第38話 藍黒の矜持、黒銀の記憶
視界が、ノイズで埋め尽くされている。
遠く離れた場所から、断片的な情報だけが流れ込んでくる。
痛み。恐怖。絶望。
それらが糸切れた凧のように、プツリ、プツリと途絶えていく。
俺が派遣した群れが、消滅していく音だ。
どうでもいい。
あんな雑魚どもが何体死のうが、俺の心は凪いだまま。
やつらはただの道具。餌を集めるための手足に過ぎない。
道具が壊れたなら、また作ればいい。この溢れ出る力があれば、群れなどいくらでも再生産できる。
そう思っていた。
『……』
派遣した群の長、黒銀の個体。
その信号が消えた瞬間、凪いでいたはずの思考に、さざ波が立った。
名前も顔も思い出せないのに、胸の奥がざわつく。
まるで、自分の半身を乱暴にもぎ取られたような喪失感。
いや、そんな生易しいものではない。
内側から湧き上がる、熱くてドロドロとした感情。
これはなんだ?
怒りか? 悲しみか?
分からない。
俺はとうに、そんな感情を捨てたはずだ。
あの日、あいつに喉を晒し、情けをかけられた瞬間に。
俺は絶望を喰らって、強くなるだけの存在になった。
それなのに。
(……なぜだ)
腹の底で、黒い泥が煮えくり返る。
無性に腹が立つ。
あいつを殺していいのは、俺だけだったはずだ。
俺だけが、あいつの甘さを嘲笑い、その喉を喰いちぎる権利を持っていたはずだ。
それを、どこの誰とも知れない有象無象が。
(……許さない)
思考よりも先に、体が反応していた。
座標転移。
黒銀の死骸に残る俺の因子を触媒に、肉体を再構築する。
莫大なエネルギー消費など気にならない。
ただ、この苛立ちを解消したい。
黒銀を殺した不届き者を、この牙で引き裂きたい。
視界が反転する。
暗い洞窟から、月明かりの荒野へ。
目に飛び込んできたのは、一匹の人間だった。
ひょろりとした体躯。鋭い牙も、強靭な爪もない。
だが、その手には鉄の棒が握られ、そこには黒銀の血が付着していた。
(こいつか)
こいつが、俺の獲物を横取りしたのか。
強い。
一目で分かった。
この人間の体から溢れる魔力は、俺が喰らってきたどの魔獣よりも濃密だ。
しかし、それがどうした。
エネルギー量は俺の方がはるかに上。
人間ごときに負ける道理がない。
俺は咆哮した。
世界に向けて、俺の存在を宣言するように。
人間が顔を引きつらせる。
恐怖。絶望。
いい反応だ。
まずはその四肢をもぎ取り、絶望に染まった魂を喰らってやる。
名前も知らぬ、群の長への手向けとして。
◆
頭蓋骨を直接揺さぶるような咆哮が、至近距離で炸裂する。
大気が悲鳴を上げ、肌を刺すような重圧がのしかかる。
目の前に立つのは、悪夢から抜け出してきたような怪物だった。
黒銀の狼よりもさらに一回り巨大な体躯。
その全身を覆うのは、闇よりも深い藍黒色のオーラ。
ただ立っているだけで、周囲の空間が歪んで見えるほどの質量感がある。
「……おいおい、冗談だろ」
乾いた笑いが漏れる。
本能が、脳内でサイレンのような警報を鳴らし続けていた。
レベルやステータスを見るまでもない。
こいつは、格上だ。
黒銀の狼が「王」だとするなら、こいつは「災厄」だ。
理屈も感情も通じない、純粋な暴力の塊。
『マスター、解析完了しました! 個体名……該当なし、推定レベル430! こいつも原生生物のため、地上でもステータス減衰を受けません!!危険です!』
「ああ!? こっちも同じ条件だ馬鹿野郎」
『それに! こいつは『絶望』を取り込んだ、異常個体です!!』
「あ? 絶望の異常個体?」
『はい! 特性として、対象の回復効果を著しく低下させます! 推奨行動:即時撤退!!』
「……上等じゃねえか」
絶望? 回復阻害?
そんなもんで俺が引くとでも思ったか。
レベル430といえば、あの境界を蝕む魔蟲と同じくらいだ。
「……上等じゃねえか。あのクソ虫を倒してから、どれだけ成長したか……試すには絶好の相手だ」
撤退?
