第19話 完全手動(フルマニュアル)おじさんは、帰れない
◇
痛くなるほどの静寂。
先刻までの轟音が嘘のようだ。ダンジョンの淡い燐光だけが、無慈悲に崩落跡を照らし出している。
「返して……ッ!!」
絶叫が、喉を引き裂く。
舟木葵の身体は、思考よりも先に動いていた。
風魔法で加速された刃が、虚空を薙ぐ。ヒュン、ヒュン、という風切り音だけが、耳障りなほど鮮明に響く。
「返せよッ!! どこに行ったのよッ!!」
そこに敵はいない。
ワームは既に、空間ごと彼を飲み込んで消え去っている。
頭では理解している。
だが、本能が納得を拒絶していた。
認めない。認めるものか。
あんな、あんな終わり方なんて。
「あぁぁぁぁぁぁッ!!」
魔力はとっくに底をついている。
肺が焼けつくように熱い。腕の感覚もない。
それでも、刃を振るうことだけはやめられない。切っ先が地面を叩き、無意味な火花を散らす。
空間を切り裂いてでも、彼を取り戻せるなら。
だが。
「はぁ……はぁ……っ」
唐突な限界。
糸が切れた操り人形のように、膝から崩れ落ちる。
カラン、と乾いた音を立てて、日本刀が手から滑り落ちた。
泥と埃にまみれた視界。
その先には、何もない。
ただ、不自然に円形に抉り取られた地面があるだけ。
男がいた場所には、もう誰もいなかった。
……いいや。
違う。
視界の端に、異質な「黒」が映り込む。
瓦礫の隙間に、無骨な鉄塊が転がっていた。
彼女を突き飛ばした拍子に、彼の手から離れたのだろうか。
持ち主を失ったそれが、月の光を吸い込んで鈍く沈殿している。
震える指先が、それに触れる。
ひどく冷たく、そして重い。
黒鉄のバール。
無骨で、飾り気のない、あの人そのもののような武器。
彼が最期に、私を生かすために手放したもの。
「……なんで……」
喉が張り付く。
助けられた。
クイーンとの戦いだけでなく、二度も。
彼は自分を犠牲にしてでも、他人を生かす。
でも、残された方は?
その命の重さを背負わされた人間は、どうすればいい?
ふらつく足取りで立ち上がる。
バールを握る手に、力がこもる。冷たさが、掌に痛いほど食い込んでくる。
ここにはもう、何もない。
報告しなければならない。待っている人たちに。
一歩踏み出すたびに、鉛のような絶望が足に絡みつく。
それはまるで、彼の無念そのもののようだった。
◇
地上は、ひどく静かだった。
西東京を騒がせた怪物が、遠く離れたこの上野の地下に潜んでいたことなど、誰も知らない。
数えきれないほどの希望を咀嚼し、飲み込んできた「捕食者」。
放っておけば、この平穏な夜すらも、悲鳴と鮮血で塗り替えていたはずの災厄。
それをたった二人の探索者が、人知れず食い止めたことなど、世界は知る由もない。
協会職員用の待機室。
殺風景な部屋の簡易ベッドに、身を寄せ合う母子の姿があった。
沙織は、窓の外――ダンジョンの入り口がある方向を、祈るような目で見つめ続けていた。
足音に気づき、沙織が弾かれたように顔を上げる。
その表情に、安堵の色が灯りかけ――そして、凍りついた。
舟木の背後に、誰もいない。
そして、彼女の手には、見覚えのある「それ」が握られている。
黒鉄のバール。
あの人が、身体の一部のように扱っていた、魂の片割れ。
それが今、持ち主の手を離れ、舟木の手にある。
黒鉄の質量が、雄弁に「不在」を物語っていた。
「……あ」
漏れ出たのは、言葉ですらない吐息。
問いかけることすらできない。
その答えが、あまりにも残酷なものであると、本能が悟ってしまったから。
舟木は何も言えない。
ただ、唇を噛み締め、手の中のバールを抱きしめるようにして俯く。
「……嘘……」
沙織の足から力が抜ける。
その場に崩れ落ちそうになる身体を、必死に踏みとどまらせる。
腕の中の、小さな温もりを守るために。
「嘘よ……だって、あの人は……」
言葉が続かない。
認めたくない現実が、夜の冷気と共に肌を刺す。
「ん……ママ……?」
その時、翔太が身じろぎした。
眠い目をこすり、周囲をきょろきょろと見回す。
そして、純粋な疑問を口にした。
「あれ、おじちゃんは? おじちゃん、かくれんぼ?」
無邪気な問いかけ。
それが、何よりも鋭利な刃となって、大人の心臓を抉り抜く。
かくれんぼ。
そうであればどれほど良かったか。
「もういいかい」と呼べば、「まあだだよ」と返ってくるなら、どれほど救われるか。
「……っ!」
沙織が顔を覆う。
指の間から、堪えきれない嗚咽が漏れた。
「……返してよ」
震える声。
それは悲しみだけではない。理不尽な運命への、行き場のない怒り。
「真面目に働いて……ただ、家族と笑っていたかっただけなのに……ッ!」
「なんで……なんで、何もかも奪われなきゃいけないのよッ!!」
顔を上げる。
濡れた瞳の奥、灯ったのは悲嘆ではない。もっと昏く、重い、熾火のような熱。
「許さない……」
それは、守られるだけの弱者が抱く感情ではない。
奪われた者が、奪い返すために抱く、復讐にも似た決意の光。
普通の主婦だった彼女の中で、何かが変質した瞬間だった。
「……私もです」
舟木が、ようやく声を絞り出す。
顔を上げる。
その瞳にもまた、沙織と同じ昏い決意が宿っていた。
手の中のバールを、血が滲むほど強く握りしめる。
「私も、許せません。絶対に」
何を、とは言わなかった。
モンスターをか。
ダンジョンをか。
それとも、無力だった自分自身をか。
夜空には、無関心な月が浮かんでいる。
世界は何一つ変わっていない。
8月の終わり。まだ夏の熱気も落ち着いていないはずの季節。
ただ、一人の「完全手動の変わった探索者」が消えただけ。
それなのに、夜の闇は二人の大人に、真冬のように冷たく、重くのしかかっていた。
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