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第04話 完全手動(フルマニュアル)おじさんは、休日出勤を拒否したい

 あんなことがあった翌朝も、目覚めは最上級だった。

 8時間ノンストップの熟睡。体内時計の狂いはない。

 我ながら図太い神経をしている。あるいは、神経系そのものが最適化されすぎているのか。


 キッチンに立ち、ヤカンを火にかける。

 湯が沸き立つ音が変わる瞬間、火を止める。指先をかざすまでもない。八三度。豆の香りを最大限に引き出す臨界温度だ。


 戸棚から愛用のミルを取り出し、豆を挽く。

 ガリガリという硬質な音。粒度(メッシュ)のバラつきすらゼロ。均一な粒子が、これから抽出される琥珀色の液体への期待を煽る。


 ペーパーフィルターに粉をセットし、湯を注ぐ。

 手首の角度を固定し、注湯速度をミリ単位で制御。粉がもこもこと膨らみ、完全な半球体を描く。

 美味しいから、ではない。それが物理法則上の「最適解」だからだ。

 琥珀色のしずくがサーバーに落ちていくリズムすら、俺の計算通りに刻まれる。


 マグカップに注ぎ、一口啜る。

 苦味と酸味、その成分比率が舌の上で分解され、脳へとデータとして送られる。

 完璧だ。

 たとえダンジョンに命を狙われていようと、この一杯の旨さは変わらない。


 トーストをかじりながら、ぼんやりとテレビ画面を眺める。

 ニュースキャスターが、昨今の魔石市場の変動について淡々と報じている。

 ダンジョンが発生して32年。

 世界はすっかり「ダンジョンありき」で回っている。経済も、政治も、何もかも。

 そんな日常の風景を見ながら、俺は昨夜の出来事を反芻する。

 都合のいいことに、どうやら俺はダンジョンに命を狙われているらしい。


 冷蔵庫のモーター音が唸る。時計の秒針が時を刻む。

 普段なら聞き流すそれらの環境音が、今の俺には重低音のノイズとして鼓膜を叩く。

 昨夜の戦闘モードが完全に抜けきっていないらしい。聴覚野のゲインを意識的に下げ、ノイズをフィルタリングする。


「……まあ、なるようになるか」


 コーヒーを啜る。

 向こうから来るというなら、わざわざこっちから出向く必要もない。

 俺は俺の生活を守る。それだけだ。


『マスター、おはようございます。今日のダンジョン予報は晴れ。モンスターの活性化率は標準値です』


 視界の端に、ナビ子が浮かんだ。

 朝から元気だ。ホログラムの解像度が無駄に高い。


「おはよう。予報助かるよ、行かないけど」


『むぅ……まだ言ってるんですか』


 ナビ子が頬を膨らませる。

 その表情筋の動きすら、プログラムされた模倣とは思えないほど人間臭い。


『せっかくの休日なんですから、少しだけテストしませんか? 近場のダンジョンで軽く身体を動かすだけでも』


「休日は体を休めるためにあるんだ。それに、今日は用事がある」


『用事? 洗濯とアニメ消化のことですか?』


「それもあるが、もっと大事な用事だ」


 最後の一口をコーヒーで流し込み、食器を片付ける。

 外出着に着替え、鏡で身だしなみをチェックする。

 探索用の装備ではない。ごく普通の、休日の私服だ。


「じゃあ、行ってくる」


『あ、待ってくださいマスター! 私もついて行きます!』


「ついてくるって、お前……」


『私はマスターの視界とリンクしていますから、どこへでもお供します。GPS機能も完璧ですよ? 他の人には見えませんし』


「……好きにしろ」


 どうせ断ってもついてくる。


 家を出て、駅へと向かう人波に紛れる。

 前方から歩きスマホの高校生。右後方から急ぐサラリーマン。左側にはベビーカー。

 俺は速度を緩めることなく、その隙間を縫うように歩く。

 肩が触れることも、服が擦れることもない。まるで俺という質量が存在しないかのように、誰も俺に気づかず、俺も誰にも干渉しない。

 最短ルートを維持したまま、流れる水のように改札を抜ける。


 電車に乗り込む。

 車内は休日を楽しむ家族連れやカップルで賑わっていた。