するわけが、できるわけがない。
後ろには村がある。ガルやピピ、そして俺を信じてくれた村人たちがいる。
ここで俺が引けば、彼らは全員、こいつの餌になるだけだ。
「……逃げねえよ」
俺はバールを強く握り直した。
手のひらの汗が、鉄の冷たさを伝えてくる。
恐怖はある。
足が震えそうになるのを、必死で抑え込む。
だが、不思議と視界はクリアだった。
どうしようもない状況だが、やるしかない。
思考を切り替えろ。
感情を殺せ。
「ナビ子、全力でサポート頼む。出し惜しみなしだ」
『……了解です! 全リソースを戦闘演算に回します! また、子機たちには既に避難指示を出しました! 彼らはもう動き出しています!』
「仕事が早えな。助かる」
一斉に遠ざかっていく数十の気配を、鋭敏になった感覚が鮮明に捉えていた。
一糸乱れぬ動き。
毎日のように叩き込んだ避難訓練の成果だ。
疑問も抱かず、即座に最適解を選んで行動している。
「……いい動きだ」
これで、心置きなく暴れられる。
視界の端に、無数のウィンドウが展開される。
敵の予想進路、攻撃範囲、魔力の流動。
それらが赤と青のラインで可視化されていく。
先手必勝。
地面を蹴る。
真正面から突っ込むと見せかけ、直前で『土魔法』を発動。
足元の地面を隆起させ、ジャンプ台にする。
「らぁぁぁっ!!」
高く跳躍し、頭上からバールを振り下ろす。
狙うは脳天。
だが。
硬質な音が鼓膜を叩き、手が痺れた。
俺のバールは、藍黒の狼の鼻先で止まっていた。
何もない空間に見えない壁があるかのように。
「……ッ、かてえな! クソ!」
藍黒の狼が、ニヤリと笑ったように見えた。
次の瞬間、視界が黒く染まる。
全身を巨大なハンマーで殴打されたような衝撃。
天地が逆転し、俺の体はボールのように吹き飛ばされていた。
地面を何度もバウンドし、土煙を上げながら転がる。
肺の中の空気が強制的に吐き出され、咳き込むことしかできない。
全身が軋むような痛み。
骨が歪み、内臓が悲鳴を上げている。
命という燃料が、ごっそりと削り取られた。
いつもなら訪れるはずの、細胞が活性化する熱が弱い。
細胞が再生しようとするエネルギーを、傷口にこびりついた藍黒色の『何か』が底なし沼のように飲み込んでいる。
これが、絶望の異常個体か。
傷口に腐った泥を塗り込まれたような、不快な閉塞感だけがへばりついていた。
『マスター! 敵の周囲に高密度の魔力障壁を確認! 物理攻撃、九割以上カットされます!』
「……んだ、クソボスかよ」
痛む体を叱咤し、立ち上がる。
物理がムリなら、魔法だ。
俺はすぐさま魔力を練り上げ、火魔法の構えを取る。
だが、それよりも早く、藍黒の狼が動いた。
巨体がブレたかと思うと、次の瞬間には俺の目の前にいた。
速い。
黒銀の比ではない。
風切り音と共に、巨大な爪が俺の胴体を薙ぎ払おうと迫る。
回避は間に合わない。
「土壁!」
とっさに土の壁を展開する。
だが、藍黒の爪は、作り出した岩盤を薄いガラス細工のように切り裂き、俺の脇腹を掠めた。
鮮血が舞う。
焼けるような痛みが走り、俺は再び後方へと吹き飛ばされた。
うめき声を噛み殺し、顔を上げる。
藍黒の狼は追撃してこない。
ただ悠然と、獲物が弱るのを愉しむように見下ろしている。
その瞳には、知性とともに、底知れない悪意が宿っていた。
絶望的なステータスの差。
しかし、俺はニヤリと口角を上げる。
「……面白い」
『マスター!?』
「たしかにエネルギー量はあっちが上だ。だが、なんだろうな。あいつの力は、どこか歪だ」
二度の激突で確信した。
付け入る隙はある。
俺はバールを構え直し、深く息を吐いた。
肺の中の空気をすべて入れ替えるように。
「さて……ここからが本番だ」
三度目の激突。
俺はバールを横薙ぎに振るいながら、同時に左手で魔力を練り上げる。
牽制の『岩石弾』。
だが、藍黒の狼は回避行動を取らなかった。
障壁を展開したまま、真っ直ぐに突っ込んでくる。
岩石弾が弾け、バールが障壁に阻まれる重い感触。
衝撃が両腕に走るが、今度は吹き飛ばされない。
インパクトの瞬間に体を沈め、衝撃を地面へと逃がしたからだ。
「やっぱりな……!」
指先に確信が宿る。
こいつの動きには「理」がない。
