第35話 王と怪物、あるいは二匹の狼
かつて、俺は群れで一番の弱者だった。
……いや、「俺」とは誰だ?
まあいい。今はただ、腹が減っている。
記憶の彼方にあるのは、泥と血の味。
生まれつき体が小さく、牙も脆かった。
仲間たちが夜闇のような漆黒の毛並みを誇る中、俺の毛だけは薄汚れた灰色だった。
誇り高き「黒狼」の群れにおいて、弱いことは罪だった。
餌は常に残飯。時にはそれすらなく、泥水を啜って飢えを紛らわせる日々。
同族からの嘲笑。暴力。
唯一、同い年の「黒銀」の毛並みを持つあいつだけが、時折隠れて肉を分けてくれたが……それもまた、俺の惨めさを浮き彫りにした。
「エリートの気まぐれな施し」。
そう感じてしまう、泥水よりも汚く濁った自分が嫌いだった。
だから、もう死のう。
向かったのは、南の峡谷。その一角に口を開けた「臭い穴」だ。
父祖の代から「入れば死ぬ」と伝えられる禁忌の場所。
ここなら、誰にも迷惑をかけずにゴミのように消えられる。
震える足で穴に入る。
……だが、拍子抜けするほど何も起きなかった。
息が詰まるような腐臭に息苦しさを感じるが、死ぬような気配はない。
「……なんだ、死ぬってのは嘘かよ」
結局死ぬことができず、ただ、禁を破っただけになった俺は絶望を纏いながら奥に進む。
そこには俺なんかよりも更に弱い化け物たちがいた。
群の中では最弱の俺だが、この臭い穴にいる泥色の小獣などは、さらに弱く、餌として怯えていた。
なんだか心地よくなって、無我夢中で噛みつき殺す。
殺すたびに、胃の腑でどろりとした鉛が沸騰する感覚が蠢く。
「入ったら死ぬ」と言われているのはこれが理由か。
だが、まだ死ぬ気配はない。
足はふらつくが、牙はまだ動く。
どうせなら、殺して、殺して、殺し尽くして死んでやる。
湿った岩陰に潜む巨大な鋏を持つ甲殻類。岩のような鱗をもった爬虫類。
どいつもこいつも、俺より弱かった。
なんだ、群から離れてたらあんなにツライ思いをしなくてよかったのか。
だが、殺すたびに尋常ではない苦痛が俺を襲った。
内臓を粗いヤスリで削られるような、血管に泥を詰め込まれるような、生理的な拒絶反応。
普通なら、この苦しみに耐えられずに逃げ出すのだろう。
構うものか。
捨て鉢な暴力で、噛みつき、引き裂き、啜った。
死ぬつもりの俺に恐怖はない。苦しみすらも、死への前奏曲に過ぎない。
腐肉喰らいを殺した時、視界が赤く滲んだ。
巨大な角を持つ猛牛の喉笛を食いちぎった時、強烈な吐き気が込み上げた。
殺せば殺すほど、体が重くなる。
内臓が腐り落ちるような、おぞましい不快感。
俺がまともだったのであれば、どうにかして逃げ帰ろうとしたのだろう。
だが、俺は嗤った。
「いいぞ……もっとだ……もっと毒を寄越せ……」
どうせ死ぬのだ。毒が回っているほうが好都合だ。
俺はさらに奥へ、さらに深くへ。
自ら致死量の毒を飲み干すように、殺戮を続けた。
そして。
ある一線を越えた瞬間。
ごぶり。
胸の奥で、何かが決定的に「混ざる」音がした。
直後、心臓が肋骨を内側から蹴り破るほどの勢いで暴れ出した。
不快感などという生温いものではない。
全身の血管に溶けた鉄を流し込まれたような、絶叫すら許さない激痛が走り――。
限界を迎えた骨格が、内側から悲鳴を上げた。
薄汚い灰色の毛が、ごっそりと抜け落ちる。
毛穴という毛穴から、どぷり、と音を立てて血が溢れ出し、地面を汚した。
括約筋が緩み、糞尿が垂れ流しになる。
痛い。熱い。臭い。
醜い。
「……あぁ……」
視界が暗く濁っていく。
最期までこうなのか。
誰からも愛されず、泥水を啜り、最後は糞尿と汚物にまみれて、誰にも知られずに腐っていく。
なんて、惨めなんだ。
俺みたいなゴミは、死に様すら選べないのか。
絶望が、冷たい楔となって心臓に打ち込まれる。
ああ、もういい。何もかも終わってしまえ。
この救いようのない世界ごと、俺なんて消えてなくなればいい。
そうして、俺の心が完全に闇に塗りつぶされた、その瞬間だった。
ドプン。
体内で、何かが裏返った。
裂けた皮膚からあふれ出したのは、汚らわしい血ではなかった。
それは、夜の闇を煮詰めたような、艶やかな黒いタール。
その粘液が露出した神経一本一本に絡みついた瞬間、俺の脳髄は白く弾け飛んだ。
「あ、あ゛あ、あアあアアッ――!!」
なんだこれは。なんなのだこれは!