 その中に紛れ込む、ただのおじさん一人。


 だが、窓の外へ視線をやった瞬間、世界が変わる。

 時速80キロで通過する駅のホーム。

 そこに立つ疲れた顔のサラリーマン。彼が覗き込むスマホの画面。

 ――『本日の運勢:最悪』。

 そんな文字まで、まるで静止画のように読み取れてしまう。


 遠くのビル、3キロ先の看板。その右隅にある塗装の剥がれ。

 上空500メートルを旋回するカラス。その風切羽の枚数と、瞬膜が閉じるタイミング。


 情報量が多すぎる。

 世界が、いきなり4K画質から超高解像度の8K、いやそれ以上の現実にアップデートされたようだ。

 脳が焼き切れそうな情報量だが、不思議と不快感はない。「自律進化」した脳が、それを当たり前の風景として処理している。


「……あ、落ちるな」


 呟いた直後、ホームのサラリーマンがスマホを取り落とした。

 筋肉の弛緩が見えたのだ。予知じゃない。純粋な物理演算の結果だ。


 自分が少し、怖くなる。

 電車を乗り継ぎ、郊外の住宅街へ。

 駅から10分ほど歩いたところに、そのマンションはあった。

 

 オートロックの前に立ち、深呼吸をする。

 肺の換気率を100パーセントまで上げ、また吐き出す。

 何度来ても、ここに来るときは少し背筋が伸びる。


 部屋番号を押す。

 呼び出し音が数回鳴り、インターホンが繋がった。


「はい?」


「あ、湊です」


「湊さん! お待ちしてました、今開けますね!」


 自動ドアが開き、エレベーターで上層階へ。

 玄関のチャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。


「湊おじちゃん!」


 元気な声と共に、男の子が飛び出してきた。

 猪狩翔太くん。今年で7歳になる。


「おー、翔太。元気にしてたか?」


「うん! あのね、今日ね、学校で探索者の勉強したんだよ!」


「そうかそうか、偉いな」


 頭を撫でてやろうと手を伸ばす。

 その瞬間、翔太くんの肩がピクリと跳ねた。

 怯え? いや、動物的な直感か。

 俺の掌に含まれる、制御しきれない「何か」を感じ取ったのかもしれない。


「……おじちゃん、なんか今日……すごいね?」


「ん? 何がだ?」


「わかんない。でも、なんか……びりびりする」


 子供の感性は鋭い。

 俺は意識的に気配を殺し、極力ソフトに彼の髪を撫でた。


「いらっしゃいませ、湊さん。お休みなのに、呼び出しちゃってすみません」


 その背後から、エプロン姿の女性が穏やかな笑みを浮かべて現れた。

 猪狩沙織さん。

 お世話になった先輩、猪狩 勝利(いかり しょうり)さんの奥さんだ。


「いえ、ちょうど暇にしてましたから」


 いつもの嘘をついて、俺は頭を下げた。


 通されたリビングは、暖かな空気に満ちていた。

 壁には翔太くんが描いた絵が飾られ、棚には家族写真が並んでいる。

 独身男の殺風景な部屋とは大違いだ。

 だが、今の俺にはその温かさが、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。


『へえ、これが人間の巣ですか。機能的とは言えませんが、不思議と落ち着く波長が出ていますね』


 ナビ子が珍しそうに部屋を見回している。

 巣って言うな、巣って。


「どうぞ、粗茶ですが」


 沙織さんがお茶と茶菓子を出してくれる。

 俺は礼を言って、手を合わせた。


「あの、湊さん。……今月分も、ありがとうございました」


 沙織さんが少し申し訳なさそうに切り出す。

 毎月決まった日に振り込んでいる、アレのことだ。


「いえ、当然のことをしているだけですから」


「でも……もういいんです。私の仕事も決まりましたし、これ以上甘えるわけには……」


「甘えてるんじゃないですよ。これは猪狩先輩の功績に対する配当ですから」


「配当……?」


「ええ。先輩が見つけた攻略ルートやドロップデータの権利収入みたいなものです。本来であれば先輩が受け取るべきものの管理を任されてるだけなんで、遠慮なく受け取ってください」