ただ莫大なエネルギーを垂れ流し、力任せに振るっているだけだ。
フェイントもなければ、カウンターのタイミングも計らない。
ただ「強い」だけ。
黒銀の狼の動きの方が、よほど洗練されていた。
だが、こいつにはそれがない。
あるのは、圧倒的なエネルギーによる暴力のみ。
「らぁっ!!」
俺は障壁の表面を滑るようにバールを走らせ、死角へと回り込む。
そこへ至近距離からの『火魔法・爆裂』。
爆炎が舞い、熱風が肌を焦がす。
障壁そのものは貫けない。
だが、爆風に煽られ、藍黒の狼の体勢がわずかに崩れた。
「グルァッ!?」
初めて、狼が動揺を見せた。
自分の圧倒的な力が、ちっぽけな人間にあしらわれていることへの戸惑い。
「……さてはお前、強い相手と戦ったことがねぇな?」
俺は追撃の手を緩めずに告げる。
バールが風を切り、魔法が炸裂する。
一撃一撃は通じなくても、その連撃が狼を翻弄していく。
「自分より弱い獲物をいたぶって、その絶望を啜ってきただけだろう? 本当の殺し合いを知らねえんだよ、お前は!」
図星だったのだろう。
藍黒の狼が、激情に染まった咆哮を上げる。
「ガァァァァァァッ!!!」
暴風のような魔力が吹き荒れる。
だが、感情任せの攻撃など、冷静な今の俺には当たらない。
最小限の動きで回避し、カウンターを叩き込む。
少しずつ、だが確実に、戦いの主導権が俺へと傾いていく。
このままいけば、勝てる。
そう思った矢先だった。
藍黒の狼が、大きくバックステップを踏んだ。
一瞬で数十メートルもの距離が開く。
逃走か? いや、違う。
その瞳に宿るのは、敗走の恐怖ではない。
もっとドロドロとした、底意地の悪い光。
『マスター! 敵の視線、避難壕の方角に向いています!』
ナビ子の警告に、心臓を鷲掴みにされたような悪寒が走る。
「しまっ……!」
反応が遅れた。
藍黒の狼が跳躍する。
その巨体が、砲弾のような速度で避難壕へと向かっていく。
「やめろぉぉぉっ!!」
俺は叫びながら、全力で地面を蹴る。
だが、間に合わない。
ステータスの差は残酷だ。
どんなに技術があろうと、純粋な速度勝負ではこいつに分がある。
藍黒の狼が、避難壕の前に着地する。
その衝撃だけで地面が陥没し、入口を固く閉ざしていた分厚い防護扉が、枯れ木のように弾け飛んだ。
瓦礫の隙間から、悲鳴が聞こえる。
村人たちが身を寄せ合う、地下空間が露わになった。
「グルルルルルルァアアアアアッ!!!」
藍黒の狼が、愉悦に浸るような嗤い声をあげる。
後ろにいる俺には手出しできないと分かっての凶行。
まずは手近な人質から。
子供たちを背に庇い、震えながらも立ちはだかっていたガルを掴もうと、巨大な爪が伸び――
「だめぇぇっ!!」
幼い声が、戦場に響き渡った。
爪がピタリと止まる。
足元から飛び出したのは、ポポだった。
小さな体を震わせながら、両手を大きく広げ、藍黒の狼の前に立ちはだかっていた。
後ろからガルやトトたちが止めようとするが、ポポは一歩も引かない。
「ポポ! どくんだ!」
「いやだ! どかない!」
ポポは小さな体を震わせながら、それでも一歩も引かなかった。
その目には涙が溢れている。本当は怖くてたまらないのだ。
「お兄ちゃんたちはダメ。……怪我したら、痛いんだよ?」
「ポポ……お前……」
「僕は大丈夫! お腹を噛まれても、腕が千切れても……おじちゃんが戻ってきたら、きっと治してくれるから!」
「……っ!」
「だから僕が噛まれる! 僕がいっぱい痛いの我慢するから……だからお願い、お兄ちゃんたちをいじめないでぇっ!!」
無垢で、残酷なまでの信頼。
痛みを知らぬがゆえの蛮勇ではない。
痛みも、死すらも知ったうえで、それでも「みんなを守る」と決めた献身。
その言葉の重みに、大人たちも息を呑み、言葉を失う。
ポポの胸元で、小さな石の欠片がカチリと音を立てる。
粗末な革紐で結ばれたそれは、かつて彼の命と共に砕け散った『宝物』の破片。
ポポはその欠片を、震える手でギュッと握りしめ、目を閉じた。
どうして、土日に二本投稿なんてしてしまったのだろう(訳: 更新ストックが……)
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