脳髄を焼き尽くすその刺激は、もはや痛みや熱さという次元を遥かに凌駕していた。
全身が内側から爆ぜ、同時に新たな形へと凝縮されていく感覚。
俺は今、「作り変えられている」!
溶けた内臓が、強靭な臓器へと再構築されるたびに、背筋を突き抜けるような痺れが走る。
脆い骨が砕け、その継ぎ目から鋼鉄の密度を持った骨が爆発的に増殖する音は、まるで美しい音楽のようだ。
萎縮していた筋肉が、ボコボコと音を立てて膨張し、丸太のような剛腕へと変貌していく。
その全細胞が、歓喜の産声を上げていた。
抜け落ちた灰色の毛の跡から、新たな毛並みが噴き出す。
それはかつての薄汚い色ではない。
深淵よりも深く、絶望よりも濃い、美しい藍黒色の剛毛。
ずっと憧れていた、あの高潔な「黒銀」にも決して劣らない、魔性の美しさ。
力が満ちる。力が溢れる。
指先一つ動かすだけで、岩をも砕ける全能感が、血管を駆け巡る。
「ああ、素晴らしい……ッ!」
俺はもう、ゴミじゃない。
怯えて逃げ回るだけの家畜は、たった今死んだ。
ここにいるのは、捕食する側の存在。
世界が、完全に反転したのだ。
◆
地上に出ると、世界が変わって見えた。
視線が、自然と南の方角へ吸い寄せられる。
そこには、俺の新しい毛並みと同じ、藍黒色の靄が揺らめいていた。
ずっと先、あの靄の発生源には、確か人間の集落があったはずだ。
美味しそうだ。
喉が鳴るより早く、靄が俺の体に吸い込まれていく。
全身の細胞が歓喜に打ち震える。
流れ込んできたのは、人間たちが吐き出す「辛い」「苦しい」「死にたい」という負の感情。
それが、何よりも甘美な御馳走となって俺を満たしていく。
一体自分に何が起きたのかは分からない。
だが、本能が理解している。俺は「これ」を食らうために生まれ変わったのだと。
――それは、探索者たちが「変異個体」と呼び、忌避する存在が誕生した瞬間だった。
通常の進化とは異なり、人間の悪徳や負の概念を取り込んで変質した異形の怪物。
中でも「絶望」を喰らう個体は、最も醜悪で、最も凶悪な捕食者として知られている。
その能力は「回復効果の低下」。
希望を奪い、癒しを拒絶し、傷ついた者をジワジワと死へと追いやる、まさに絶望の化身である。
◆
群れに戻ると、かつて俺を虐げていた連中が、恐怖に震えて道を空ける。
道端の石ころを見るような目で俺を見ていた奴らが、今は俺の足元にひれ伏している。
誰も俺があの「薄汚い灰色のゴミ」だとは気づいていない。
ただ、圧倒的な強者の気配に怯えているだけだ。
気分が良い。
群れの中心に近づくと、一匹の狼が歩み寄ってきた。
群れの長となっていた幼馴染、「黒銀」だ。
「……お前、あの穴に入ったのか?」
奴だけが、俺の正体に気づいた。
その瞳には、恐怖も畏敬もなく、ただ深い悲しみだけが湛えられていた。
「何が悪い」
嘲笑うように吐き捨てた。
「いや、生きていてよかった」
奴はそう呟いた。
ふざけるな。
その目が嫌いなんだ。
かつて俺に肉を恵んだ時と同じ、強者が弱者に向ける「憐れみ」の目。
生まれた時から強く、美しく、誰からも愛されるお前に何が分かる。
この飢えが。この渇きが。
◆
それからは、世界が俺を中心に回り始めた。
一番いい餌は俺の胃袋へ、一番いい女は俺の寝床へ。
暴力。略奪。支配。
やられたことをやり返すだけの、単純で退屈な遊戯。
ある日、軽い遊びのつもりで振るった前足が、同族の首をへし折っていた。
乾いた音が響き、周囲が凍りつく。
「あ……」
自分の前足を見つめる。
そんなつもりじゃなかった。ただ、少し脅かしてやろうと思っただけなのに。
だが、その瞬間。背筋を駆け上がったどす黒い衝動が、俺の意思を無視して力を込めさせたのだ。
操り人形の糸を、何者かに強く引かれたような違和感。
「いい気味だ」「壊してしまえ」「もっと、もっとだ」
頭の奥底で、何者かが嗤う声がした。
折れた首から血を流して痙攣する同族を見て、俺は初めて「自分の中の何か」に恐怖した。
確かにこいつ等は嫌いだった。俺を蔑み、虐げてきた連中は許せなかった。
だが、殺したいほどだったか?