『マスター、そのようなシステムはデータベースに存在しませんが?』


 黙ってろ、ポンコツAI。


 確かに、そんなシステムは存在しない。

 実際、俺が稼いだ金だ。だが、こうでも言わないとこの人は受け取らない。

 俺は表情筋をミリ単位で固定し、完璧な営業スマイルを維持したままお茶を啜る。


「……ありがとうございます。大事に使わせていただきます」


 沙織さんが深く頭を下げる。

 彼女も分かっているのかもしれない。それが嘘だと。

 それでも、受け取ることで俺の気が済むならと、優しい共犯関係を結んでくれている。

 そんな気がしてならない。大人の哀愁が、湯気と共に揺らいだ。


「ねえねえ、湊おじちゃん!」


 重くなりかけた空気を破るように、翔太くんが教科書を持って走ってきた。

 探索者育成コースの教科書だ。最近は小学校でも教えるようになったらしい。


「見て見て! 深層のモンスターってすっごく強いんだって!」


「お、すごいな。ワイバーンとか載ってるのか?」


「うん! でもね、先生が言ってた。深層に行けるのは選ばれたヒーローだけなんだって。パパもヒーローなんでしょ?」


 無邪気な瞳が俺を見上げる。

 曇りのない、純粋な信頼。

 3年前、父親が帰らぬ人となった時、彼はまだ4歳だった。

 誰かが言った「パパは遠くのダンジョンで悪いモンスターと戦っている」という話を、今も信じているのだ。


「ああ、そうだよ。翔太君のパパは最強だった」


 俺は精一杯の笑顔を作った。

 嘘じゃない。俺の中では、あの人は誰よりも強くて、格好良かった。


 ――おい湊! またそんな装備で潜ってんのか? 死にてぇのかお前は!


 記憶の中の先輩が笑う。

 マニュアル操作もろくに出来ず、浅層のゴブリンにすら苦戦していた頃。

 周りの連中が「スキル無し」「才能無し」と俺を嘲笑う中、唯一声をかけてくれたのが猪狩先輩だった。


 ――しゃあねぇな。ほら、俺のお古やるよ。その代わり、俺の荷物持ちな? ……あ? いらねぇ? バカ野郎、プライドで飯が食えるか! いいから黙って着ろ!


 ――マニュアル操作? なんだそりゃ。え、全部自分で動かす? お前……バカか?


 俺が「男は黙ってマニュアルですよ」なんてふざけて言った時の、呆れた顔も覚えている。


 ――いつの時代の話してんだ。俺の時代でもオートマ免許の男はいたぞ。大体、俺より年下のお前がマニュアルにこだわる理由がそれかよ。


 それでも、先輩は俺のやり方に興味を持ってくれた。

 一度だけ、俺の指導でマニュアル操作を試したこともある。


 ――うっわ、ムズイなこれ! 視界ぐわんぐわんするし! 命懸ける探索でなんでこんな縛りプレイみたいなことしてんだよ! 俺はやっぱりオートでいいわ!


