幕間 名もなき少女の、最初のバール
去っていく男の人の背中を、私はただ呆然と見つめていた。
路地裏の闇に溶けていく、私より少し年上の男性。
名前も知らない。顔もよく見ていない。
ただ、彼が放った暴力的なまでの「力」の残滓だけが、網膜の裏側に焼き付いて離れない。
法も警察も頼りにならないこの世界で。
探索者という名の怪物が跋扈するこの東京で。
あの人は、私を襲った男たちを「カス」と呼び捨て、ゴミのように蹴散らした。
躊躇なく。
慈悲なく。
そして、何の見返りも求めず。
(……強くなりたい)
言葉が、震える唇からこぼれ落ちた。
守られるだけの弱い自分ではなく。
理不尽な暴力に怯えるだけの存在ではなく。
彼のように、誰にも脅かされない「力」が欲しい。
アスファルトにへたり込んでいた足に力を入れる。
膝が笑う。
それでも、私はゆっくりと立ち上がった。
恐怖で強張っていた拳を、白くなるほど強く握りしめる。
もう、私の足は大地を踏みしめていた。
◆
数日後。
私は探索者協会の受付に立っていた。
大学の講義をサボり、財布の中身をすべて握りしめてここに来た。
ロビーを行き交うのは、屈強な男たちや、派手な装備に身を包んだ探索者ばかり。
場違いな女子大生である私に、好奇の視線が突き刺さる。
けれど、以前のような胃が縮むような恐怖はなかった。
「――えっと、探索者登録をご希望ですね?」
受付カウンターの向こうで、女性職員が困ったような笑顔を浮かべた。
無理もない。
どこにでもいそうな平凡な女子大生が、いきなり「探索者になりたい」と言い出したのだから。
「はい。お願いします」
「分かりました。では、こちらの書類に記入を……あ、あと、適性検査も受けていただきますね」
手続きは淡々と進んだ。
そして、装備の貸与についての説明になった時だ。
「初期装備として、協会指定の武器をレンタルできます。ショートソード、ダガー、メイス、槍……どれになさいますか?」
お姉さんがタブレットに表示された武器リストを見せてくれる。
どれも初心者向けに調整された、扱いやすそうな武器だ。
だが、私の求めているものはそこにはなかった。
「あの」
「はい? 何かご希望が?」
「……バールは、ありますか?」
「はい?」
お姉さんがきょとんとした顔をする。
周囲の探索者たちも、聞き間違いかと思ってこちらを見た。
私はもう一度、はっきりと言った。
「バールです。釘抜きがついた、鉄の棒です」
「え、えっと……それは武器ではなく、工具のカテゴリーになりまして……」
「ないんですか?」
「い、いえ、探索用の資材として販売はしていますが……武器として使われる方はあまり……」
彼女は困惑しきっていた。
当然だ。バールをメインウェポンにする探索者なんて聞いたことがない。
でも、あの人は使っていた。
あの圧倒的な暴力の象徴。
鈍い音を立てて骨を砕き、肉を抉った、無骨な鉄塊。
あれこそが、私にとっての「強さ」の形だった。
「じゃあ、それを買います。一番丈夫なやつをください」
「は、はぁ……」
結局、私は全財産をはたいて、頑丈なチタン合金製のバールを購入した。
長さ七五センチ。重量二キログラム。
手に持つと、ずしりとした質量が掌に食い込む。
冷たい金属の感触が、高揚した頭を少しだけ冷やしてくれた。
「……おい、見たかよ今の」
「バールて。解体屋にでもなるつもりか?」
「プッ、素人はこれだから」
背後で男たちの嘲笑う声が聞こえた。
彼らは知らないのだ。
この鉄の棒が、どれだけの可能性を秘めているかを。
あの人が見せた、理不尽すらねじ伏せる力を。
(見てなさい)
私はバールを握りしめ、心の中で誓った。
いつか必ず、あの人のようになると。
誰にも負けない、最強の探索者に。
渚 凛、二十歳。
後に「解体屋リン」の異名で呼ばれ、日本最速でプラチナ級に到達することになる彼女の伝説は、一本のバールから始まった。
もちろん、彼女が憧れたその男が、システム補正を一切使っていない「完全手動」の変人だったことを知るのは、まだ少し先の話である。
5話でおじさんが助けた女の子です。
明日から2章異世界ダンジョン編がスタートします。
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