同胞の喉を食いちぎり、その血の味に陶酔するほど、俺は狂っていたか?
違う。俺はただ、認めて欲しかっただけだ。
それなのに、今の俺はなんだ。
怯え、震え上がる同胞たち。
その恐怖の群れを割って、一匹の影が悠然と歩み出てきた。
月光を浴びて輝く、流麗な銀の毛並み。
黒銀だ。
どこまでも気高く、美しい、王としての品格。
俺のような薄汚い突然変異とは違う。
彼は静かに俺の前に立ち、低い唸り声を上げた。
決闘の申し込みだ。
当然だろう。群れとは、個の集まりにして一つの生命。
その調和を乱し、恐怖で支配するだけの暴君は、組織にとっての癌でしかない。
だが、黒銀の、その瞳に宿っていたのは、害悪を排除する怒りだけではなかった。
静かな、あまりにも静かな悲哀。
王としての義務と、友としてのけじめ。その二つを背負って、あいつは牙を剥いたのだ。
戦いが始まる。
南から流れてくる「絶望」を吸収するたびに、俺の細胞は際限なく作り変えられ、強度は増していた。
だから、本気を出せば、あるいは勝てたのかもしれない。
奴の自慢だったはずの速さも、今の俺には捉えられる。
喉元に牙を突き立て、血管を引き裂く。その好機は何度かあった。
だが――。
牙が黒銀の毛並みに触れようとするたび、脳裏にノイズが走る。
かつて俺に肉を分けてくれた時の、奴の困ったような笑顔。
強者が弱者に向ける、あの忌々しい「慈悲」の表情。
このままバケモノになり果てる前に――。
(……殺されるなら、こいつがいい)
思考よりも早く、体が動いた。
攻撃を捨て、無防備な喉を晒す。
刹那、強烈な衝撃が走り、視界が反転した。
背中に冷たい地面の感触。
喉元には、熱い牙が食い込んでいる。
巨大な万力で締め上げられたように、身動き一つ取れない。
黒銀に組み伏せられたのだ。
動けない。
圧倒的な質量と、殺気。
生殺与奪の権を、完全に握られた。
俺の命は今、奴の牙ひとつにかかっている。
これで終われる。この狂った飢えも、惨めな記憶も、全て。
「……追放だ」
だが、その牙が肉を裂くことはなかった。
代わりに、低く、重い宣告が降る。
黒銀は俺を殺さなかった。
甘い。甘すぎる。
「二度と群れの前に姿を見せるな」
そう言って背を向けた奴の背中は、やはり憎らしいほど立派だった。
吐き気がする。
俺のような怪物を前にしてもなお、お前は「高潔な王」であり続けるのか。
◆
それからは、常に孤独だった。
餌なんて、獲れても獲れなくてもよかった。
南の方角から、あの甘美な「藍黒の霧」が常に供給されていたからだ。
呼吸をしているだけで、俺は満たされ、強くなっていった。
だが、ある時、いつもより「美味い」個体がいることに気付いた。
ただ殺しただけではない。嬲り殺しにした獲物から、あの霧が濃く噴き出していたのだ。
俺は研究を始めた。
どうすれば、この至高の味を引き出せるのか。
単に殺すだけでは味気ない。恐怖を与えるだけでも、まだ渋みがある。
そして辿り着いたのが、至高のレシピ。
『希望を与えてから、叩き落とす』
わざと獲物を逃がす。「助かった」と安堵させ、希望を抱かせた瞬間に、背後から襲う。
親の前で子を甚振り、「自分が身代わりになれば助かるかもしれない」と足掻かせてから、その目の前で子を食い殺す。
その瞬間。
絶望の淵に叩き落された魂から、芳醇な香りが噴き出す。
熟れすぎた果実が腐る寸前の、鼻の奥が痺れるような芳香。
啜れば、舌に絡みつく粘り気と、脳が蕩けるような糖度。