 結局、最後までマニュアル派にはなってくれなかった。

 でも、俺の「足掻き」を笑わなかったのは、先輩だけだった。


 強引で、口が悪くて、お節介で。

 稼ぎの悪い俺に飯を奢り、攻略のイロハを叩き込み、俺が初めてソロでボスを倒した時は、自分のことのように喜んでくれた。


「一番奥の、誰も行けないような場所で、今も戦ってるんだ」


「そっかー……じゃあ、パパは赫金級(オリハルコン)くらい強いのかな?」


 翔太くんが、教科書で覚えたばかりのランクを得意げに口にする。

 赫金級(オリハルコン)。世界に数十人しかいないと言われる、雲の上の存在だ。


「そうだなー。……お父さんは、いずれ日本で4人目の天鋼級(アダマンタイト)になってもおかしくないな」


「あははー! それはないよ!」


 俺が真面目な顔で言うと、翔太くんはおかしそうに笑った。


「だって、先生も言ってたもん。アダマンタイト級は神様みたいなものだって。お父さんが神様って、ププッ」


 子供らしい、無邪気な否定。

 だが、それはこの世界の常識でもある。

 アダマンタイト級。それは国家戦力すら凌駕する、生きる伝説。世界でも10人しかいない、現代の神々。


「そうだね。でも、翔太君のお父さんはそれくらい凄いんだよ」


 翔太くんが、少しだけ俯く。

 抱えている教科書の角を、指先でいじりながら。


「でも……いつ帰ってくるのかなぁ。もう3年も会ってないよ。僕、パパの顔、写真でしか思い出せなくなってきちゃった」


 記憶の風化。

 時間は残酷だ。幼い子供から、父親の感触を少しずつ奪っていく。


「ちょっとだけ、寂しいな」


 ぽつりと漏れた言葉が、俺の胸を抉る。

 寂しい。その一言が、幼い心にどれだけ重くのしかかっているか。

 俺は言葉に詰まる。

 なんて声をかければいい? 「もうすぐ帰ってくるよ」なんて、無責任な嘘を重ねることはできない。


『……マスター』


 ナビ子の静かな声が響く。

 AIには理解できない感情だろうか。それとも――。


「翔太君」


 俺はしゃがみこんで、彼の視線に合わせる。


「パパはな、帰ってくるために戦ってるんだ。翔太君のこと、絶対に忘れてない。だから――」


 俺は言葉を継ぐ。

 これは嘘じゃない。あの日、先輩は言っていた。「そろそろ引退して、翔太とキャッチボールでもするか」と。

 あの想いは、本物だった。


「翔太君が立派な探索者になったら、きっとびっくりするぞ。『いつの間にこんなに強くなったんだ』ってな」


「……ほんと?」


「ああ、本当だ。俺が保証する」


「……うん! 僕、頑張る! パパに負けないくらい強くなる!」


 翔太くんの顔に、再び笑顔が戻る。

 その無垢な輝きが、今は少しだけ眩しくて、鼻の奥にツンと刺さる。


 俺は立ち上がり、拳を強く握りしめた。

 爪が食い込む痛みで、なんとか表情筋を固定する。


 翔太くんがはしゃぎ回る。

 その背中を見つめる沙織さんの瞳が、少しだけ潤んで見えた。


 夕食をご馳走になり、翔太くんが遊び疲れて眠った頃。

 リビングの空気は静けさを取り戻した。


 俺は部屋の隅にある仏壇に手を合わせる。

 遺影の中の先輩は、昔と変わらない屈託のない笑顔でこちらを見ている。

 その手前には、先輩が以前使っていたナイフが飾られていた。

 最後の探索の時、先輩は奮発して装備を一新していた。

 だから、形見と呼べるものはこれくらいしか残っていない。

 

 稼ぎのほとんどを装備につぎ込み、さらにはローンまで組んで挑んだダンジョンアタックだった。

 だから、遺された妻子には金銭的な余裕がなかった。

 俺が毎月金を送っているのは、そのためだ。

 先輩には散々世話になった。俺が今こうして生きていられるのも、先輩のおかげだ。

 これくらいのことをしたって、罰は当たらないだろう。


 線香の煙が、細く立ち上る。


「……すみません」


 背後で洗い物をしていた沙織さんが、ぽつりと呟いた。


「翔太にあんなことを言わせてしまって……。湊さんには、気を使わせてばかりですね」


「いえ。俺も、そう思ってますから」


「……ふふ、お優しいですね」


 水音が止まる。

 彼女はふきんで手を拭きながら、寂しげに遺影を見つめた。


「頭では、分かってるつもりなんです。でも……心のどこかで、期待してしまう自分がいて。まだ、どこかで生きているんじゃないか、ひょっこり帰ってくるんじゃないかって……」


