができたため、廃棄地域の統治権を譲渡したいと。その許可を求めております」
「はぁ? 廃棄地域とはいえ、領地をやるだって? バルガスの狸も思い切ったことをするな」
王はニヤリと笑い、書簡をパラパラとめくった。
「面白い。赫金級以上の実力者ねぇ。……そんな奴がいたら、俺が知らないわけがないんだがな。どこの田舎の詐欺師だ?」
書簡をめくっていた王の目が、ある一点で止まる。
最強の男の顔から、ヘラヘラとした笑みが消え失せる。
漂う空気が、一瞬にして凍りついた。
宰相は、己の心臓が止まるかと思った。
王の機嫌を損ねた詐欺師への怒りが、臨界点を超えたのだと勘違いしたからだ。
だが、違った。
王は目を細め、遠い空を睨むように視線を彷徨わせた。
「面白ぇじゃねぇか」
低く呟く声には、王としての威厳とは違う、個人的な感情――深い郷愁のような揺らぎが滲んでいた。
「よし! ダンジョン探索はやめだ! 今すぐそいつを呼べ!」
王の絶叫が、王城を揺るがした。
バルガス、小物ではあるが、見どころがないわけじゃない(気がする)。