そして喉越しには、鉄錆と涙の苦みが残る。
ただの恐怖が「水」なら、希望から転じた絶望は「極上の蜜」だ。
一度この味を知れば、もう薄い恐怖なんぞですすぎ水にもなりはしない。
食って、食って、食らい尽くした。
思考は霞み、自分が何者だったのかも忘れた。
俺は「藍黒の王」。絶望を体現するモノ。それ以外の定義は必要ない。
ある日、懐かしい臭いがした。
黒い狼の群れ。
その先頭に立つ、ひときわ大きい黒銀の個体。
何か、知っている顔のような気がした。
目の前の獣は、先ほどから必死に何かを喚き立てている。
意味の持たない音の羅列。
それがひどく耳障りで、俺の意識を逆撫でする。
――ああ、うるさい。
だから、前足で薙ぎ払い、その首元に牙を突き立てた。
これで終わりだ。
牙が肉に触れた刹那、ふと興が削がれた。
なぜだろうか。殺す気になれない。
気まぐれに、殺すのをやめ、「支配」することにした。
◆
群を支配するのは、意外にも便利だった。
こいつ等は俺のために餌を集め、献上してくる。それを寝たまま食うのは楽だった。
数を増やそうと思って、周辺の群れも併合していく。
併合する時は、群れのリーダーを確実に殺す。
無様で惨めな死に様を見せつければ、残りの有象無象はすぐに屈服し、極上の絶望を提供してくれる。
最初に群を支配したときのような「気まぐれ」が起きることは、二度となかった。
なぜあの時だけ殺さなかったのか、自分でも分からない。
群れの役割は、単に餌を集めるだけではなくなった。
群れの中で、弱い個体が徹底的に虐げられ、嬲られる。
俺が手を下すまでもなく、恐怖に支配された同族たちが、自ら「絶望」を生産し始めたのだ。
ただ、黒銀の個体と目が合うたびに、俺の中の何かが軋む。
あいつを見ると、なぜか弱い奴を虐げて絶望を啜る気が失せてしまう。
食欲が減退するような、喉の奥に小骨が刺さったような、ひどく不快な感覚。
だから俺は、なるべくあいつを視界に入れないようにした。
群れの惨状に耐えられず、逃げ出す奴もいたが、深追いはしなかった。
近くで見かければ殺すが、南の方角、つまり人間の領域へ逃げ込む奴は放置した。
そいつらが人間を襲い、恐怖をばら撒くことで、南から流れてくる「絶望の霧」の味が増すことがあるからだ。
◆
ある時から、南から流れてくる「藍黒の霧」が減っていった。
代わりに混ざるようになったのが、鼻が曲がるような「強烈な悪臭」だった。
「希望」だの「感謝」だの「明日への活力」だの……吐き気を催すような臭いが、俺の食卓を汚染し始めたのだ。
誰だ。
誰が俺の牧場に毒を撒いた。
そしてついには、供給が完全に止まった。
飢え。
苛立ち。
俺は近くにいた部下を噛み殺したが、何の慰めにもならない。
腹が減った。腹が減った。腹が減った。
理性のタガが、焼き切れる音がした。
残っているのは、強烈な渇望だけ。
「行け」
俺は群れに命じた。
「南の村へ行け。人間を襲い、恐怖させ、再び絶望させろ。さもなくばお前たちを全て食う」
群れが動き出す。
視界の端で、黒銀の狼が何か言いたげにこちらを見ていた。
だが、俺は無視した。
許さない。俺の食事を邪魔する奴は、誰であろうと許さない。
さあ、晩餐の時間だ。
あの不快で幸せそうな連中を、極上のスパイスに変えてやる。
恐怖しろ。絶望しろ。そして俺を満たせ。
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