 その横顔は、母親ではなく、一人の待ち続ける女性の顔だった。

 夫の死を受け入れられない弱さ。いや、信じ続ける強さか。

 どちらにせよ、俺にかける言葉はない。


「……沙織さん」


「はい」


 俺は遺影を見つめたまま、言葉を飲み込んだ。

 言うべきだろうか。

 復讐など、遺された者にとっては虚しいだけかもしれない。

 彼女にこれ以上、血の臭いを想起させるべきではないのかもしれない。


 だが、この胸のつかえは、彼女にだけは伝えておきたかった。


「……先輩をあんな目にあわせた奴。……殺せそうです」


「……え?」


 水音が止まる。

 張り詰めた沈黙が落ちた。

 背後の気配が強張るのが、肌で分かる。


「……復讐、ですか」


「はい」


「あの人を殺したモンスターを倒しても……」


 沙織さんは言葉を濁し、寂しげに笑った。

 帰ってこない。そう言おうとして、飲み込んだように見えた。

 

 遺体は見つかっていない。

 状況的に生存は絶望的だが、心のどこかで彼女も信じているのかもしれない。

 あの人は、どこかで生きているんじゃないかと。


「……いえ、止めはしません。湊さんの気が済むなら」


 彼女は視線を落とし、ふきんで手を拭った。


「でも、お願いです。……あの人のようには、ならないでくださいね」


 その言葉の重みに、俺は無言で頷くことしかできなかった。


 マンションを出ると、夜風が冷たかった。

 見上げれば、翔太くんたちの部屋の明かりが見える。

 この日常を、守らなければならない。


「……おい、ナビ子」


『はい、マスター』


「俺の魔力、外でも使えるんだよな?」


『はい。アバターシステムによる身体能力及び魔力強化は、ダンジョン内外を問いません。むしろ、今のマスターなら周囲の環境マナを支配下に置くことも可能です』


「そうか。なら――」


 俺はマンション全体を視界に収め、意識をミクロの領域へ沈める。


 体内の魔力回路、その一本一本を指先で弾くように制御する。

 雑な「全体付与(エリア・エンチャント)」じゃない。

 マンションを構成する鉄筋コンクリートの柱、窓ガラス、配管の錆び具合に至るまで。すべての構造を把握し、そこに魔力を通す。

 そして、沙織さんと翔太くんの衣服の繊維にまで、数千、数万の魔力糸を、手編みのセーターのように編み込んでいく。


『ちょ、マスター!? 魔力密度が高すぎます! 理論値を超えています! このままでは周辺のマナが――』


 ナビ子の警告を無視し、俺は最後の結び目を締める。


 オート操作なら「実行」ボタン一つで終わる工程だろう。だが、それじゃあ隙間ができる。

 俺は、一ミリの隙間も許さない。

 職人が釘一本の打ち方にこだわるように、俺は魔力の密度と編み目を調整し続ける。


守護結界プロテクション・フィールド……展開」


 パチィッ。


 展開完了と同時に、周囲の空気が爆ぜた。

 マンション全体が、陽炎のように揺らぐ。


 すぐに光は溶けて消える。

 一般人には見えない。だが、俺の目にははっきりと、要塞ごとき強固な魔力の障壁が、建物と二人を守るように展開されているのが見えていた。


『……信じられません。広域結界と個人への付与を同時に、しかも分子レベルの結合で。システムのサポートがあってもできる探索者は中々いませんよ?』


「ただのお守りだ」


 俺は踵を返す。

 背負うものができた。守りたいものもできた。

 戦う理由は、もう十分すぎるほど揃っている。


「帰るか、ナビ子」


『はい! 用事も終わったし、ダンジョンでも寄っていきましょうか!』


「ばか、休日出勤はしないんだよ」


 俺は夜の街に歩き出す。

 腹は決まった。あとは、やるだけだ。


「……帰って、ビールでも飲むか」


 神の領域に片足を突っ込んだ自分を、泥臭い日常に引き戻すための儀式。

 人間としての感覚を取り戻すために、それが必要だった。


『ふふ、了解です。お供しますよ、マスター。私は飲めませんけど』

【読者の皆様へのお願い】


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